CubとSRと

ただの日記

或る先生の思い出

2020年03月31日 | 心の持ち様
2015.04/26 (Sun)

 できの悪い学生で、90分の授業をちゃんと聞く辛抱がなく、聞いている話も私には少々以上に難しい。
 で、当然のように居眠りをする。それも「舟を漕ぐ」なんて芸当はできず、気づいた時は完全に土左衛門状態になっていて、教室の時計を見ると30分近く針が移動している。
 何が情けないといって、それでも授業の時間はまだ三十分くらい残っていると気づいた時の情けなさときたら。恥ずかしいのと脱力感と絶望感が大挙して押し寄せてくる。
 まあ、ほとんどの講義(まだ入学したてで、講読も演習もない)がそんな具合で、でも折角高い金払ってもらって来させてもらってるんだからちゃんとしなくちゃ、と殊勝な思いが頭をよぎり、そしてまた、講義についてゆけない頭は睡魔に容易く打ち破られ・・・・。

 そんな中でたった一つ居眠りをしない、全く眠くならない講義があった。「歴史」という講義だった。(何もなし。ただ「歴史」)
 内容はその先生の講演を冊子にしたもので、その本を一年かかって習う、というもの。そしてその冊子が「吉田松陰」について講演した(らしい)ものだった。

 たった一回、一時間半かそこらで吉田松陰について概容を述べたものを冊子にした。それを一年かけてやる。何ともはや、な「歴史」、だ。
 「大体そんなもの、一年もかかるわけないじゃないか。これはつまり、あれだな、書店に並ぶこともない本を数百冊だけでも教科書として買わせれば、それなりの収入になる、と。大学の先生の小遣い稼ぎか。」
 いやらしい考えの持ち主である。先生が、ではない。自分が、だ。それは最初の講義の時に気付かされた。

 つい一ヶ月ほど前までは高校生だったといっても、その人の風体、物腰、顔付きを見れば、或る程度のことは分かる。
 年季の入った地味な背広に骨と皮だけのような痩躯を包み、口元には笑みを浮かべながらも小さな目はしっかり見開かれている。決して圧力に屈することのない迫力がある。数冊の本をいつも風呂敷に包んで抱え、一方の手には常にコウモリ傘が掛けられている。

 講義で、この松陰のことを書かれた本はほとんど使われなかった。と言うより、数行読んだら後は先生の話を聞くだけだった。
 「話を聞く」と言っても、吉田松陰は滅多に出てこない。先生自身の事、或いは四方山話で、特に「身振り手振り可笑しく」というわけではないのに話が実に面白く、いつも気が付いたら90分が過ぎようとしている。
 別に落語や講談のような、「芸」といった感じの話しぶりでもない。ごく普通の、やや歯切れの良い話し方、程度なのに何故か惹きつけられる。

 「近頃、肩凝りを感じるようになった。それは机に向かう姿勢が悪かったからだと思う。気を付けていたつもりでも、少しずつ悪いところが積み重なって『肩凝り』として出てきたのだろう。段々に気が緩んで来てるんですね」
 「疲れてくるとやる気がなくなってきます。そんな時に、『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです」
 「先生は雨が降ってもいないのに、何でいつも傘を持ってるんですか、と聞かれるんですが、講演などに行くと暴漢に襲われるかもしれない。そんな時にはこの傘で『えいっ』と突いてやるつもりなんです」

 そういう話が面白く、全く講義を受けているという気がしない。
 だからあっという間に時間が経ってしまう。何も習ってないような気がするんだけれど、何となく「やるぞ!」みたいな気持ちになっている。それでこの「歴史」の講義は人気があった。

 でも、何故「歴史」なのに「吉田松陰」なんだろう。それにこんな薄っぺらい本一冊で、更にはそれをほとんど使わないで、何で「歴史」、なんだ?
 だからと言って誰も文句は言いません。文句を言わないからと言って、「息抜きの時間だ」、と馬鹿にしているわけでもない。ただその先生の話を聞いて(おそらくは)、元気になって「やるぞ!」と思っている。そんな気がします。

