国旗に礼!③ (ただの布きれだけれど)
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2012.10/26 (Fri)
国旗を切り貼りして、党旗に見立てて演壇の後ろに掲げた。
「悪ふざけが過ぎるだろう!HPにも載せたのか!?」
と思っていたら、
「我々の神聖なマークであるからきちんと作らねば」
と、こともあろうに党代表が言った。
その時点で、もうこれは救いようのない話だ、と思った。
その後。
演台脇に立て掛けられていた国旗に一礼もしない閣僚が半分以上で、顰蹙を買った、と思ったら、今度は一目で分かる「恰好だけで心のない礼」を、全員がするようになった。
色々な出来事に、思いもよらない対応が次々に為される民主党政権。
その対応は回を重ねるにつれてどんどん下卑てくる。
「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」、どころではない。泥濘はますます深くなり、底なし沼の様相を呈してくる。
そして遂に総理は泥濘に棲む「泥鰌」になった。
国旗を切り貼りする。国旗に一礼だにしない。そして国旗より党旗の方が神聖だ、みたいな発言にとどめをさされてしまった。
まあ、しかし「国旗より党旗の方が大事」みたいな発言は、例によってH代表の言い間違いだろう。
何しろ後に「国民の皆さんが私の話に聞く耳を持たなくなってしまった(つまり、国民はあきっぽい、と断定してしまったわけだ)」、なんてことを言って、
「何だその言い方は!」とまたもや顰蹙を買ってしまったりしている。
勿論、これは「聞く耳を持たなくなってしまった」ではなく、
「耳を傾けてくれなくなった」、の言い間違いである。
で、これらのことをここに書こうと思って、うろ覚えのところを調べるため、ネットを見た。
すると、「国旗に礼をしたのが何人だったとか、よくもまあ馬鹿げたことを調べる人がいるもんである」、みたいな記事が結構あった。
そんなことで、愛国心がどうのこうのというものじゃない。そして、実際、そんな「頭を下げるかどうか」で愛国心云々を言われるとしたら、愛国心と言うのは随分と薄っぺらなもの、みたいなことが書かれていた。
大概は同感だ。
「その通り!」である。
頭下げていたら愛国心があって、下げなければ愛国心がない。
礼の角度が三十度なら普通で、六十度なら愛国心があって、九十度の最敬礼なら、もう愛国心のかたまり!
・・・・・・なんてやった日にゃあ、それこそ「あほ」、である。
愛国心なんか欠片もなくたって一礼くらいできる。
それは現閣僚が証明している。
いわゆる国旗なんてものは、ただの図像。現実には紙切れであったり布きれであったりするだけのもの。
そぉ~~んなこと、百も承知だ。
それに頭を下げるなんて、ナンセンスそのものだ。
でもそれ、肝腎なことを忘れている。と言うより、ワザと肝腎なことから目を逸らしている。
子供の書いた悪戯書きと、天下の名画を「同じ絵じゃないか。値打ち云々なんてナンセンス」と言うか?言わない。
日の丸を染め抜いた手拭いで汗を拭くか?
「この国旗、古くなったから、もう雑巾にしようか」と言うか?言わない。
天皇皇后両陛下の正装して写された写真、「同じ写真だろう?」ってキャンプの焚き付けにするか?しない。
実は本当はみんな分かっているのだ。
何故、朝鮮人やシナ人が日章旗を踏みつけたり、引き裂いたり、燃やしたりするのか。
それは彼らが日章旗を「ただの布きれ」とは思っていないことを示している。
日章旗を踏みつけたり、大きな「×」をつけたり、燃やしたりするのは、そうすることによって「日本そのもの」を侮辱するためだ。
言うまでもないこと、国旗はその国の象徴だからだ。みんなその「国旗」の向こうに『日本』を見ているからだ。
裏返して言えば、彼らは日章旗を日本の象徴として認めているのだ。
認めているからこそ「日章旗を毀損することは日本を辱めること」と思い込んでいる。確信している。だから盛大にやる。
脱線するが、そこを分かって逆襲に出たケースを思い出される人もあるだろう。「日の本鬼子」の逆襲に、彼らは呆気にとられ、お手上げ状態になってしまった。
あれ以降、「日本鬼子!」という罵語はあまり見かけなくなってしまった。
彼ら「でさえ」分かっている。
なのに「日の丸は日本を象徴するもの」と分からない日本人がいる。
分からないからこそ「たかが布きれじゃないか」と一顧だにせず通り過ぎる。
それが現政権与党から選ばれた閣僚だったというわけだ。
「一番辛いのは、嫌われることより、無視されること」と言ったタレントがいた。
その伝で言えば、燃やされたり、踏みつけられたりする方が、国旗として認められないことより数倍マシだ、ということになる。
国旗の向こうに「日本の素晴らしい国の形」を見出そうとせず、心のない形式だけの礼をする。これで「口をあけて歌っているかどうかチェックする」という大阪のやり方を批判できるだろうか。
「国旗に礼!」
それは国旗の向こうに常に「あってほしい国の姿」が見える者なら、言われずとも当然のごとくにすることである。
言われなければ国旗の存在を気にも留めなかった。
言われてから、心のない形式だけの礼をする。
「あらまほしき国の形」を見ようともしない、そんな議員を集めて作った内閣。
それをつくらせたのは、同じく国旗の向こうを見ようともしなかった我々日本国民ではなかったのか。
「国旗のたたみ方」が大事なのではない。
