井上ひさしの小説に「新釈遠野物語」というのがありました。
短編集だったような気がするのですが、どうもよく覚えていません。(さっきWikiで見たら、9つの短編で成り立っているようです)
ただ、遠野物語を基として思いついた話の集合体であるのは間違いない。 そして、当然、井上ひさし流に書かれてある。
芥川龍之介が「杜子春」「鼻」「芋粥」など、原典と全く違った色合いで、話を書いたように、井上も「遠野物語」とは思えないような娯楽小説にしています。
「遠野物語」として、民話を集めた時、その人の品性や職業によって採話の内容も違って来る。
民俗学者柳田國男は、ごく普通の何と言うこともない日常生活(民衆、俗世)の中にこそ、民族・文化・国民、の本質が隠れていると考え、「民族学」とは違う観点からの「民俗学」を提唱したのですから、書き留めた民話は、飽くまでも学術研究の資料であって、決して娯楽ではない。
けれど、小説家井上ひさしは、小説という「お話」を学問の対象としたわけではない。こちらは飽くまでも娯楽です。教訓や発見は副次的なもの、というか、まあ、あってもなくてもよい。
「交通の要衝」として「情報が集まる場所には、色んな話が集まる」わけですから、「エロ話」も集まって来ます。「エロ話も」、と言うより、むしろこちらの方が多く集まるかもしれない。
だから博労らが、普段考えているだろう程度の話を持って来て「話を作り上げる」。エロ話の方が人気は高い。
と、まあ私の僅かな記憶にエロ話しかないことを正当化しておいて。
氏の作品中の、唯一記憶に残っているところを。
狐に化かされた話。
旅人がどこかで泊めてもらわなければ、と思いながら歩いていたら、すっかり夜になってしまった。辺りには一軒の家もない。
これは困った、野宿しかないかと心細く思いながら尚も歩いていると、野原の中に一軒の農家がある。
助かった、と家に近づくと障子に灯りが見え、中の人の影が映っている。
これは、と更に近づくと、どうも女の人らしい。
それも何だか夜着に着替えて寝ようとしているところらしく、着物を脱いでいるところが妙にはっきりと映っている。
先ほどの心細さも忘れ、助平心を起こした旅人がそっと障子に近づき、障子の小さな穴から中を覗き込むと、予想通り美しい女の人が今しも着物を脱いで裸になろうとするところ。
ところが、穴が小さくて、それ以上は見えない。
「これはいかん!」
男ですからね。人差し指を舐めて障子の小さな穴に突っ込み、穴を拡げて、もっとよく見ようとする。
ところが、人差し指を障子の穴に突っ込むのだけれど、何故か穴に指が入ったと思ったら、障子に意志でもあるかのように押し戻される。
「うん?あれ?」と、もう一度やってみる。また押し戻される。
「あれれ?」
では、と今度は力を入れてぐいっと指を突っ込んだ、と思ったら、いきなり障子に蹴っ飛ばされて吹っ飛んでしまった。
「な、な、なんだ!?」
と、蹴られた胸の痛みも忘れて前を見ると、そこに家などはなく馬の尻がこっちに向けられているだけだった。
狐に化かされて、馬の尻に指を突っ込もうとしていたらしい。
まあ、実際はこんな馬鹿話が、毎晩、人々を楽しませていたんじゃないでしょうか。
ところで「遠野噺」です。
宿の主人は、実際の話として、こんなのを聞かせてくれました。
《こんな客商売をしていると、大体、泊り客がどんな事情の人か分かるようになって来る。
浮気でやって来た、夫婦と言いながら愛人と、だったり、夜逃げをして来たり。そんなのは一目で分かる。客商売だから立ち入ったことは聞かないんだけれども。
心配なのは「自殺するかもしれない」という時だ。これまた様子で分かる。
だからそれとなく気を配り、話しかけたりして気を紛らわせ、思いとどまらせようとする。
或る時、泊まった女の人を見た瞬間、「これは自殺するかもしれない」と直感した。
平静を装っているけれど、全く生気がない。それどころか
「朝食は何時頃に」
と聞くと、
「ゆっくり寝たいので朝食は要りません。起きるまで一人にしておいて下さい」
と言う。
ますます心配になって来た。
「今晩のうちにもしかして」
と思って、夜中様子を見に行くと、案の定、部屋から苦しそうな呻き声が聞こえる。
「しまった!薬を飲んだか!」と慌てて、それでもいきなり飛び込むわけにはいかず、襖の隙間からそーっと見ると、「×××」の真っ最中だった。
飛び込まなくて良かった!
