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ただの日記

皇学 皇典

2019年12月30日 | 神社
 神道系の大学ってのは仏教系のそれと違って、数校しかありません。
 伊勢にある皇学館、東京にある国学院。そして奈良にある天理大学。
 そんなところでしょうか。

 皇学館は伊勢神宮の神職養成のためにつくられたと思われ、国学院は伊勢を頂点とする国家神道に対し、教派神道と言われるところが集まってつくり、天理はその中の一つである天理教がつくった大学、みたいな解釈が為されていますが、どうも本当のところはそういったことではないようです。
 
 明治の初め、例の文明開化の嵐が吹き荒れた時です。
 神仏分離令(正式には神仏判然令と言うんだそうです)により、政府の意図するところではなかった廃仏毀釈が全国各地で起こったことは御存じのことと思いますが、実はもっと国として憂慮すべきことが起こり始めます。
 それは全ての事柄に於ける西欧化です。

 何しろ「和魂洋才」の言葉をじっくり見れば実感できるように、日本の近代化は「西欧の才」に、つまり、精神以外は全て西欧に倣わざるを得なかった。
 当然学問なんかはその最前線。
 「新しく西欧の学問を採り入れなければ欧米列強についていけない。まずは学校をつくろう」
 ということで、学制が布かれ、日本全国に学校がつくられました。
 勿論、全くのゼロからではない。各地にあった藩校や塾を学校として改めて定め、そこで近代教育を始める。
 元藩校、塾の建物ですが、学習内容はこれまでの儒学中心のものだったり、手習いというわけにはいかないので、全て欧米のものを参考にします。

 そして、数年後には、「小学」に対して「大学」がつくられます。
 国立の大学を、各分野別に作る。それまでに作られていた各種専門学校が大学になります。医学校、工科学校、美術学校、などというのが、それぞれ医大、工業(工科)大、美大になる。
 森鴎外などは飛び級で医学校(後の東大医学部)に14歳(本当は12歳だったそうです)で入学しています(ハイスクールフリートの衛生長、みなみさんみたい。)
 欧米式の学問を学び、優秀な者は当然政府の要職に就きます。
 そんな中、日本の文化・学問は幕末の頃とはうってかわって全く省みられなくなってしまった。文化・学問、それに基づく物事の考え方から、一般的な常識と言われるもの、果ては生活様式までが、軽視されるようになります。

 それは大学を出たエリート達も同じこと。優秀ではあっても、日本のこれまでの物事や歴史に敬意すら持たなくなってしまった。そんなエリートが役所の主導権を握るのです。

 新しい組織だから、とは言ってもここは日本。全てが欧米式になるだけでなく、考え方や行動までが日本人らしからぬものになっていくのを憂えられた明治天皇が、 
 「洋学を盛んに行うのは必要なことではあるが、我が国本来の在り方を学ぶ場はどうなっているのか」
 と、国学を学ぶ場所の設置を考えるように命じられたのだそうです。
 「和魂洋才」の「洋才」は、大変な勢いで展開しているのに、「和魂」の方は研究する場所すらない。

 それで伊勢の地に、かねてより要望のあった神職の養成や、国学の研究のための場、として、「皇学館」がつくられます。
 東京では同じく研究所がつくられ、「皇典講究所」と名付けられます。
 
 wikiで見ると、久邇宮朝彦(くにのみやともよし)親王の令旨により建学されたのが皇学館。国学院は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王の令旨で開かれた、とありました。それぞれ、明治天皇の命を受けてのことです。

 皇学館は大東亜戦争中、長年にわたる許可申請の末に官立の神宮皇学館大学となり、敗戦時、神道指令により、廃校。 
 皇典講究所は国学院を併設、後に閉所。国学院は独立して大学となります。
 (天理大は研究機関ではなく、純粋に布教活動のためにつくられたものだそうです)

 さて、「皇学館」と「皇典講究所」という名称についてです。
 「皇学館」の「館」とか、「皇典講究所」の「講究所」の意味はすぐ分かります。
 「館」は図書館の館。「林崎文庫」に設置されたからでしょう。
 「講究所」は「講義研究所」と思われます。