国旗を引きずらないように、丁寧に扱おう、大事にしよう、それは日本の象徴、日本そのものだから、という「国旗の先を見る心」こそが大事なのだ。
国旗を切り貼りして、党旗に見立てて演壇の後ろに掲げた。
「悪ふざけが過ぎるだろう!HPにも載せたのか!?」
と思っていたら、
「我々の神聖なマークであるからきちんと作らねば」
と、こともあろうに党代表が言った。
その時点で、もうこれは救いようのない話だ、と思った。
その後。
演台脇に立て掛けられていた国旗に一礼もしない閣僚が半分以上で、顰蹙を買った、と思ったら、今度は一目で分かる「恰好だけで心のない礼」を、全員がするようになった。
色々な出来事に、思いもよらない対応が次々に為される民主党政権。
その対応は回を重ねるにつれてどんどん下卑てくる。
「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」、どころではない。泥濘はますます深くなり、底なし沼の様相を呈してくる。
そして遂に総理は泥濘に棲む「泥鰌」になった。
国旗を切り貼りする。国旗に一礼だにしない。そして国旗より党旗の方が神聖だ、みたいな発言にとどめをさされてしまった。
まあ、しかし「国旗より党旗の方が大事」みたいな発言は、例によってH代表の言い間違いだろう。
何しろ後に「国民の皆さんが私の話に聞く耳を持たなくなってしまった(つまり、国民はあきっぽい、と断定してしまったわけだ)」、なんてことを言って、
「何だその言い方は!」とまたもや顰蹙を買ってしまったりしている。
勿論、これは「聞く耳を持たなくなってしまった」ではなく、
「耳を傾けてくれなくなった」、の言い間違いである。
で、これらのことをここに書こうと思って、うろ覚えのところを調べるため、ネットを見た。
すると、「国旗に礼をしたのが何人だったとか、よくもまあ馬鹿げたことを調べる人がいるもんである」、みたいな記事が結構あった。
そんなことで、愛国心がどうのこうのというものじゃない。そして、実際、そんな「頭を下げるかどうか」で愛国心云々を言われるとしたら、愛国心と言うのは随分と薄っぺらなもの、みたいなことが書かれていた。
大概は同感だ。
「その通り!」である。
頭下げていたら愛国心があって、下げなければ愛国心がない。
礼の角度が三十度なら普通で、六十度なら愛国心があって、九十度の最敬礼なら、もう愛国心のかたまり!
・・・・・・なんてやった日にゃあ、それこそ「あほ」、である。
愛国心なんか欠片もなくたって一礼くらいできる。
それは現閣僚が証明している。
いわゆる国旗なんてものは、ただの図像。現実には紙切れであったり布きれであったりするだけのもの。
そぉ~~んなこと、百も承知だ。
それに頭を下げるなんて、ナンセンスそのものだ。
でもそれ、肝腎なことを忘れている。と言うより、ワザと肝腎なことから目を逸らしている。
子供の書いた悪戯書きと、天下の名画を「同じ絵じゃないか。値打ち云々なんてナンセンス」と言うか?言わない。
日の丸を染め抜いた手拭いで汗を拭くか?
「この国旗、古くなったから、もう雑巾にしようか」と言うか?言わない。
天皇皇后両陛下の正装して写された写真、「同じ写真だろう?」ってキャンプの焚き付けにするか?しない。
実は本当はみんな分かっているのだ。
何故、朝鮮人やシナ人が日章旗を踏みつけたり、引き裂いたり、燃やしたりするのか。
それは彼らが日章旗を「ただの布きれ」とは思っていないことを示している。
日章旗を踏みつけたり、大きな「×」をつけたり、燃やしたりするのは、そうすることによって「日本そのもの」を侮辱するためだ。
言うまでもないこと、国旗はその国の象徴だからだ。みんなその「国旗」の向こうに『日本』を見ているからだ。
裏返して言えば、彼らは日章旗を日本の象徴として認めているのだ。
認めているからこそ「日章旗を毀損することは日本を辱めること」と思い込んでいる。確信している。だから盛大にやる。
脱線するが、そこを分かって逆襲に出たケースを思い出される人もあるだろう。「日の本鬼子」の逆襲に、彼らは呆気にとられ、お手上げ状態になってしまった。
あれ以降、「日本鬼子!」という罵語はあまり見かけなくなってしまった。
彼ら「でさえ」分かっている。
なのに「日の丸は日本を象徴するもの」と分からない日本人がいる。
分からないからこそ「たかが布きれじゃないか」と一顧だにせず通り過ぎる。
それが現政権与党から選ばれた閣僚だったというわけだ。
「一番辛いのは、嫌われることより、無視されること」と言ったタレントがいた。
その伝で言えば、燃やされたり、踏みつけられたりする方が、国旗として認められないことより数倍マシだ、ということになる。
国旗の向こうに「日本の素晴らしい国の形」を見出そうとせず、心のない形式だけの礼をする。これで「口をあけて歌っているかどうかチェックする」という大阪のやり方を批判できるだろうか。
「国旗に礼!」
それは国旗の向こうに常に「あってほしい国の姿」が見える者なら、言われずとも当然のごとくにすることである。
言われなければ国旗の存在を気にも留めなかった。
言われてから、心のない形式だけの礼をする。
「あらまほしき国の形」を見ようともしない、そんな議員を集めて作った内閣。
それをつくらせたのは、同じく国旗の向こうを見ようともしなかった我々日本国民ではなかったのか。
「国旗のたたみ方」が大事なのではない。
国旗を引きずらないように、丁寧に扱おう、大事にしよう、それは日本の象徴、日本そのものだから、という「国旗の先を見る心」こそが大事なのだ。