翌朝、彼女は昨日とはうって変わって、「同じ人か?」と思うくらい元気な様子で出て行った。
部屋の片づけをしに行くと、おもちゃが忘れてあった。》
宿の主人の毒気に当てられたのか、些か飲み過ぎたためか、宿酔い気味の重い身体で遠野を後にして以来、既に二十年余り。
時々、この宿のことを思い出すのですが、何だか狐に化かされていたような気もするのです。
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短編集だったような気がするのですが、どうもよく覚えていません。(さっきWikiで見たら、9つの短編で成り立っているようです)
ただ、遠野物語を基として思いついた話の集合体であるのは間違いない。 そして、当然、井上ひさし流に書かれてある。
芥川龍之介が「杜子春」「鼻」「芋粥」など、原典と全く違った色合いで、話を書いたように、井上も「遠野物語」とは思えないような娯楽小説にしています。
「遠野物語」として、民話を集めた時、その人の品性や職業によって採話の内容も違って来る。
民俗学者柳田國男は、ごく普通の何と言うこともない日常生活(民衆、俗世)の中にこそ、民族・文化・国民、の本質が隠れていると考え、「民族学」とは違う観点からの「民俗学」を提唱したのですから、書き留めた民話は、飽くまでも学術研究の資料であって、決して娯楽ではない。
けれど、小説家井上ひさしは、小説という「お話」を学問の対象としたわけではない。こちらは飽くまでも娯楽です。教訓や発見は副次的なもの、というか、まあ、あってもなくてもよい。
「交通の要衝」として「情報が集まる場所には、色んな話が集まる」わけですから、「エロ話」も集まって来ます。「エロ話も」、と言うより、むしろこちらの方が多く集まるかもしれない。
だから博労らが、普段考えているだろう程度の話を持って来て「話を作り上げる」。エロ話の方が人気は高い。
と、まあ私の僅かな記憶にエロ話しかないことを正当化しておいて。
氏の作品中の、唯一記憶に残っているところを。
狐に化かされた話。
旅人がどこかで泊めてもらわなければ、と思いながら歩いていたら、すっかり夜になってしまった。辺りには一軒の家もない。
これは困った、野宿しかないかと心細く思いながら尚も歩いていると、野原の中に一軒の農家がある。
助かった、と家に近づくと障子に灯りが見え、中の人の影が映っている。
これは、と更に近づくと、どうも女の人らしい。
それも何だか夜着に着替えて寝ようとしているところらしく、着物を脱いでいるところが妙にはっきりと映っている。
先ほどの心細さも忘れ、助平心を起こした旅人がそっと障子に近づき、障子の小さな穴から中を覗き込むと、予想通り美しい女の人が今しも着物を脱いで裸になろうとするところ。
ところが、穴が小さくて、それ以上は見えない。
「これはいかん!」
男ですからね。人差し指を舐めて障子の小さな穴に突っ込み、穴を拡げて、もっとよく見ようとする。
ところが、人差し指を障子の穴に突っ込むのだけれど、何故か穴に指が入ったと思ったら、障子に意志でもあるかのように押し戻される。
「うん?あれ?」と、もう一度やってみる。また押し戻される。
「あれれ?」
では、と今度は力を入れてぐいっと指を突っ込んだ、と思ったら、いきなり障子に蹴っ飛ばされて吹っ飛んでしまった。
「な、な、なんだ!?」
と、蹴られた胸の痛みも忘れて前を見ると、そこに家などはなく馬の尻がこっちに向けられているだけだった。
狐に化かされて、馬の尻に指を突っ込もうとしていたらしい。
まあ、実際はこんな馬鹿話が、毎晩、人々を楽しませていたんじゃないでしょうか。
ところで「遠野噺」です。
宿の主人は、実際の話として、こんなのを聞かせてくれました。
《こんな客商売をしていると、大体、泊り客がどんな事情の人か分かるようになって来る。
浮気でやって来た、夫婦と言いながら愛人と、だったり、夜逃げをして来たり。そんなのは一目で分かる。客商売だから立ち入ったことは聞かないんだけれども。
心配なのは「自殺するかもしれない」という時だ。これまた様子で分かる。
だからそれとなく気を配り、話しかけたりして気を紛らわせ、思いとどまらせようとする。
或る時、泊まった女の人を見た瞬間、「これは自殺するかもしれない」と直感した。
平静を装っているけれど、全く生気がない。それどころか
「朝食は何時頃に」
と聞くと、
「ゆっくり寝たいので朝食は要りません。起きるまで一人にしておいて下さい」
と言う。
ますます心配になって来た。
「今晩のうちにもしかして」
と思って、夜中様子を見に行くと、案の定、部屋から苦しそうな呻き声が聞こえる。
「しまった!薬を飲んだか!」と慌てて、それでもいきなり飛び込むわけにはいかず、襖の隙間からそーっと見ると、「×××」の真っ最中だった。
飛び込まなくて良かった!
翌朝、彼女は昨日とはうって変わって、「同じ人か?」と思うくらい元気な様子で出て行った。
部屋の片づけをしに行くと、おもちゃが忘れてあった。》
宿の主人の毒気に当てられたのか、些か飲み過ぎたためか、宿酔い気味の重い身体で遠野を後にして以来、既に二十年余り。
時々、この宿のことを思い出すのですが、何だか狐に化かされていたような気もするのです。
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