 しかし、「皇学」とか「皇典」というのは一体どういう意味でしょうか。
 「調べたことはないけど、何となく了解している」
 、という人がほとんどではないでしょうか。
 もしかしたら「軍国主義の学問」とか「右翼のプロパガンダ書籍」なんて思っている人もいるかも。

 でも、念のために調べてみると。
 「皇学とは皇国の学問=国学」
 「皇典とは皇国の古典籍=古典」
 だそうです。

 ならば、「皇学」「皇典」の「皇」というのは「国」という意味になる。
 ということになると、「皇国」とはどういう意味になるのでしょうか。
 「くにくに」?まさか。

 「こうこく」と読まないで、大和言葉、訓で読んでみる。
 訓読みにすれば「すめぐに」、或いは「すめら(み)くに」。

 すると、「皇国」の語から、日本の在り方、日本の成り立ちが見えてきました。



 ということで、次回は「皇国」という語について書いてみます。


2012.11/19
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神嘗祭のこと

2019年12月30日 | 神社
日本の祭祀と言えば、農業に係わるものが一番大事。
 春分の日や秋分の日は、一年の農業の始めと終わりに、先祖祀りをすることで豊作を願い、豊作を祝う、ということから来ています。
 
 春秋の「彼岸」というと、仏教からのようですが、以前にも書いたように、「彼岸」というのは、実は「日願」のことで、昼夜の時間が半ばする春分の「日」に豊作の「願」をする。同じく秋分の「日」に感謝の祀り、というより、お「祝」いをする。
 仏教よりも、農事ということで、これやっぱり神様に、ということから行われ続けてきた、と考える方が自然でしょう。

 元旦の祀りとして、宮中で天皇によって行われる四方拝は、何でも北斗七星の星の形に云々、というのがあるんだそうですが、本来は文字通り、四方を拝することで八百万の神達に
 「今年もよろしくお願いします。皇祖神の勅命のままに、日本が弥栄に栄えますように」
 と、宣(の)るものだった。

 何で、正月一日か、というと、旧暦ではその日から昼が長くなるから。
 つまり、それが一年の始まりなのだ、と。
 筋通ってるし、分かりやすいですよね、これ。
 今の暦はキリスト教暦なものだから、日本とはずれてしまって、その辺が何だかピンと来ません。

 で、神嘗祭と言えば、伊勢神宮のそれを思い出すのだけれど、それぞれの神社でそれぞれにあっても、別におかしいことはない。
 考えてみれば古くからの神社で、神嘗祭をやらない方が少数派なんじゃないでしょうか。

 これまた何度も書いてきたことですが、何で「神嘗祭(かんなめさい)」というか。
 それは「神」様が「新穀(収穫物)」を「嘗(な)める」、つまり、召し上がる祀りだから。
 収穫の奉告と感謝をする祭りなので、神嘗祭と言います。

 字面だけ見て、
 「ああ、神社に収穫物を奉献するんだな」
 と見るのが一般ですよね。

 しかしこれ、気をつけて欲しいところです。
 日本の祭祀は世界中にある感謝祭とはよほど様子が違っている。
 どこが、そして何が違うか分かりました?

 「収穫の奉告と感謝」、と書いているでしょう?
 「感謝」だけの祭りなら、世界中どこでもあるけれど、「奉告」するってことになると、意外とやらないんです。
 大体「感謝祭」というのは、そこらのスーパーだってやってることで、それは「お客様に感謝します!」だから、安売りしたり増量したりすればそれでよし。

 けれども、神嘗祭に限らず、「祭祀」というのは感謝の態度を表せば良いだろう、新穀を奉献すれば良いだろう、ではない。
 「言わなくたって分かってるじゃないか」、ではなくて、口に出して言ってこそ、「奉告」してこそ、「奉献」の意味があるんです。

