「一人なら龍ほどの力を持つ」?・・・・。なるほど一理ある
2020年03月10日 | 重箱の隅
前回、「もう用はない。必要なことは全て手に入れた」という姿勢では、劣化版からのコピーが出発点ということだから、量質転化があっても本物を超えることはできない」というようなことを書いた。そこに「恩(教えた者に対する肯定的な見方)」がないのだから、そうなるしかない、と。
彼らの唯物(ただもの)的思考(ただの物としてのみ捉えること)の結果、作り続けられることになる劣化コピーは、何も「物」だけではない。
形に現れない「モノ」にも、それは起こる。心持、意欲、意識、気概などと言われるものも、取り組み方次第で量質転化は起こるものだし、見えないからこそその量質転化には雲泥の差があるだろう。けど、見えないものだから、最初にそれを切り捨てて学ばなければ、ついに分かることはない。
「今は存在しない新しいもの」、を作り出すのは人間だけだ。そのために手足に指令を出すのは頭(=精神)だ。頭が向上しなければ更なる新しいものは作れないということだ。
頭を育てることなくして、技術のみでコピーを繰り返す。
教えられたことがうまくいかなくて「いい加減なこと教えやがって」と舌打ちしながら工夫を重ねるのと、「なぜうまくいかないのだろう。あんなに容易くやって見せてくれたんだけど」と苦しみながら工夫を重ねるのとでは、同じ結果は生まれない。
たとえて言えば、「教えてみろ。習ってやるから」という傲慢な気持ち。例えば「習うのはいいけど、教授料が高過ぎる。隙を見て機密事項を盗んでやろう」という姑息な心積もり。そういう姿勢から手に入れるものと、謙虚に習おうと自らに言い聞かせ続けるのとでは到達点が全く違う。手に入れた技術自体も違うけれど、それを今後用い続けようという時の心がけに雲泥の差ができることは想像に難くない。
・・・ということで、すっかり遅くなってしまった「中国人は一人なら龍だが~」のことなんですが。
「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
http://news.searchina.net/id/1626190?page=1
今回のこれまでの日記に書いたことを下敷きにすると、彼の国の人は「恩」を感じて、或いは習う際、教授方を肯定視して、「学びてこれを習う」ならぬ「信じてこれを倣う」という態度が、少なくとも社会主義国家建設以降は、教育されていないらしいことが看て取れます。
そうなると彼らの話に引用される故事や慣用句、常識とされている語句等も、意外にいい加減にしか把握されていないのではないか、という疑念が起こってきます。それ以前に、「社会主義国」、なわけですから、「中国四千年の歴史」なんて、そのうちの三千九百三十年ほどの国の在り方は否定するわけですからね。
だから社会主義革命を起こしたわけでしょう?それとも「批判的に接取した」のだからいい、のかな?だから墓まで暴いて否定した筈の学者の名前を冠した「孔子学院」なんてのを世界中に作ることができるということかな?
そんな彼の国の、世界に誇る存在である「龍」、です。本意を考えたことがあるのでしょうか。ただ何となく使っているだけではないのでしょうか。
もしかしたら日本人のほうが、よっぽど龍について大事に思っていて、考え、敬して「かくありたい」などと思っているんじゃないか、なんてことを思うんだけど、どうでしょうね。
「龍」とは何か。勿論、架空の存在です。ただし、怪し気な魔物、ということではなく最高の霊的存在であるとされています。日本では神そのものとして祀られることもあります。那智大社の大滝は飛龍(ひろう)神社というのだそうですが、いうまでもなく「瀧」の文字の通り、「龍」の姿をそこに感じた古人が祀ったことが始まりでしょう。
雲を呼び雷を起こし、天空を自由自在に駆け回る圧倒的な力を持つ存在。「龍虎」と並び称されることが多いけれども、地上の虎と天空の龍は明らかに扱いが違います。ついでに、黄龍は皇帝の象徴でしたっけ?
そんな想像を絶する力を持つものが「龍」。
そうなると「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが~」?えっ?意味分からん。どこが龍だ?どこが龍に重なるんだ???
しばらく考えました。そしてやっと見つけました。確かにありました、「龍」に重なるところが。
「天空を自由自在に駆け回る」のが龍、です。この中の「自由自在」が彼らと見事に重なる。「中国人は1人なら龍の如く【自由自在に】駆け回る」。
自由自在。自らの思った通り、欲望のままにやりたい放題の行動をする。「傍らに人無きが若し」。「傍若無人」、です。
一人なら周囲が眉を顰める。二人目は自身が眉をひそめながら、でも自分も周囲に嫌な思いをさせていることに気が付かない。
これが三人集まれば。みんな「自由自在」だから、協力とか団結なんて思いもしない。とにかく「自分の自由自在」の邪魔をするものはみんな敵だ、とばかりに叩き始める。元が「龍の自由自在」ならぬ、「小人の傍若無人」でしかないから、龍の力は持ってない。
「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
「一人なら(実力もないのに)龍だ(と思い込んでいる)」けど、(ただの傍若無人でしかないから、)「三人集まったら(力を合わせるどころかお互いを叩き合う)虫けらだ」
本当はこういう意味のように思うんですけどね。さて、どうでしょう。
日本人に関しては言わずもがな、なんで省略します。
ただ、戦後教育を受けた我々には、ちょっと褒め過ぎかも、という気がしないでもない。
2017.01/12