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ただの日記

山鹿素行

2023年09月09日 | 日々の暮らし
◇☆◇ 『国史烈々』(こくしれつれつ)連載(41) ◇☆◇
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 山鹿素行なかりせば、忠臣蔵はなかった
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 会津若松の鶴ヶ城の裏手、松並木の目立たない場所に大きな石碑が立っていて「山鹿素行生誕地」とある。東郷平八郎の揮毫である。ゆえに近代に評価され直したということだろう。また赤穂城には山鹿素行の胸像が設置された。
 山鹿素行の墓は新宿の曹洞宗・宗参寺。拙宅から近いので時折、墓参に行くが、墓地中央部の一段高いところに大きな墓石がある。

 世に言う「忠臣蔵」は武士の鏡、武士の誉れと高く評価され、芝居に浪曲に、そして小説に映画になって、毎年師走十四日には赤穂浪士の行列が行われる。
 元禄十四年三月、殿中松の廊下で浅野内匠頭は高家筆頭だった吉良上野介に刃傷に及び、その日の内に切腹、かたや吉良には「お咎めなし」となった。不公平だと赤穂藩は激昂した。
 お家取りつぶし、後継可能な弟君は他藩お預けとなる。
 当初はお家再興のための政治工作が行われたが、うまく行かず、「昼行灯」こと、家老の大石内蔵助以下、討ち入った四十七名は「義士」と評され、菩提寺である高輪の泉岳寺はいまも線香が絶えない。
 忠臣蔵は武士道精神を復活される危惧があるとして、GHQが禁止したが、いまなお日本国民が涙する物語である。
基本の問題は何か?
 法治を重視した徳川幕府は、安寧を乱し、規則を犯したとして厳罰に処した。多くのインテリや町の声は、赤穂浪士の義挙に深い理解と同情、そして武士の精神の復活を称えた。この世論に抗しきれず、幕府の判断は遅れたが、優先されたのは法治だった。そうだ、江戸時代の日本は世界にも稀な法治国家だったのだ。
 ところがグローバリズムが世界を蔽いつくす現代、赤穂浪士の討ち入りは風化した。
 アメリカ的解釈をすれば「一人の老人を狙った、組織的、計画的殺人事件」である。こう解釈する日本人が増えた。忠義という概念が理解できなくなったからだ。

 さて舞台裏である。
 山鹿素行が生きた時代、ときの宰相は保科正之、二代将軍・秀忠の庶子にして伊奈の高遠藩へ預けられていたが、三代将軍家光の知るところとなり異母弟との面談が実現した。
 保科正之の謹厳実直な人柄が気に入られ、以後、会津藩主となる。徳川のために身を粉にして働いた保科正之にとって、思想的に徳川の法治を脅かす潜在的パワーを秘めた山鹿軍学は危険と判断し、山鹿素行を赤穂藩に預かりとした。
 山鹿素行は『中朝事実』を著した尊王家で、朱子学を批判した。つまり徳川の官学であり官僚機構のイデオロギーだった朱子学は自然の道に逆らったものと、のちの明治維新の中核思想を早くから唱えていたのだ。

 『中朝事実』の要諦は、中華とは日本であり、シナでは君臣の義が守られてもいないが、わが国は外国に支配された歴史はなく、「万世一系」の天皇が統治し、君臣の義が守られているとしたところにある。江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇を強調し、「万世一系」に力点を置いた。

 「ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず、皇統は一度も変わらなかった」(山鹿素行『中朝事実』)

 同時に山鹿は軍学者でもあった。
 この山鹿流軍学は赤穂浪士ばかりか、嫡流は津軽藩へ、赤穂藩のほか熊本や平戸藩に多大な影響を与えた。日本の軍学者は吉備真備、吉田松陰、乃木希典らが代表するが、むろん彼らは『孫子』を読みこなした上で独自の軍学を打ち立てた。

 山鹿流軍事学は、戦術や軍法というより武士の倫理を説いたところに特徴があり、この山鹿素行軍事学を発展させたのが窪田清音(講武所の頭取兼兵学師範)である。門弟には勝海舟、板垣退助、佐々木高行、小栗上野介、谷干城らがいた。とくに吉田松陰は叔父の玉木文之進から松下村塾を受け継ぐが、それまでに山鹿流を学ぶために平戸へ国内留学(平戸に素行の子孫がいた)、肥後には宮部鼎蔵を尋ねたりしている。
 松陰は『孫子評註』を顕し、これに最も強烈な感動を受けた乃木希典は私家版を作って明治天皇に内献している。

 「(松陰の)『孫子評註』では、あるべき道との整合性を兵学書『孫子』のなかに読み取ろうとする。それは、山鹿素行の『孫子謜義』において、五事の一番に道が掲げられていることが重視され、義を以て不義を討ち、有道をもって無道を討つのが上兵(優れた戦い方)であると論じられていることの延長線上にある」(森田吉彦『吉田松陰「孫子評註」を読む』PHP新書)、<註 『孫子謜義』の「謜」はごんべん>謜

 九年にわたって赤穂藩に預けられた山鹿素行は藩士らに講義をしている。いはば赤穂藩は山鹿流軍学思想に染まっていた。山鹿素行が没したのは延宝三年(1675)、赤穂浪士の討ち入りは元禄十五年(1702)年。死後27年後のことであり、当時も今も、赤穂浪士の義挙の動機に山鹿素行を結びつける歴史家は少ない。
 しかし人間の人脈関係による影響の度合いより、思想の影響力は強いのである。
 北畠親房の『神皇正統記』とならぶ、山鹿の『中朝事実』は、後世の志士たちの必読文献となって、現在も輝いている。

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)9月4日(月曜日)
       通巻第7895号 より

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 赤穂高校は移築される前、現在の赤穂城本丸跡に校舎がありました。運動場は二の丸。
 大手門から大石邸(現大石神社)の長屋門を右に見る道を進み、左に折れたところは既に二の丸の最奥部。正面に高校の入り口が見える、本丸に一番近い辺りが山鹿素行の屋敷跡だったようで、山鹿素行の銅像はそこにありました。
 確か胸像ではなく座像だったと思います。

 文化財保存計画により高校は移転、素行の銅像も屋敷跡地から筋向いの塩業資料館の隣に移されたようです。
コメント
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