CubとSRと

ただの日記

正統?遠野噺

2019年02月23日 | 重箱の隅
 井上ひさしの小説に「新釈遠野物語」というのがありました。
 短編集だったような気がするのですが、どうもよく覚えていません。(さっきWikiで見たら、9つの短編で成り立っているようです)
 ただ、遠野物語を基として思いついた話の集合体であるのは間違いない。  そして、当然、井上ひさし流に書かれてある。
 芥川龍之介が「杜子春」「鼻」「芋粥」など、原典と全く違った色合いで、話を書いたように、井上も「遠野物語」とは思えないような娯楽小説にしています。
 「遠野物語」として、民話を集めた時、その人の品性や職業によって採話の内容も違って来る。
 民俗学者柳田國男は、ごく普通の何と言うこともない日常生活(民衆、俗世)の中にこそ、民族・文化・国民、の本質が隠れていると考え、「民族学」とは違う観点からの「民俗学」を提唱したのですから、書き留めた民話は、飽くまでも学術研究の資料であって、決して娯楽ではない。
 けれど、小説家井上ひさしは、小説という「お話」を学問の対象としたわけではない。こちらは飽くまでも娯楽です。教訓や発見は副次的なもの、というか、まあ、あってもなくてもよい。
 「交通の要衝」として「情報が集まる場所には、色んな話が集まる」わけですから、「エロ話」も集まって来ます。「エロ話も」、と言うより、むしろこちらの方が多く集まるかもしれない。 
 だから博労らが、普段考えているだろう程度の話を持って来て「話を作り上げる」。エロ話の方が人気は高い。
 と、まあ私の僅かな記憶にエロ話しかないことを正当化しておいて。
 氏の作品中の、唯一記憶に残っているところを。
 狐に化かされた話。
 旅人がどこかで泊めてもらわなければ、と思いながら歩いていたら、すっかり夜になってしまった。辺りには一軒の家もない。
 これは困った、野宿しかないかと心細く思いながら尚も歩いていると、野原の中に一軒の農家がある。
 助かった、と家に近づくと障子に灯りが見え、中の人の影が映っている。
 これは、と更に近づくと、どうも女の人らしい。
 それも何だか夜着に着替えて寝ようとしているところらしく、着物を脱いでいるところが妙にはっきりと映っている。
 先ほどの心細さも忘れ、助平心を起こした旅人がそっと障子に近づき、障子の小さな穴から中を覗き込むと、予想通り美しい女の人が今しも着物を脱いで裸になろうとするところ。
 ところが、穴が小さくて、それ以上は見えない。
 「これはいかん!」
 男ですからね。人差し指を舐めて障子の小さな穴に突っ込み、穴を拡げて、もっとよく見ようとする。
 ところが、人差し指を障子の穴に突っ込むのだけれど、何故か穴に指が入ったと思ったら、障子に意志でもあるかのように押し戻される。
 「うん?あれ?」と、もう一度やってみる。また押し戻される。
 「あれれ?」
 では、と今度は力を入れてぐいっと指を突っ込んだ、と思ったら、いきなり障子に蹴っ飛ばされて吹っ飛んでしまった。
 「な、な、なんだ!?」
 と、蹴られた胸の痛みも忘れて前を見ると、そこに家などはなく馬の尻がこっちに向けられているだけだった。
 狐に化かされて、馬の尻に指を突っ込もうとしていたらしい。
 まあ、実際はこんな馬鹿話が、毎晩、人々を楽しませていたんじゃないでしょうか。
 ところで「遠野噺」です。
 宿の主人は、実際の話として、こんなのを聞かせてくれました。
 《こんな客商売をしていると、大体、泊り客がどんな事情の人か分かるようになって来る。
 浮気でやって来た、夫婦と言いながら愛人と、だったり、夜逃げをして来たり。そんなのは一目で分かる。客商売だから立ち入ったことは聞かないんだけれども。
 心配なのは「自殺するかもしれない」という時だ。これまた様子で分かる。
 だからそれとなく気を配り、話しかけたりして気を紛らわせ、思いとどまらせようとする。
 或る時、泊まった女の人を見た瞬間、「これは自殺するかもしれない」と直感した。
  平静を装っているけれど、全く生気がない。それどころか
 「朝食は何時頃に」
 と聞くと、
 「ゆっくり寝たいので朝食は要りません。起きるまで一人にしておいて下さい」
 と言う。
 ますます心配になって来た。
 「今晩のうちにもしかして」
 と思って、夜中様子を見に行くと、案の定、部屋から苦しそうな呻き声が聞こえる。
 「しまった!薬を飲んだか!」と慌てて、それでもいきなり飛び込むわけにはいかず、襖の隙間からそーっと見ると、「×××」の真っ最中だった。
 飛び込まなくて良かった!
 翌朝、彼女は昨日とはうって変わって、「同じ人か?」と思うくらい元気な様子で出て行った。
 部屋の片づけをしに行くと、おもちゃが忘れてあった。》

