6月16日(木)
初めは「無為の一日」と書こうとしたが、何となし看板に偽りありの気分。
「積極的に何もしない」というのは淡々と生きるということでもある。
そういう生き方(生活)は、何だか仙人にでもなったかのような気分だが、自分の場合はただ時間に流されて気が付いたら一日が過ぎていた、ってだけなんだ。
それでも腹は減る。だから十分、いや十二分に食べることは、する。
ということは「無為の一日」、じゃなくて「無駄飯喰らい」、「無為徒食」ということだな。
宮沢賢治は「一日ニ玄米三合ト味噌ト少シノ野菜~」(本当は玄米四合と書かれてあったらしいけど)があれば良い、それで「私心を捨ててみんなのために生きたい」と思って、自身への戒めとして原稿用紙ではなくノートに「雨ニモ負ケズ」という詩を書いた。できている云々ではなく「そうやってみたい」、と。
その思いを「ペンネンネンネン・ネネムの伝記」で形にし、書き直して「グスコーブドリの伝記」を作った。
賢治は生き方の理想としてこの話を書いた。繰り返すけど、だから、できていたということではない。
要はそういう姿勢で生きたい、と、一瞬でもいい、「思う」ことなのだ。
というわけで?「無為徒食」。気が付いたら日暮れだった、と。
何を威張って書いてんだ?
「無為徒食の一日」
そうなったのに大した理由があったわけではない。昨日は小雨が降り、今日は雨模様で、時折り雨と見紛うような霧に襲われたというだけ。
草刈りをする気にもならず、今年度の税金の決定通知を受け取り、開封してみただけだった。
散髪に行こうかと迷っていたのだが、降らないという予報ながら雨模様。
どうもその気にならなかった。
何より、昨晩の夜更かしが祟って、今日行ったら間違いなくひげを剃ってもらっている間、あまりの気持ちの良さに寝てしまうだろうことが十分に予想できていたから。それも鼾をかいて。
昭和天皇はいつも髭をあたられている間は気持ちよさそうに寝息を立てておられたとか。気持ちの良さとすっかり安心して身を任せておられたからという話を読んで、えらく感心した。
こっちは「散髪をしてもらっているんだから寝ちゃいけない」、と思うばかりで必死になって目を開けていたものだったが、「そうか、安心して身を任せているんだから、失礼にはならないだろう」と刮目させられた気がした。
まあ、今はそれよりも、眠ってしまっていて散髪が終わり、鏡に映る変わり果てた自分の「滅びゆく草原」みたいな頭をいきなり突きつけられる方がショックだから、散髪中から薄目を開けて心の準備をしている方が良い。
そういうわけで、さっき風呂に入り、頭を洗う。
マックスフリッツのバイク用パンツを干し掛けておいて寝ることにする。