 あれから四十年。(どこかで聞いたフレーズですが)
 今はそれが分かります。何故「歴史」、だったのか。何故「吉田松陰」だったのか。
 ・「暴漢が来たら傘で突いてやる」、って実際にするのではない。「(その)覚悟を以て生きる」ということです。
 「傘で突くこと」ではなく、「覚悟」が大事で、自分はそれを通そうと思っている、と。
 (それを実践し、その姿を見せる。まだ大して目の見えない若者には、だから話して聞かせる。)
 ・『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです。
 (自分で自分を律するというのは難しいようだけど、こんな簡単なことでもしたことはあるのか。)
 ・「肩が凝るのはこれまでに積み重ねてきた悪い癖の故」
 (普段の生活を見詰めないで(日常の研究作業をしないで)、外を批判するだけで、思う結果が出るだろうか。)

 吉田松陰の生き方と重なって見えるのです。そして「歴史」とは、そういう目で、そういう生き方で以て見るのだ、と。
 決して己の都合の良いように解釈したり、酷い場合、書き換えたり、するのではない。勿論、今の自分(現体制、現政府)を正当化するためのものではない。
 「歴史」には「人の生き方」を学ぶべきであり、その実践は己の毎日(日常生活)にあるのだ。
 その「感性」を、その先生は我々学生に教えて下さっていた。

 「吉田松陰は偉大な教育者」、と評すべきでしょうか?
 彼の辞世の歌(注)を見ると、歴史に学び、立派な日本人たらんと努めた一級の人、と私には見えます。
 弟子は「彼の生き方」に感じて自らを育てようと努めただけなのだ、と。



 注
 松陰辞世の歌
 「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

 
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吉田松陰とペスタロッチ

2020年03月31日 | 心の持ち様
2015.04/25 (Sat)

 学生の頃、ペスタロッチという教育学者のことを習った・・・・筈だが、みんな忘れてしまいました。何も覚えてない。頭に残っているのは以前に書いた話一つだけ。
 それも学校で聞いたのではなく、何かの拍子に目に留まった小文で知ったことです。
 「学校で何やってたんだ!」と言われそうですが、それは置いといて。

 子供らが無心になって遊び回っているそばで、しゃがみ込み、何かを拾ってはポケットに入れる不審な老人。
 しばらくその様子を見ていた警官が、ついに「さっきからポケットに入れている物は何かね?」と聞く。
 老人が「これだが?」とポケットから出したのは指先ほどの小石。
 「それじゃない。もっとポケットに入れただろう」
 「これだけですよ」
 ポケットを引っ繰り返して出したものは全て小石。

 警官はわけが分からず
 「そんな物を何故ポケットに入れたのかね。大事なものなのか?」
 「いや。子供が遊んでるのに危ないだろう?だから拾ったんだよ」
 「あの子らの中に、あんたの孫がいるのかね?」
 「いや、そうじゃないが」
 子供は遊ぶのが本分。そのための環境をつくるのは大人の仕事。教育は家庭での愛情が何よりも大事だ、と。
 孤児院を作って初等教育を施し続けたペスタロッチならではの逸話だと思います。

 二十代半ばの頃、ずっと年長の先輩にこんなこと(今となっては愚にもつかない質問だったと恥ずかしく思うばかりですが)を聞きました。
 「吉田松陰とペスタロッチ、教育者としては正反対だと思うんですが、一体どっちがえらいんでしょうね」
 先輩、ちゃんと答えてくれました。
 「う~ん。ペスタロッチの方が偉いと思うな。」
 「でも、松陰の方はたったあれだけの塾生が、ほとんどみんな、国を動かすような人物になってますよ?」
 「うん、ペスタロッチの方はみんな普通の人だ。だから」
 「だから?」
 「だから、えらい。」
 「???」