 宿の主人の毒気に当てられたのか、些か飲み過ぎたためか、宿酔い気味の重い身体で遠野を後にして以来、既に二十年余り。
 時々、この宿のことを思い出すのですが、何だか狐に化かされていたような気もするのです。



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遠野の晩

2019年02月22日 | バイク 車 ツーリング
 続きです。
 土砂降りと雷鳴の中の3時間余り。停まることもできず、地図でどの辺を走っているのかという確認さえできず、ひたすら東へ東へと進み、やっとの思いで雨宿りと思ったら、バス停の小屋は壁だけで、屋根がなかった。
 呆れてしまって、可笑しくなって、すっかり諦めてしまって、東進を続けたら、あれだけひどかった雨と雷鳴が次第に離れて行く。
 そして空に一箇所、青さが見えたと思ったら見る見るうちに雲が切れ始め、陽射しがそこかしこに見え始めました。
 その間、15分ほど。
 あの雨は一体何だったんでしょう。
 これではまるで狐にだまされた大石兵六(ひょうろく)。
 けど、この陽射しだけで、それまでの数時間の重い気持ちが、文字通り「雲散霧消」してしまいます。
 あれから20年以上経つのに、今でもこれが一番印象に残っています。
 さて、遠野。
 すっかり乾いてしまったとは言え、雨具のまま案内所に行く。
 駅で紹介された民宿は、駅のすぐそばで、すぐに分かりましたが、何しろ雨上がりの雨具を着けたまま。
 声をかけ、確認すると、すぐ部屋へと言われる。
 雨具を脱いで入らなきゃ、と雨具を玄関で脱ぎ始めたら、いいですよ、そのままで、と言われる。
 そうは言われても、もしかして濡れたところが残っていて、しずくが落ちたら、部屋が汚れる。
 その旨を言うと
 「大体、バイクの人はみんな行儀が良いねえ」
 と返って来る。
 何のことだと思ったら、普通は少々濡れていても、そのまま「客だから」と上がって来る。中には、濡れた傘を、しずくを落としながらそのまま部屋に持って行く人もいる。
 けど、バイクの人は必ず気を遣って、玄関で断りを言う・・・のだそうです。
 何だか自分が過分に褒められたようなうれしさです。
 何しろ心細い3時間余りでしたから、よけいにそんな一言がうれしくなるんでしょうか。
 昔々、「お客様は神様です」と三波春夫が言いました。
 今は誰でも「私は客よ!」と言います。「客だから~してもらって当たり前」と言う。 
 「役人は公僕でしょう?公僕というのは国民の僕(しもべ)ということですよ!」と、よく口にするMという人気キャスター(?)もいます。
 けど、「客だからサービスしろ」「公僕なんだから国民の言うことを聞け」というのを、客が、或いは国民が声高に主張する先には「高いサービス料を払った者だけが、客」「高額納税者のみが国民」という価値観が待っている。
 最近は「景品を差し上げます」というところ、「~がもらえます!」なんて平気でやっている。乞食じゃないぞ。これまた、卑しいブーメラン。
 あ、脱線した。
 その日の泊り客は二、三人だったでしょうか。その中の一人は正反対の釜石方面から西進して来たライダーでした。
 夕食時から、民宿の主人と三人で、一杯やりながら話をする。
 この主人の話が殊の外面白い。
 ここで「遠野は民話の宝庫」と言われるようになった理由を得心しました。この主人、只者ではない。
 遠野はその昔、交通の要衝だったのだそうです。
 
