CubとSRと

ただの日記

社会主義国は弁証法までも否定するのか?

2022年06月22日 | 重箱の隅
 「量質転化を忘れてるじゃないか・・・。いや、そこまでも至ってないか」
           2017.01/06 (Fri)

 切っ掛けはchina問題。
 ちょっとしたこぼれ話を目にして、今回も色々と考えさせられました。
 けど、さらっと書きゃ、ただの皮肉だけの文章になる。下手すりゃ愚痴って終わり、となるだろう。そんなもの書いたって神経体力を消耗するばかりで、共感する人はあっても先へは進めない。食事の時間まで狂うから、体力だって消耗する。
 隣国のわがまま勝手に付き合って、こっちが疲れ果てるなんて、まっぴらごめんだ。それだけじゃない。共感する人よりも、「シナ」と書いたのを見ただけで、「あ、この人、ネトウヨなんだ!偏った考え方してるだろうから、読むのやめとこ」、となる人の方が多い。
 シナ=差別用語、と学校で習ってるんだから、「ネトウヨ」「偏った考え」となるのは当たり前。

 ・・・・なんてことをグダグダ書いてたら、また脱線してしまいますから。
 本題に入りましょう。

 一つは、こんなことです。これからの対日姿勢について。
 「長い間、中国が日本を必要とする時代が続いた。しかし、今や日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。これからは中国が主導権を取るのだから、今後は日本も含め、在中外国人に点数をつけて、必要な人材を選択することにしよう」「今後の中国の発展に役立つ若い優秀な人材だけ入国させる。年寄りや高学歴でない者は要らない」。
 こういう観点から、彼らは日本に対する採点基準表をつくった。

 「恩をあだで返」そうというわけではありません。しかし、それよりもっとひどい。「恩を受けた」、という発想、感謝の念、自体が、ない。「好きの反対は嫌い、ではなく無関心」というやつです。「嫌よ嫌よも 好きのうち」なんて言葉もありますからね。
 社会主義体制以外は全否定なわけですから、外側からの「恩」、なんて有り得ないし、外側に感謝するなんて無意味。否定すべき存在に感謝なんかしたら、否定したことにならない。
 で、下の引用文がchinaの本音、と言ったところでしょう。

《「1972年に中日が国交正常化して以降、長い間、両国関係は、中国が日本を必要とする時代が続いた。そのため両国関係の主導権は、常に日本側にあった。
 ところがいまや、中日関係は、日本が中国を必要とする時代に変わったのだ。たしかに日本企業が持っている最先端技術は、いまも変わらず貴重だが、それらのほとんどは欧米企業とのビジネスで代替可能だ。
 われわれがいま、日本からどうしても欲しいのは、高齢化社会に関する知見くらいのものだ。逆に日本企業にとって、14億人の中国市場は死活問題だろう。
 それなのに、日本人はいまだに、1980年代のような発想で両国関係を考えている。来年4月からの外国人の3分類も、今後は中国が主導権を取って、来てほしい外国人にのみ来てもらうということだ。われわれはもはや、パンダではなく竜になったのだ」  「週刊現代」2016年12月24日号より 》

 天安門事件で世界中の国から総スカンを食わされて、すっかり孤立してしまっていたchinaに、珍しく日本は世界の空気を読まずに援助の手を差し伸べた。
 同じ社会主義国ながら、ソ連とは疾うに袂を分かっていた。その時はいきなりソ連の技術者が全て引き上げてしまって、随分長い間、地面に這いつくばっていたのが、やっと何とか飢えることはなくなった、これからは民主化の風を受け入れようという気風が生まれ始めた時だった。
 それを「共産党に反旗を翻す重大問題」であるとして、1989年6月4日、学生運動を弾圧、人民解放軍はデモを蹂躙し、学生を戦車で引き潰した。
 まるでマンガみたいに、シャツとズボンが血の海の中に人の形でプレスされて、肝腎の人影は全く見当たらなかった写真を見たことがある。
 しかし、china共産党は「天安門でそんな事件は起こってない」と言い張って、世界が呆れて、総スカン、だったのに。

 日本が手を差し伸べたからこそ、回復のきっかけができた。
 だからと言ってそれに「恩を感じろ。もっと大事に扱え」、なんてことは、日本は口が裂けても言わないのが美徳、と思っている。
 そんな日本人の人の好さに付け込んでこういうことを言うのだろうか。半島国ならそれも有り得るだろう。しかし、chinaは違う(筈)。

 いやいや、社会主義国になる前は、恩を感じる人もいた。「井戸を掘った人のことを忘れない」という金言は、そういう人のいたことを証明している。「愚公、山を移す」だって人の心が確かに見える。
 しかし、社会体制が変わって、それも社会主義一党独裁体制になってしまえば
 「結果が大事なのであって、過程を省みる必要はない」
 「井戸があることが大事なのであって、掘った人のことを覚えておかねばならぬ理由はない」
 では、本当にそうなのか、というと、当然、この考え方は全くの間違いなのだ。

 けれど、社会体制は違っても戦後の日本、同じような方向に進んでいる、と言ったら果たして肯かれるだろうか。
 70年安保闘争の頃の若者を親に持つ現代の親は、間違いなく、感謝知らず、恩知らず、そして傲慢に生き、次世代の子を育てているのだが・・・・。



 次回は
 「中国人は一人なら龍。日本人は一人なら虫けら」
 、と言われていることについて、です。



コメント
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