社報「靖國」令和4年3月号に掲載された文です。
数回に分けて転載しようと思います。
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「靖國神社と父」
織田邦男(航空自衛隊 元空将)
父が百二歳で天寿を全うしてから、早や五年が経つ。父は律儀で真面目な大正人だった。彼は我々子供達にも戦前の事をあまり語りたがらなかった。
九十歳の誕生日のことだ。筆者を前にして「もうそろそろ、えいじゃろう」と切り出した。何事かと思っていると、「わしは戦艦大和を造っていたんじゃ・・・」と語り始めたのだ。
どうやら呉工廠で戦艦大和の第二砲塔の油圧を担当していたらしい。筆者にとっても初耳だった。大和建造について語り終えたあと、「戦艦大和については、家族にも話してはならぬと命ぜられていたんじゃ」と述べた。
筆者は大変驚いた。海軍からの御達しを、戦後六十年経っても律儀に守り通す。もう帝国海軍は消滅しているにも関わらず、しかも戦前を知らない筆者に対しても箝(かん)口令を守り通すとは。最後に「わしももう長くはないからな・・・」とポツリと述べた。禁を破った罪悪感からか、すこし寂しそうに見えた。
筆者は、ここに実直な「大正人」を見た思いがした。先の大戦での戦歿者は圧倒的に大正人が多い。大正人の七人に一人が戦歿している。しかも戦後復興の原動力も大正人が主力だった。
父には九歳年下の弟がいた。筆者には叔父にあたる。彼は海軍パイロットになり、昭和十八年十一月二十日ギルバート諸島上空にて散華された。父は弟についてもほとんど語らなかった。戦死がよほど辛かったのだろう。靖國神社には上京する度に必ず参拝していた。
筆者は叔父の飛行服姿の遺影を見て育った。これが航空自衛隊パイロットを天職に選んだ切っ掛けだった。叔父に守られ無事天職を全うできたことを心から感謝している。
父が最後に靖國参拝したのは、九十歳後半だったと思う。姉が神戸から付き添い、東京駅から筆者が案内した。もう足腰は弱っていたが、杖を突きながら気丈に昇殿参拝を果した。本人もこれが最後だと覚悟していたのだろう。参拝が終わった後、清々しい喜びの笑顔が印象的だった。
杖を突きながら境内を歩いている時、父はポツリといった。「何で靖國参拝に反対するんじゃろうのお」と。筆者はとっさには答えられなかった。
国に殉じた先人に対し、国民が尊崇の念を表し、感謝し、平和を誓うのは世界の常識である。米国ではアーリントン国立墓地に、韓国ではソウル国立墓地(国立ソウル顕忠院)に、フランスでは凱旋門の無名戦士の墓に、国家のリーダーが国民を代表して参拝する。だが日本だけが違う。
平成二十五年十二月二十六日、安倍晋三首相が靖國参拝して以来、現職首相は参拝していない。日本は何故、国際常識に沿ったことができないのか。父の素朴な問いかけである。
(以下次回)