 「教育とは何か」を考えれば、成程、の答えでした。
 「教え育てる」のが教育だけれど、「教わり育つ」という面もあります。「認識」は一方通行ではない。
 施す方も「働きかけ」るわけですが、施される方も、やはり「教わろう育とう」という働きかけをしている。年齢によって中身は大きく違ってくることも考えなければならないでしょう。

 ペスタロッチは戦災孤児を引き取り、育てたわけですから、その出発点は初等教育。初等教育というのは家庭の中で親の愛情に包まれ、人を信頼する心を育むところから始まります。人を信頼する。それは肉親によって行われるのが一番自然で、意義深いものです。
 その次は「彼我(我汝)の間」を学ぶ。「人間」という在り方を社会の中で学びます。人間だとなれば、今度は社会に参加し、その運営に関わることになる。
 つまり教育とは「社会生活に参加し、社会を営み発展させる『人間』をつくる」のが根本目的だ、ということです。
 人を信頼する心も育たず、「人間」という認識も持たなければ、それは社会生活を営めないわけですから、人間ではなく、ただの「ヒト」という生き物で、それは「畜生」と言うしかない存在です。現実にはそんな「ヒト」と言うままの生き物なんて存在しません。社会に関わることなしに生まれ育つことはあり得ないので、必ず何らかの形で社会生活に関わっています。

 教育は社会を運営し、発展させる「人間」をつくり、育てるためのものなのだから「普通の人(普通の人間)」が育たなければ意味がない。
 この「普通の人」、「社会認識を持つ人間」が社会をつくっているからこそ、更にその中から選出(自薦、他薦を問わず)された人物が大きな力を発揮することができるということです。

 「普通の人間『しか』、育てていない」。
 我々はつい、そういう見方をしてしまいます。
 「普通の人間ならほっといても育つ」とか「才能を見出すことができない凡庸な指導力」、だったとか。

 「凡庸な人間を百人育てるより、非凡な才能の持ち主を一人育てる方が良いじゃないか。」
 「少数精鋭の方がいいじゃないか。その方が才能を見出す可能性が高い」
 でも、凡庸な人間が非凡な人間に共鳴し、支えるからこそ、強大な力となり大きな流れとなって、社会を変容させることになる。社会の大半を占める凡庸な(社会をしっかり認識している)人々がいるからこそ、非凡な人間が指導力を発揮して輝いて見えるのじゃないでしょうか。
 また、凡庸な人間の中からこそ非凡な人間が出現する。

 逆はどうでしょう。非凡な人間は、他の非凡な人間を支えるか。非凡な人間は他に共鳴しない。共鳴しないから支えない。他を支えないのに輝く人間は一体どこから出現するのか。

 対する松陰はどうでしょう。
 弟子は子供ではなく若侍です。もう既に「人を信頼する」とか「人間という存在(我汝の関係)」も十分に分かっている。
 そんな若者に松陰はどんな教育を施したのでしょうか。
 塾生一人一人に見合った本を提示し、読むことを奨め、一冊のノートを用意して、各自の知ること(種々の情報)を自分だけのものにせず、ノートに書き込ませ、それを誰でも読めるように室内に掛けて置く。知識の共有です。そうすれば同じ情報を以て話し合うことができる。
 山鹿流の軍学者だから、実際に色々な合戦の地形図や配陣図を用いて合戦の演習を頻繁に行った。

 環境を整え、自然に力がつくのをじっくりと待つペスタロッチ。
 力があるのに何故鍛えようとしないのか、と叱咤し、自らの実践により塾生の猛省と奮起を促そうとする松陰。

 私の愚にもつかない
 「松陰とペスタロッチ、どっちが偉い?」
 、みたいな質問に先輩は的確に応えてくれたわけですが。

 「教育者 吉田松陰」。
 称讃することで松陰の大事な面を矮小化してしまうのではないか、と思います。
 それでも尚且つ「力があるのに何故、更に鍛えようとしないのか」と叱咤し、自らもそれを実践しようとする松陰から学び取れるもの。