 ちゃんと「奉告」という名前の「口上」を述べて、然る後に、或いは同時に「奉献」する。
 未分化の状態で「感謝」、とやっているのとは違って厳格な形式があるわけです。
 ①祝詞を奏上して、②新穀等を奉献する。これが決まりです。これが祀りです。

 まあ、そんなに大袈裟なことではない。
 身近な例で言えば、食事の際、箸を手に持ち、目の前の御馳走を見て、何から食べようかな、と品定めしながら「いっただっきまぁ~~す」と言ったと同時に料理に箸を伸ばす。こりゃあいかん。
 手を打つか合わせるかして、「いただきます」と言い、それからおもむろに箸を取る。こっちには間違いなく感謝の念があるでしょう。

 「あ~っ!そうか。あのことか!」
 と言われる方があればうれしいのですが。
 実はこれ、「祭政一致」の原基形態です。
 まず「奉告」し、それから「執り行う」。
 祭祀(奉告)の後、政事(執行)に移る。

 この「まず奉告」してから、「そのままに実行する」という形が成立したのが、神武創業の時、ということになります。
 大陸から律令制を採り入れ、神祇官と太政官を置き、神祇官を、比較すれば低位に置いたのですが、それでも必ず「奉告」という祭祀を先に行い、その後、政事。太政官は奉告されたことを実行する者という形が厳格に守られました。

 その在り方が神嘗祭にも端的に表されていると言えるでしょう。

 地位が上の者が下の者に命ずる。上意下達がスムーズに行われてこそ社会は治まるもの。だから、社会に於ける権力構造というのはピラミッド型であるのが普通です。
 しかし、既述のように、日本の場合は違っていた。
 この「奉告」、そして「執り行う」という形は、日本の歴史を読み解く鍵になると思います。



2012.11/18
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神道のこと(神仏習合)

2019年12月30日 | 神社
 「あれ?仏教が入って来たから、神道はレベルアップした、みたいなこと、言ってなかった?」
 「半島の原始宗教は、仏教の前に潰滅したのに、日本だけレベルアップ、なんておかしくないか?」

 大陸も半島も、仏教が伝わることによって既存の宗教は滅びていったのに、日本だけ、何故滅びなかったのか。滅びなかったどころか、却って仏教までも理解し、我がものとしている。
 それが証拠に神道は日本文明の元になっている。

 他のアジアの諸地域と同じく、日本の原始宗教(というより自然崇拝でしかなかった)、「神道」は大陸から(半島経由で)次々と波のように押し寄せて来る神々の流入をその都度、受け止めて(受け入れて)来ました。
 戦ったら打ち破られるかも、といったような強大な渡来神ではなく、常に新しい考え方と新しい技術とそれを支える人々とに奉じられた神々でした。
 日本人はそれを受け入れて来ました。
 そうやって「自然崇拝の精華」とも言える神道が成立した。

 前回、
 「聖地」を奪われた半島の人々は、新天地を求めて、或いは部族の全滅を回避するため、この原始宗教である祖先神を奉じて海を渡った。」
 と、書いたのですが、読み直してみるとどうも
 「優れた文化を持つ渡来人により、日本文明はつくられた」
 と誤解されそうですので、ちょっと付け足しておきます。

 キリスト教が日本に入って来た時と同様、宗教(物の考え方)というのは、どうやって入って来たのか、あまり考えることはありません。
 だから意外に「或る日突然、坊さんがやって来て布教を始めた」みたいなこと、漠然と思ってませんか?

 実際は武力・財力の裏付けがある渡来の一団の中に、何かその、通訳のような形で彼ら異邦人がやって来た理由を簡潔に要領よく説き明かし、納得させるための教養人がどうしても必要になる。それが僧である確率は高い。

 全く違った考え方の社会に、今から「入植」しようとするわけですから、こっち(渡来した人々)の考えを説きつつも原住の人々の考えを知り、折り合いをつけなければならない。
 日本人が彼らに敵対する気持ちを持っていたならば、その都度、渡来人は皆殺しになっていても不思議ではない。
 それを日本人は、「良いものは取り入れよう」という「謙虚さ」と、難を逃れてきた、言ってみれば避難民に対し、「思い遣り」を以って接した。だからこそ異国の神々も受け入れ、神道を高めることができた。