 「民話の宝庫」「民話のふるさと」などと言われると、何となし「時間がゆっくりと流れている」とか「時が止まったような町」とか表現されることが多い。
 そんな印象があるでしょう?
 私の生まれ育った「知名度の低さNO,1」に輝いたこともある県なんか、東京や大阪から来た有名人は、判を捺したようにこれを言う。それを聞くと心の中で(ちゃんと普通に生きておるわい!)と憎まれ口を叩きます。
 遠野は南北に走る街道と、山と海を結ぶ街道の交差する所にある町です。
 「今でこそ寂れた街だけれど鉄道が敷かれる前には、荷物を満載にした馬車が行き交う賑やかな街だった。海から山へ、山から海へと行き来する時の中継地で、同時に山中を南北に往来する人が海からの物を手に入れる場所が遠野だった。博労らがここに泊まり、ここで遊び、するうちに各地の情報が交換される。民話もそうやってここに伝えられたのですよ。だから、遠野は民話が生まれたのではなく、集まったところなんだよ」
 この話は説得力がありました。
 前回の日記の初めの方で「何故、遠野ばかりが民話の宝庫のように~」と書いた通り、似たような話は各地にあるからです。もっと言えば、「遠野にしかない」といった話は、ない、と言ってもいい。何だか変だと引っ掛かっていたことが、これを聞いて納得できました。
 こんな話を聞けるのも旅の楽しみ。それも、一人のバイクツーリングならでは。
 立派な旅館で、心尽くしの「おもてなし」、をされるのとは違った満足感があります。
 (心尽くしのおもてなし、なんて旅館、実は泊まったこと、ないんですけど)
 というわけで、遠野の夜は更けていくわけですが。

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雨の中、遠野へ

2019年02月21日 | バイク 車 ツーリング
 北海道に「モトトレール」で行った、翌年。
 今度は、取り敢えず、同じモトトレールで北海道に渡り、そのまま大間に渡ってあとは東北を南下、仙台まで行き、フェリーに乗って名古屋まで帰ってくる。名古屋からは陸路、神戸まで。バイクは前年と同じGB250。
 その時の日記の再掲です。
 ・・・・・・・・・・・
  北海道からフェリーで下北半島に渡り、東北南下ツーリング。
 花巻に泊って、遠野に向かっていました。
 宿も決めず、行けるところまで行く。そこで泊ろう。大体、遠野辺りになるだろうか。その日の天候任せの一週間。
 
