戦争をするのも平和を実現させるのも同じ人間です。
人間同士なんだから対等な筈で、「相手を見下す」、「人間以下の虫けら」、「ゴギブリ」、「ゴミ」と罵りながら対峙するところから平和なんて実現しないし、戦争だってただの殺戮が行われるだけ。
軍隊をなくせば戦争がなくなる?その通りです、軍隊がなければ戦争なんか起きる筈がない。軍隊のないところに起きるのはただの「殺戮」と「隷従」だけです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」、の「虜囚の辱め」とは現実には何を意味するのか。昭和二十年八月十五日以降のソ連軍が何をしたか。大陸で起こった通州事件とは具体的にどんなことだったのか。
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「自衛隊と国防軍(前)」
2012.12/05 (Wed)
「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」(昭和32年2月)
ご存知の方も多いと思いますが、誰の言かは、ひとまず置いておきます。「昭和32年2月」ということだけ。
昭和26年、七年間の長期にわたる占領の後、晴れて独立国となった日本。防衛大学校の第一回卒業式の訓辞だそうです。
「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」
転載文、初めの方は、時の総理大臣吉田茂。
後の方は、ノーベル賞作家大江健三郎です。
見方は色々でしょう。私は双方について余りよくは知りません。
それは、我々日本国民の大半と同じ程度の知らなさ加減だと思います。
そんな程度でも一人前に国政に物申すことができる。そして、物申さねばならない。
「知らないから黙っておきます」というわけには行かない。言わなければならない。
それが民主主義国家の、一国民の在り方、務め、です。
無責任なことは言えない。日本国民なんですから。
だから、考える。
考え方の目安。
それは、相手を、対象たる人物を、人間として認めようとする姿勢があるか否か、です。
これくらいだったら、誰にだってできるでしょう。
私はこう思います。
「吉田茂は防衛大学校の卒業生に、日陰者であることに『耐えてくれ』と言っている。卒業生の人格を認めるからこそ、『それが国、国民のため』、とその人格を踏みにじられることを、命じている。」
対して
「大江健三郎は『防衛大学生は若い日本人の弱み、一つの恥辱』と言い、志願者がなくなって欲しい、と人格どころか存在を否定している。」
「それぞれ『国、国民のため』ながら、人格を踏みにじられるよう命じることと、存在を否定することと、どちらに相手を『人間として認めようとする姿勢』があるだろうか。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは2011年09月25日の日記に引用した文です。
人として、国民として、他人のために、社会のために、国家のために、何かをしようとする。
そのことに於いて「人格を踏みにじることになるが『~のために』耐えてくれ」
、と命じたのが吉田総理だった。
対して大江氏は、防衛大学生の存在は日本人の弱み、恥辱と言い、存在をなくしたい、と言っている。存在を否定するというより、許さない。勿論、言いたいことは分かりますよ。たった一言「自衛隊なんか、軍隊なんか要らない!」ですよね。
昨年の大地震をはじめとする大災害で、自衛隊の働きは目覚ましいものがありました。
敗戦後、これまでにも災害は数えきれないくらいあり、自衛隊が救助活動に出動し、大きな働きをしたことは、これまた数えきれないほどです。
しかし、どれだけ命懸けの活動をしていてもさほど称賛を浴びることはありませんでした。場合によっては、報道関係者から言葉遣いが乱暴だ、とか不親切だとか批判されることの方が目立っていた。そして報道も必要最小限のものでした。
けれど、今回のように世界中から多くの人の支援があって、自衛隊の活動振りが外国に伝わった時 、却ってあまり報道されなかった自衛隊の働きが、国民に能く見えるようになった。
結果、故吉田総理が言った「国民から歓迎されちやほやされる事態」になってしまった。これは吉田総理の望まぬことです。
では、大江氏は今これをどう思っているのでしょうか。
「お前らには命を救ってもらいたくなかった!」と言うんでしょうか。
それとも
「僕は東北に住んでないから、何の世話にもなってない」
と当たり前のことを言うんでしょうか。
普段は「自衛隊は憲法違反!」と叫び、危急の際は「早く助けに来て!私らの税金で食べてるんでしょう!?」
そんな人はいないでしょうけど(あれ?居たような・・・いや、いませんよね)
でも自衛隊は「サンダーバード」、じゃない。災害救助隊じゃないんです。災害救助もできる、その「能力」も持っている、というだけです。
飽く迄も自国を他者・他国の侵攻から「衛」、衛る、というのが自衛隊の本分です。自らの命を懸けて、他者・他国から護る。
国、国民のために淡々と命を捨てる。自衛隊員全員がグスコー・ブドリ(?)。
ということは、「専守防衛」を標榜する限り、最後には守りきることができず敗退することが運命づけられているということでもあります。
自衛隊、というのは、そういう組織です。
「守れるところまで、守る。それが自衛隊です」
ここまで読んで、「自衛隊をバカにしている!」と感じたなら、それは誤解です。
誰が同じ国民とは言え見ず知らずの人間のために淡々として命を捨ててくれますか。
そんな人々のことを「自衛隊」と呼ぶべきか、と言いたいんです。
「自らを守る」んですか?違うでしょう?「国・国民」を守るんでしょう?