 いきなり強大な敵に出くわし、一撃で弾き飛ばされるのではなく、時間をかけて少しずつ考え方を深めて行った挙句に、天孫族に国譲りを迫られる。
 しかし、それを了承した結果、「神武創業」という大業はみんなで成し遂げることができた。
 そんな日本だからこそ、仏教と対した時、力づくで衝突するのではなく、これまでと同様に「良いものは学ぶ」という姿勢を貫くことができたようです。

 仏教と敵対するのではない。仏教から自らの在り方を整序させる物差しを見つけ出し、結果、日本独自の「神道」を完成させることができた、と言えるでしょう。
 他の地域や国々はみんな陸続きです。何事に関しても突然、ということはない代わりに、日本のような冷却機関、緩衝帯としての「海」を持たない分、ウェイト差は初めから勝敗を決定してしまいます。

 日本は違う。島国として、何でも流入して来るのを闇雲に受け入れていたら身の破滅となることを承知しているからこそ、真正面から正直に習おうとし、理解しようとして来た。「沽券」とか「面子」、以前に
 「良いものは取り入れよう」
 「取捨選択の判断は分かってからにしよう」
 という本来の意味での島国根性を以って対した。

 神々が渡来して来るのを少しずつ受け入れ、理解し、世界に存在していた自然崇拝の中でも一番の「考え方(感じ方)」を手に入れた日本人は、仏教という圧倒的な力を持つ「考え方」と対することになった時、いきなり「法論」を戦わせるのではなく、まず仏教を理解しようとした。

 そこで聖徳太子の活躍があるわけです。聖武天皇を初めとする仏法への倣いがあるわけです。
 そして、「神仏習合」という考え方が案出され、日本の神々は仏の化身とされたり、逆に、仏が神々の化身とされたりする。

 元々の原始的な、「宗教の芽生え」辺りの神道ではあの仏教と論戦をやって勝てるわけもありません。
 けれど、半島に在った人々が、大陸から押し寄せて来る大勢力に居住地を奪い取られ、為す術もなく命からがら海に逃れる。たかだか数百人の人々が我が国目指してやって来る。
 たったそれだけの人数で日本を支配しようなどということは毛頭考えていないでしょう。せめて一族の者と、この地で穏やかな終焉を迎えたい。
 ところが日本人は、そんな彼らを喜んで迎え入れ彼らの知るところを学ぼうとさえ、した。

 そうやって力をつけて来た日本人が、仏教をも受け入れようとする。これまでのあり方からすれば当然のことでしょう。
 他の国(支那・朝鮮)は、原始宗教の状態の時に仏教、だったわけだから、ひとたまりもなかった。
 日本は長い時間かけて力をつけて来ていた上に、「衝突」、でなく、向かい合い、そこから学ぼうとした。仏教を理解しようとし、そうやって更に高められた目で神道を見つめ直した。


 これは奇跡と言ってもよい事なのかもしれません。



2012.05/18
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神道のこと(仏教が伝わらなければ②)

2019年12月29日 | 神社
 先回、 
 「仏教が伝来していなければ、成立していた神道は今頃跡形もなく消え去っていたかもしれません。そして、キリスト教、もしかしたらイスラム教の国になっていたかもしれません。」
 などと些か刺激的な書き方で終わってしまいました。
 でも、何故、そんなことが言えるのか。
 そのことを書いて、今回の一連の日記を終わるつもりです。

 いつだったか、正確には覚えていないのですが、場所もこれまた同じで、タイだったかカンボジアだったのか、はたまた大陸の南部、少数民族の土地だったのか。ともかく、辺鄙な地域での話です。
 その土地に行くと、それぞれの村々の入り口に門がある。
 門と言うよりも、柱を二本立てて、その上に同じような丸太が渡してある。そうです、ちょうど鳥居のような形になっている。
 そして、ご丁寧なことに、その、横に渡された丸太の上には木彫りの鶏が載せてある。それこそ正真正銘の「鳥居」になっている。