 朝、どうも怪しい空模様だと思っていたら、段々に雲が分厚くなり、昼前なのに夕方のような空。
 遂に降り始めたので覚悟を決めて雨具を着る。雨具さえつけたらこっちのもんだ。暑いのさえ辛抱したら夏の雨。どうってことはない。
 ・・・・・だったんですが。
 着て30分程。
 「暑い!!!」もう辛抱できない。雨具を脱ぐか?
 ・・・・と思った辺りで、本格的に降り始めました。
 いざ降り始めると、これがえらい雨で、風こそ吹かないものの、土砂降りです。その上に、バイクは雨雲と同じ方向に進んでいるらしい。
 今、考えてみれば、花巻から遠野、釜石方面に進んだわけだから、西から東。雨雲だって、普通は西から東。
 というわけで、一旦降り始めた土砂降りの雨は、雨雲と共に進む私を溺死させようと思っているくらいに降り続ける。
 東北の道は、当時まだスパイクタイヤで走っていた跡が残っていました。
 車の通った跡が轍(わだち)のように深くえぐられ、その二本の深い溝には土砂降りの雨が溜まって、水路のようになっているのです。
 バイクはその溝にタイヤをとられないように、道の真ん中を走る。
 延々と続く路上の水路に気をつけながら走る。
 雨は更に激しくなり、そこら中に車が停まり始める。雷撃を避けるためでしょうか。それとも、雨を遣り過ごすためでしょうか。
 いつの間にか、まばらな対向車だけになった道を、雷鳴に肝を冷やしながらの耐久ツーリングになってしまいました。
 ぼんやりしていると、対向車が水路の水を盛大に撥ねながら擦れ違っていく。
 「バケツをひっくり返したような雨」が水路をつくっているわけです。
 だから、「水路」の撥ねは「バケツの水をぶっ掛ける」ようなもの。うかうかしてると、一瞬息が止まるくらいの圧力で水がぶっ掛けられる。よける場所がない。どうする?
 考えました。撥ねが来た瞬間、頭を下げる。胸でなくヘルメットで、頭突きのようにして「水の壁」を打ち破る!!
 大袈裟でしょう?車なら、まず考えない。ところがこれが面白い。「やっぱりバカだ」と言われそうですけど。
 上手くいった時は「それ見ろ!どんなもんだい!」と調子に乗り、ちょっとタイミングをずらしてしまうと、ヘルメットのシールドから胸、鳩尾まで、息が詰まりそうな勢いで水を浴びせ掛けられる。
 「うっ」と息を詰め、「やられたぁ~っ」と心の中で叫ぶ。
 所々にバス停があります。そして、それぞれに、よく似た波型トタンの屋根と壁、の小屋がある。北国のことは知らないのだけれど、きっと雨風をしのぐためのものなんでしょう。
 雨はひどくなるばかり。雷鳴と稲光は強くなるばかり。
 これでは「落雷なんてない!」と思っていても、車も段々居なくなっていき、何だかコワい。
 怖い思いをしながら走ること3時間あまり。
 もう本当に「今度、小屋を見つけたら、何が何でも逃げ込もう」と決心して、見落とさぬよう気をつけて走り続けました。
 「三十代の男性、ツーリング中落雷で死亡」、なんて新聞に載るのはイヤだ!!
 やっとバス停脇の小屋を見つけた時には、もう三時半をまわっていました。でも、やれやれです。
 これで何とか落雷の恐怖から逃れられる。雨もしのげるから、ヘルメットを取って休憩ができる。
 ここで転倒しちゃ話にならない。用心して停めるところをさがし、小屋に駆け込みました。
 さてヘルメットを取ろうと、ヘルメットのベルトに手をかける。ヘルメットを取る。
 その途端、頭に大粒の雨の衝撃。辺りを見るとびしょ濡れです。
 一瞬何のことか分からず、座った長椅子の周辺を見ると、しっかり濡れている。と言うより、小屋の外と同じように濡れている。
 「えっ?え?何で?」まだ状況がつかめない。
 やっとそこで上を見上げた。
 頭上に屋根はなかった。全く。
 理由は分からないけれど、とにかく分厚い雨雲が相変わらずゆっくりと流れていくのが見えました。
 呆然とした後は、たまらなく可笑しくなり、もう笑うしかありませんでした。
 けれど、笑ってしまうと落雷の恐怖も、散々雨に打たれた末の寒さもおさまり、 「これじゃ意味がないな」と進む気になります。
 それから30分も経たぬうちに遠野駅に着き、一時間も経たないうちに駅で聞いた民宿の前に居ました。

