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ただの日記

森を見て木を見ず

2023年03月20日 | 心の持ち様
「大江健三郎」を中国が悼む理由
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    【大手町の片隅から】 乾正人 


亡くなった大江健三郎氏には、一度もお目にかかったことはないが、大変お世話になった。ネタに困ったときに限って大江氏が、突っ込みどころ満載の発言をしてくれ、幾度となく窮地を救ってくれた。

8年前の憲法記念日もそうだった。横浜で開かれた「護憲集会」で、安全保障関連法案の成立を期していた安倍晋三首相を大江氏は、何度も呼び捨てで厳しく非難した。

さっそく「編集日誌」(いまこの欄はなくなったが)で、「どんなに相手の考え方や性格が嫌いでも、一国の首相を呼び捨てで非難するのは、大江さんが大嫌いなはずの『ヘイトスピーチ』そのものです。ノーベル賞を鼻にかけすぎて晩節をこれ以上汚さないで、とは余計なお世話でしょうが」と書いた。

案の定、賛否両論おびただしい反響をいただいた。この御恩は一生、忘れない。生前のご厚誼に深く感謝しようと思っていたら、中国外務省の汪文斌報道官に先を越されてしまった。報道官は会見で「中日の民間友好や両国の文化交流のために積極的に貢献した」と功績を称え、「多くの作品は日本社会の良識や侵略戦争に対する反省を反映し、客観的な歴史を守り人類の平和を追求した」とべた褒めした。

そりゃそうだろう。中国にとって大江氏ほど都合の良い日本人作家はいなかった。
[毛沢東から熱烈歓迎され]

大江氏と中国との縁は60年以上前まで遡る。彼は60年安保闘争真っ盛りの昭和35年5月、日本文学代表団の一員として長期にわたって中国各地を視察している。

代表団は、「真空地帯」で日本軍の暗部を描いた野間宏氏を団長に開高健氏ら著名な作家が参加したが、いたるところで熱烈歓迎を受けた。

当時の中国は、日本で安保闘争が盛り上がっているのを日米離間の好機ととらえ、岸信介政権打倒を画策していた。日本文学代表団の訪中は、もちろん対日工作の一環だった。なんと毛沢東主席と周恩来首相のツートップが代表団と会見し、中国共産党の機関紙「人民日報」が写真付きで報じているのである。

毛主席が「日本の独立と自由は極めて希望的だ」とあおると一同、大感激し、工作は成功した。

中国から帰国した直後、大江氏が「日本の青春の頽廃が、外国軍の日本駐留に本質的に起因している」(「文藝春秋」昭和35年9月号)と書いているのが何よりの証拠だ。
[米製の「平和憲法」を愛す]

彼の政治的感性は、60年安保闘争と中国訪問で形成され、終生変わらなかった。安保闘争をともに闘った仲間たちが、現実に気づき、次々と「転向」していったにもかかわらず。岸の孫である安倍氏を呼び捨てで(一説には7回)罵ったのも若き日の熱い思いがフラッシュバックしたためではなかったか。

米軍の駐留を忌み嫌った彼がなにゆえ、連合国軍総司令部(GHQ)が短期間で草案を作り、占領下の日本に強要した日本国憲法を生涯愛してやまなかったのか。聡明な大江氏が日本国憲法の制定過程を知らなかった、わけではあるまい。「改憲によって米軍基地をなくそう」と彼が主張していたなら、私も大江作品の熱心な読者になっていたろうに。

ではまた、再来週のこころだぁ。(コラムニスト)

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  松本市 久保田 康文 
産経新聞令和5年3月17日号採録


 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
             頂門の一針 6445号
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      2023(令和5年)年 3月19日(日)より

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