 その名を「鳥居」・・・・・とは、まさか言わないんでしょうが、やっぱり村の入り口というのは「そこから世界が違う」という印としてそうやっていたらしい。
 「守り」とか「見張り」のための櫓ではない。ただ、「鳥」がいるから、「見張り」のまじないにはなっていたかもしれません。でも、別に門扉があるわけではないんだそうですよ。

 その話を知った時、数十年前、学生だった頃に聞いた(と思う)ことを思い出しました。
 日本の神道というのは、世界中にある(又は、あった)自然崇拝の形でありながら、自然崇拝ではない。かと言って偶像崇拝の側面を持ちながらも偶像崇拝でもない。
 原始的な宗教のように見えるけれども、原始的なりの「教義」のようなものもない。
 敢えて言えば、「清明正直」、「清く、明(あか)く、直き」心持ちで毎日を生きよ、と言うだけ。

 そんな不思議な宗教(当時は宗教と思っていた)が、何故「日本にだけ」あるんだろう。
 そんなことが疑問だった時に、こう教えられたんです。
 「神社は支那にも朝鮮にもあった」
 、と。
 もっと言えば、アジアには神社があった。
 別に大東亜共栄圏を提唱して、それで神社をアジア中につくらせた、というんじゃない。神社があったのは数千年昔の話ですから。
 それがみんな滅びて、神社は日本だけに残った。

 この話を、鳥居の村の話を知った時に思い出した。

 こんな風に書けば、神社って絶滅危惧種みたいですが、まず、「神社」と言う言葉の意味をもう一度書きます。
 神社とは建造物のことではなく、「場」のことです。「神々が集う場」。それが神社です。
 神様は、本来は建物に鎮座されるのではなく、「磐座(いわくら)」などの神の「依り代(よりしろ)」に坐(いま)すもの。
 そういう場所、どこにでもあるでしょう。「聖地」という名で。
 アボリジニーの聖地として有名なのがエアーズロックですが、最近なら「パワースポット」と言われるところがあるでしょう。あれです。あの「場」が神社です。

 それが、日本以外は全てなくなってしまった。どうしてか。

 大陸も半島も、そこに新しい考え方(宗教)が入って来る(或いは新しい考え方が生まれる)と、既存の考え方(原始宗教と言っても良いでしょう)と衝突します。
 そして、既存の考え方は為す術もなく打ち破られていきます。
 そこに残された神社(パワースポット)は、新しい考え方(宗教)の流布のための拠点となる。早い話が神社が敗れ、その「聖地」に「寺」が造られるわけです。

 その時、「宗教論争」が行われたのか。いや、そんな立派なものはなかったでしょう。でも、「新しい神様の方が立派だ」という意見が勝ち、論争では既存の宗教が簡単にやり込められたのは確かです。
 そして既存の宗教は、新しくやって来た神様のきらびやかさ、賢さの軍門に降るしかなかった。

 勿論、この新しい神様とは「仏」のことです。
 仏教はこうやって、土着の宗教(原始宗教)を次々と打ち破り、その「考え方(宗教)」を大陸全土に広めていきます。半島も同じことです。
 そのため、「聖地」を奪われた半島の人々は、新天地を求めて、或いは部族の全滅を回避するため、この原始宗教である祖先神を奉じて海を渡った。
 目指すは東方の海に浮かぶ蓬莱島。(日本、のことですね)

 前後しますが、大陸では仏教の伝来、その勢力の拡大に対して、在来の原始宗教が「巻き返し」を図ります。不老長生を主とする「道教」です。道教はあのパワースポットを、仏教から取り戻し、そこに道教の「観」と呼ばれる寺院を建てます。あの仙人の修行に必要な仙丹を作り服したり、現在は「気功」と名を変えて共産主義体制下でも認められている、「導引吐納術」などの内丹も、また身体を鍛え上げる外丹も、全て仏教との宗教戦争の手段である、と言えます。


                               (続く)