 (続く)
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道の駅

2019年02月20日 | 日々の暮らし
 これも北海道に行った時の記憶からの日記の再掲です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 北海道を一人、走る。
 25年余り前だって、道はまっすぐで高速道路みたいなものだった。地元の車は「法定速度は80キロ」、と習ったんじゃないかと思うくらいビュンビュン走っている。トラックも同じだ。だからこちらも地元ナンバーの車に合わせて後ろを走っていれば捕まることはない。
 ただ困ったことはガソリンスタンドが少ないことだった。「この先百キロ、スタンドなし」、なんて恐ろしい表示の看板が立ててあったりする。更にはいきなり工事中の深い砂利道が出現して、それが数キロに及んでいたりする。なのに工事している姿はどこにも見えない。
 そんな道をおそるおそる走っていると地元のトラックが相変わらずの70~80キロで迫ってくる。死ぬかと思う。
 もう一つ死ぬかと思うことがある。トイレがない。我慢しないで、そこらで立ち○○をすれば良いようなものだが、見渡す限りの大平原。どこから時速七、八十キロで車が現れないとも限らない。
 大国主と少彦名の勝負じゃないけれど、排泄の辛抱は気が狂いそうになる。
 そんな時(大方は、気が狂わぬように処理をした後だったけど)、草原の果て、或いは丘陵の上にポツンと建物があったりする。
 行ってみると、場面にそぐわない立派なトイレが建っている。
 誰もいない、何しろ近隣に人家は見えないのに信じられないくらいきれいで、もちろん水洗だ。時によると自動ドアだったりする。
 「これはツーリングライダーのために北海道が作ったのか???」
 本気でそう思ったことが何度もある。
 街中ではない、周囲に全く人影の見えないところに降ってわいたような立派なトイレ。こんなシュールな景色は見たことがない。
 「道の駅」というのは、「道往くドライバー、ライダーのために清潔なトイレを提供する」、というのが本旨だったんだそうだ。北海道のトイレのシュールさは、そのはしりだということをあらわしているのかもしれない。
 旅行をしていると用を足す場所がない。あっても余りの汚さに閉口することが多い。JRの前身である国鉄のトイレだって水洗であることは珍しく、トイレットペーパーなどは置いてない。ましなところでティッシュの販売機が置いてあるのが関の山、だ。
 加えて古いトイレは当然の如くに汚い。
 「国鉄」ならぬ「国道」となると、トイレなんかある筈もない。高速道路が作られ、P・AやS・Aには清潔なトイレがあると知った時は
 「さすがに『有料道路』だなあ」
 と感心した覚えがある。
 一般には交通量の多い国道に作られた「ドライブイン」で、飲食のついでのようにして「用を足す」。
 「車社会となった日本がこんなことでは、『車社会文化』の向上なんか望めない。ゴミを捨てたり、そこらじゅうで用を足すような無作法を根絶しよう」
 そうは言っても、なかなか無作法は治らない。
 「だから、まずはトイレと駐車場を整備しよう。各自治体に協力を依頼しよう。それさえできれば、あとは自治体のアイデアに任せたらいいんじゃないか」
 知恵者が、その近くに土産物屋を作ろうと言った。作ってみた。予想以上によく売れた。
 「土産物はないから、野菜でも並べてみるか」。朝採ったばかりの土のついたような新鮮な野菜は思いのほか売れた。
 初めはトイレ・駐車場の設置には大金が必要だからと難色を示していた自治体が、農家でない地元民も頻繁に利用するのを見て考えを改めるようになり、「道の駅」は急激に増えていった。
 そしていつの間にか旅行者が用を足すためだけの施設が、有力な販売促進センターとなり、地域活性化の拠点となっていった。
 本来の目的は忘れられ、すっかり外れてしまったように見える。
 では、本来の目的はどうなったのか。
 「旅行者に清潔なトイレと無料の駐車場を提供する」
 これが守られていない「道の駅」はない、だろう。「道の駅」は十二分に機能している。旅行者は当然のように無料駐車場に車を停め、時にはそこで買い物をし、用を足して旅を続ける。大袈裟ではなく、もはや「道の駅」なしの旅行は考えられなくなっている。
 こういうことを書くと「そのせいで廃業に追い込まれたドライブインはどうなるのだ」という意見も出てくる。けれど、道の駅ができたって一向に客足の衰えないドライブインだってたくさんある。閑古鳥の鳴いているような道の駅だって、同じようにある。
 目的がはっきりしていること。そしてその時々の目標が、「そこに至るため」、ということを意識していれば、そして、多少強引でも目的につながる理由付けをしっかりとしていれば、大きく道を踏み外すということはない。
 つい「是々非々」に拘泥して「木を見て森を見ず」に陥ってしまうと却って取り返しのつかないことになる。
 今、全国には千六十ヶ所ほど、「道の駅」があるという。そして、まだ増え続けている。中には道を踏み外しそうなところもあるかもしれない。
 けれど、「道往くドライバー、ライダーに必要なものは何か」を思い出せば、道を踏み外すことはないだろう。

