8月30日(水)
30日ということで夏休み、余すところ僅かに一日。
休みの期間中、おおかたの学校には登校日というのが数回ある。
私が子供のころには既にあったから、敗戦後、六・三・三世が施行されるようになった時からずっと続いているのだろう。
小学生のころを思い返してみるとこの登校日というのは、楽しいような逆に面倒くさいような好悪相反する感情が常にあったように思う。
勿論、「しばらく会ってなかった級友の顔を見ることができる」、とか「学校へ行くのがめんどくさい」とかいった単純な思いだった。
それでも数回の登校日は、回を重ねるにつれて何んとなし二学期の始まるのを期待する気持ちが増してくる。
宿題のことを思い出すと、また「めんどくさい」が優勢になるのだけれど。
この頃は、この8月30日を最終の登校日にしている学校が多いのだろうか。
昼前、カブで家を出たら、帰途に就いたらしい近くの学校の小学生や中学生が道にあふれていた。
「しまったな、えらいところに出くわしてしまった」
と思ったけれど、引き返すわけにもいかないから用心しながら道を進む。
勿論、今の小中学生は昔と違って学校で交通ルールをしっかりと教えてもらっているから信号無視したり、いきなり道に飛び出したりなんかしない。
けれど低学年だったり、久し振りに会う友達との会話に夢中になったりしていると、ほんの一瞬でも辺りが見えなくなることがある。魔の一瞬だ。事故はそういう時に起きる。
さらに、「信号無視したり、いきなり道に飛び出したりなんかしない」けれど、でも例外は、いる(かもしれない)。大人だってそうなのだから。
だから「用心しながら道を進む」。
幹線から外れた坂道を下っていくと、進行方向右側のガードレールの途切れたところで、小学校低学年らしい女の子が道を横断しようとしている。横断歩道はない。その子はカブの前を横切ることになるわけだ。
歩行者優先。
カブのスピードを落とし、足を路面に着けようとした。十分に距離があるから横断できるだろう。
しかし、その子は動こうとしない。更に車が来ないか確認をしている。
かなり離れたところに軽自動車が見える。それが行き過ぎるのを待っている。その車一台しか見えない道だから、女の子が待っているのが見えたなら間違いなく停まって女の子を横断させる。ということは、どちらにせよこちらは停まって待っているしかない。
一瞬そう思ったけれど、車は停まるどころか全くエンジン音を変えることなく(速度を落とすことなく)女の子の前を通り過ぎた。
エンジン音が高くなったら、「女の子が道を譲ってくれたから、急いで通り過ぎよう」としたのかもしれない、と思う。
全く変わらなかったのは、何故?
やっぱり、女の子の存在に気が付かなかったと考えるべきか。
車が目の前を通り過ぎるのを待って、でも、路上にカブが停まっている。
「横断できるだろうか」。
そう考えたらしく、動こうとしない。時系列からするとカブが先に停まっているのだから、横断を待っているに決まっているのだが、一瞬の判断ができない。
そこに少し離れたところから、こちらは高学年らしい女の子が小走りにやって来て、肩に手を当て、横断するよう促した。
びっくりして固まった猫が解き放たれたように女の子は一目散に駆け出し、道路を横断した。危機を脱した気分だったかも。
感心したのは、この高学年の女の子が停まって待っていたカブに向け、一礼して別の方向に歩き出したこと。
何だか「上級生のおねえさん」という言葉が頭に浮かんできた。