2012.05/16
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神道のこと(仏教が伝わらなければ)

2019年12月29日 | 神社
 先の回は「渡来した神様もある」ということでした。
 大陸(実際は半島)と往来した神様もある、と書き、スサノヲ神やその子、五十猛(イソタケ、イタケル、イソタケル)命、更には大国主神もそうであったらしい、と書きました。
 これらは神様の力(神威)が、今、我々の考える「國」を越えたものであることを示しています。

 と言っても、最近よく耳にする「グローバル」などといったものではなく、ちょうどギリシャの神々が、人格化された森羅万象の簡単な括りとして人間に把握される(理解される)ようなものでしょう。

 却ってややこしい言い方になりましたが、日本の場合はそれらの森羅万象を畏れ、そして敬い、「畏敬」の念にまで発展させ、「崇敬」という更に一段高い境地にまで進めて、「惟神ゆいしん(神ながら)」という神道の元を創りました。

 ギリシャの神々は、その森羅万象を大まかに纏め上げて「神」とする。
 「完全なるものである神」の子である人間だから、「神」と同じ形をしている。ならば、「神」は人間と同じ形である。
 こういう論法で「神」を見る。
 「太郎君はお母さんにそっくりね」と言うところ、「太郎君のお母さんは太郎君にそっくりなんでしょうね」というような感じでしょうか。

 「神」に対しての、「崇敬」はおろか、「畏敬」の念、なんてない。
 だから、当然、「「惟神」「見てござる」というような、また、「何事にも感謝の心を」なんてのも、ない。
 言い方を換えると、ギリシャの神々は、人間と対等です。だから、神様が人間の娘に手を出したりも、する。

 大脱線しました。
 日本の神々は同じ「森羅万象」を、「畏れる」ところから見詰められる(感じられる、の方がいいでしょうか)ようになったけれども、その見方(感じ方)は、「畏れ」→「敬い」→「畏敬」→「崇敬」と発展していく。
 ギリシャと違って、決して神様と人間は対等にはならない。「なれない」のではなく、「ならない」。
 「神は自然を支配するもの。人間は神を写したもの」とするギリシャの神々と「神は自然の全て。人間はその子」として、飽く迄も「神と人」「カミとシモ」とする日本の神々の見方。

 ここで、初めは同様の出発ながら、その道を辿る際の「心の持ち様」で物事というものは百八十度違ったものになるのだな、ということが感じられます。
 「ギリシャも日本も多神教」、と言う人がいますが、その内容はよほど違ったものになっている。
 古事記を表面的に見ただけなら、ギリシャ神話との類似点はいくらでも見つかるでしょう。
 しかし、結局は物語に終始するギリシャ神話と、国の成り立ちから国の在り方、そして人の「あるべき生き方」までを読み取ることの出来る古事記とは似て非なる物です。

 
 さて、そこに仏教が入って来ます。
 当然に「異国の神」と「日本が生んだ神」との対立が「日本人の中で」起こります。
 それは或る意味では今も続いているけれど、この対立は激しく火花を散らすような形ではなく、前に書いた「惟神(ゆいしん)」の元である、「崇敬」という心での「向かい合い」が主となっています。
 であるからこそ、「神仏習合」とか「本地垂迹」とか「逆本地垂迹」という考え方が生まれて来る。
 原初の「畏敬」の念の創出から「崇敬」の心を、まずは創ってきたからこそ、仏教との対峙によって日本独自の「神道」が成立していくことになります。

 仏教が伝来しなくても神道は成り立っていたでしょう。
 しかし、同時に、仏教が伝来していなければ、成立していた神道は今頃跡形もなく消え去っていたかもしれません。そして、キリスト教、もしかしたらイスラム教の国になっていたかもしれません。

 仏教と向かい合うことにより、神道は世界でも類を見ない高い境地の日本人をつくり、この「日本文明」を発現させたと言えるでしょう。


 次回、仏教の影響力(ちから)について少し書いて、この項はひとまず終わります。(・・・予定ですけどね) 



2012.05/14
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