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旅の心象

2019年02月19日 | バイク 車 ツーリング
 「海よりも早く 空よりも安く」
 ・・・という惹句、キャッチコピーを覚えている人、って、いくつくらいなんでしょう。
 JR西日本の夏期限定特別編成の寝台急行。「日本海」。
 郵便専用車両を改造したらしいバイク専用車両を最後尾に連結して、その隣はライダーだけの寝台車。そこから先頭までは普通の寝台列車。
 初めのうちは発売当日に大方売り切れてしまっていたようです。
 当時は日本海フェリーが確か32時間。それも舞鶴まで行かなきゃならない。出航は夜。小樽に到着する時間は朝の4時ごろ。早過ぎて、何もない小樽。
 飛行機という手もあったけど、何しろバイクを飛行機に積んで行くわけだから、べらぼうに高い。
 それから見ると、夕方5時、大阪駅出発、翌日、昼前に函館到着。ほどほどに走って一泊目。
 「弾丸より早く 機関車よりも強く」に似てるけど、なかなかのコピーです。
 その「モトトレール」で初めて北海道に行ったのが、バイクに乗り始めて二年目の時でした。
 バイクはだいぶ慣れて来たGB250 。
 以前に書いた、その時の日記の一部です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 昔、ツーリングで、何度か北海道に行きました。
 大阪発の夏期限定列車、急行「日本海」をベースとした、「モト・トレール」という、バイク専用貨車を一輌つけた、寝台列車です。
 一人で乗る者も、二、三人で乗る者もいる。けれど、みんな大阪に集まらなければならず、同じ車輌のベッドで寝ることになっている。
 同じ北海道に憧れて行くんです、すぐ仲良しになる。一時間もすれば、みんなで、酒盛りです。
 それが翌日の昼前には終着駅の函館に着く。
 そうすると、みんな、それぞれが計画を立てた方向に走り出すわけです。
 見ず知らずの数十人が、一晩だけ、昔からの友だちのように集まって、バカ話して、大騒ぎして、で、翌日は何だか後ろ髪を引かれるような、それでも今日の予定の景色の中に向って走り出す興奮を持って、函館駅で別れを告げる。
 名残を惜しんで集合写真を撮って。でも、二十分も経たないうちに、四方に散らばって行く。
 「モトトレール」のなくなった今、あの感じは、もう誰も経験できないんですね。つい、「遠い目」になってしまいます。
 名残を惜しみながら、でも、これから先に開ける筈の北海道の景色にとび込んで行こうと出発した。当然の事ながら、そこからは一人。
 期待していた景色が、眼前に広がっていくと同時に、寂しさが増して来る。だからと言って、昨晩の車内の楽しかった時間を思い出すか、というと、それは、ない。
 今、ハンドルに手が触れていて、エンジンの振動が全身に伝わって来る、それだけです。
 変な話かもしれませんが、その時は「今」、しかない。
 今、寂しさを抱えている自分が、北海道の景色の中を、ただ、バイクの振動や、少し冷たい空気を感じながら走っている。
 さびしい、なんて言っても、上っ面だけです。そして北海道に来たうれしさ、興奮、というのも、心の底から湧き起って来る、みたいなものでもない。
 ただ、景色と、空気と、その中に自分が居て、これを望んでいたんだよな、という気持ちは、ある。
 今、こうやって思い出しながら書いていると、これ、バイクに乗ったことのない人、ツーリングに一人で出たことのない人には、想像もできないことなんだろうな、と思います。
 いや、想像出来ない以前に、「バカバカしくって想像する気も起きないよ」、なんじゃないかな、と思います。
 


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