だったら、「国衛隊」じゃないですか。
「武器を以て守る」んでしょう?だったら、「軍」じゃないですか。
「国防衛軍」「国防軍」「国衛軍」。
おかしいですか?
諸外国からは自衛隊は軍と認識されている。何で日本人は「軍」と認識しないんでしょう。
まさか「警察予備隊だったんだから」、なんてこじつけ、本気にしてないですよね。
「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」(昭和32年2月)
ご存知の方も多いと思いますが、誰の言かは、ひとまず置いておきます。「昭和32年2月」ということだけ。
昭和26年、七年間の長期にわたる占領の後、晴れて独立国となった日本。防衛大学校の第一回卒業式の訓辞だそうです。
「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている」
転載文、初めの方は、時の総理大臣吉田茂。
後の方は、ノーベル賞作家大江健三郎です。
見方は色々でしょう。私は双方について余りよくは知りません。
それは、我々日本国民の大半と同じ程度の知らなさ加減だと思います。
そんな程度でも一人前に国政に物申すことができる。そして、物申さねばならない。
「知らないから黙っておきます」というわけには行かない。言わなければならない。
それが民主主義国家の、一国民の在り方、務め、です。
無責任なことは言えない。日本国民なんですから。
だから、考える。
考え方の目安。
それは、相手を、対象たる人物を、人間として認めようとする姿勢があるか否か、です。
これくらいだったら、誰にだってできるでしょう。
私はこう思います。
「吉田茂は防衛大学校の卒業生に、日陰者であることに『耐えてくれ』と言っている。卒業生の人格を認めるからこそ、『それが国、国民のため』、とその人格を踏みにじられることを、命じている。」
対して
「大江健三郎は『防衛大学生は若い日本人の弱み、一つの恥辱』と言い、志願者がなくなって欲しい、と人格どころか存在を否定している。」
「それぞれ『国、国民のため』ながら、人格を踏みにじられるよう命じることと、存在を否定することと、どちらに相手を『人間として認めようとする姿勢』があるだろうか。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは2011年09月25日の日記に引用した文です。
人として、国民として、他人のために、社会のために、国家のために、何かをしようとする。
そのことに於いて「人格を踏みにじることになるが『~のために』耐えてくれ」
、と命じたのが吉田総理だった。
対して大江氏は、防衛大学生の存在は日本人の弱み、恥辱と言い、存在をなくしたい、と言っている。存在を否定するというより、許さない。勿論、言いたいことは分かりますよ。たった一言「自衛隊なんか、軍隊なんか要らない!」ですよね。
昨年の大地震をはじめとする大災害で、自衛隊の働きは目覚ましいものがありました。
敗戦後、これまでにも災害は数えきれないくらいあり、自衛隊が救助活動に出動し、大きな働きをしたことは、これまた数えきれないほどです。
しかし、どれだけ命懸けの活動をしていてもさほど称賛を浴びることはありませんでした。場合によっては、報道関係者から言葉遣いが乱暴だ、とか不親切だとか批判されることの方が目立っていた。そして報道も必要最小限のものでした。
けれど、今回のように世界中から多くの人の支援があって、自衛隊の活動振りが外国に伝わった時 、却ってあまり報道されなかった自衛隊の働きが、国民に能く見えるようになった。
結果、故吉田総理が言った「国民から歓迎されちやほやされる事態」になってしまった。これは吉田総理の望まぬことです。
では、大江氏は今これをどう思っているのでしょうか。
「お前らには命を救ってもらいたくなかった!」と言うんでしょうか。
それとも
「僕は東北に住んでないから、何の世話にもなってない」
と当たり前のことを言うんでしょうか。
普段は「自衛隊は憲法違反!」と叫び、危急の際は「早く助けに来て!私らの税金で食べてるんでしょう!?」
そんな人はいないでしょうけど(あれ?居たような・・・いや、いませんよね)
でも自衛隊は「サンダーバード」、じゃない。災害救助隊じゃないんです。災害救助もできる、その「能力」も持っている、というだけです。
飽く迄も自国を他者・他国の侵攻から「衛」、衛る、というのが自衛隊の本分です。自らの命を懸けて、他者・他国から護る。
国、国民のために淡々と命を捨てる。自衛隊員全員がグスコー・ブドリ(?)。
ということは、「専守防衛」を標榜する限り、最後には守りきることができず敗退することが運命づけられているということでもあります。
自衛隊、というのは、そういう組織です。
「守れるところまで、守る。それが自衛隊です」
ここまで読んで、「自衛隊をバカにしている!」と感じたなら、それは誤解です。
誰が同じ国民とは言え見ず知らずの人間のために淡々として命を捨ててくれますか。
そんな人々のことを「自衛隊」と呼ぶべきか、と言いたいんです。
「自らを守る」んですか?違うでしょう?「国・国民」を守るんでしょう?
だったら、「国衛隊」じゃないですか。
「武器を以て守る」んでしょう?だったら、「軍」じゃないですか。
「国防衛軍」「国防軍」「国衛軍」。
おかしいですか?
諸外国からは自衛隊は軍と認識されている。何で日本人は「軍」と認識しないんでしょう。
まさか「警察予備隊だったんだから」、なんてこじつけ、本気にしてないですよね。