書き忘れていた。
今朝(3/1)の早朝散歩。
雨が上がって数時間(だと思う)の路面に、慌てて一歩を踏み出す。
慌てていた理由はいつもの通り。寝坊してしまったから。
まあそれは横に置いといて。
空を流れる雲の美しさに驚いた。
水色とピンクの空の下、絹雲と言うのだろうか、薄い絹織物、いや、引きちぎられた和紙の繊維のような薄雲が北から南へ流れてゆく。
「息を呑むような美しさ」というありきたりの表現しか思いつかない語彙の乏しさが我ながら何とも残念。
振り返って西の空を見ると、こちらは光を吸収するだけの重苦しい灰色の雲に覆われ、時が停まっているように見える。
日記を書くのはボケ封じのため、と思っているけど、話すことをしなくなった結果、適切な言葉を口にできなくなり、「それ」「あれ」などと代名詞だけで済ませてしまうようになる会話も問題だ。こちらの場合は時の流れに縛られているわけだから、一旦口にした言葉は取り消せないし、ボケてなくたって時機に即して言葉が口を衝いて出るとは限らない。
何より一人で喋っているのはただの変な奴。
結局「ああでもない、こうでもない」、と頭をひねって文章を書くことが一番かと思う。これなら器用不器用関係なし。体力とかセンスとかも関係ない。筆記用具を持って紙面に向かうだけだ。
問題は紙面に向かって一字も書けない状態になってしまうことが往々にしてある、ということ。
それで「だから文章が書けない」、「だから書けなかった」と言って来た。
けど、これ、そうじゃないんだと説いてくれる人も結構ある。
その時、本当に「筆記用具を手にしたのか」「紙面に向かったか」「机の前に座ったか」。
意外に「そういえば、そこまではしてなかった。やる気はあったんだけど」で止まってないか。
兼好法師は「心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書きつ」けることができた。「あやしうこそものぐるほし」いことばかりだけれど、と謙遜しながら。何となく日を過ごしているうちに、いつの間にかできた、と言っている。
「へえ~、すごいもんだ」と思っていたけど、見落としていた。
それが「硯に向かひて」の一言。墨を摺る時間を見落としていた。
更に、墨を摺ろうと硯に向かうそれなりのきっかけがあった筈と言うこと。
一日一度、似たような時間に(同じコースだって)散歩に出れば「何時何分に散歩に出た」くらいは書ける。書き出せば次の一言が連なって出てくる。
決まった道であっても「時間が違う」、「歩く速さが違う」、「空模様が違う」。「目に入る景色」だって全く同じ筈はない。
そうなれば「毎回同じことしか思いつかない」筈はない。
そういうことや、思い出したりしたことを脈絡などなくとも書きつける。書きつけながら三題噺のようにそれなりに辻褄を合わせるように大なり小なり、知恵を絞る。
こういうことが大事なのではないか。