 次回、私の学生時代の、或る先生の思い出話を書いて、これを終えようと思います。
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「教育者 吉田松陰」

2020年03月31日 | 心の持ち様
2015.04/22 (Wed)

 実は宮崎正弘氏の「吉田松陰が復活する!」という標題の本を購入はしたものの、四十数頁読んで、そのままにしていた。
 「教育者 松陰」としてではなく、活動家に近い姿、何よりも高い志を持ったその生き方を、本の帯には「先覚者」と表現されている。成程、これが一番正しい捉え方かもしれない。

 確かに教育者でもあり、脱藩してまでも見聞を広めよう、密航してでも世界を知りたい、という活動家でもあり、なんだけれど、それらの根本にあるのは、学問に励んだが故の「本質を見極めるために、未来を見詰めようとする目」、なのだろう。
 だとしたら「先覚者(先を理解しようとする者)」という以上の言葉はない。

 けれども考えてみれば、三十歳にならぬうちに刑場の露と消えた松陰の、「業績」はともかくとして、「功績」って一体何だろうか。
 僅か十一歳で藩主に軍学を進講した、などというと大変なことみたいに思える(実際大変なことは大変なんだけど)。
 けど、学問の家柄であるのだから、あらかじめ決まっていた、多分に儀礼的なものであったろう。言ってみれば元服式のような。
 早い話、「子供店長」みたいなもので、本人は至って真剣、であったとしても、大人と同等の事が出来る筈はない。そりゃもう、絶対に無理な話だ。

 当然、藩主の方も学問を習う、と言うよりも、そのただ一度だけの進講を楽しみにしていて、松陰の成長ぶりを我が子を見るように目を細めて見ていたのではないかと思われる。
 学問の家柄だって、武芸の家柄だって、或いは河原もの、と蔑視されていた歌舞伎役者だって、小さいうちからそれぞれの「大舞台」を踏ませ、それを大人が満面の笑みで以て包んでやる。そうやって人を育てるのが古来より日本のやり方であった。 イザベラ・バードの書いた「日本は子供の天国である」というのはそういうことであろう。吉田松陰も同じ道を通っただけ、とも言える。

 松陰の功績は自身の論文等の著作物ではなく、「考えよう、行動しよう」とする弟子を育てたことであって、だから「教育者」と言われる。
 けれど繰り返すが、松陰が教えた時期はほんの数年なんだ。
 それこそ一瞬だけ、師たる松陰と弟子たる若侍らがぶつかり合い、「火花」を散らした。ほんの数年間である。
 「だから教育者なのだ」、と言うのも良いけれど、それは飽く迄も松陰の一面でしかないのではないか。

 「経営学上のヒントが埋もれているから」として武蔵の五輪書を読むことは、武術を知らず手前勝手に字面だけを読むことにしかならない。
 同じように、「効率」だとか「「少人数の良さ」だとか「無名の私学だって」、みたいな、経営学や「やる気を引き出す」教育法のような発想から、松陰を「教育者」としてだけ捉えるのは松陰を過小評価することにしかならないのではないか。
 いや、それ(松陰を「教育者」としてだけ捉える)のは却って松陰像を歪めてしまうことにならないか。

 さて、松陰の実像は一体どこにあるのだ。
 そう考えると、「木を見て森を忘れず」方式で見直すことが必要なんじゃないかと思う。具体的には「教育者とは?」「何を以て教育者と定義するのか」と見詰め直すことが、却って松陰の実像を捉える一番の近道ではないか、と。

 というわけで、ペスタロッチの逸話と比べてみたい。
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「松下邨塾」

2020年03月31日 | 心の持ち様
2015.04/21 (Tue)

 数日前、松陰神社に参拝してきた。
 家から百キロ少々みたいだから三時間もあれば行ける。
 「神戸に戻ってしまえば、やはりそう簡単には行けないだろう」と思ってのことではあるけれど、勿論天気が良ければ家に引き籠ってはいられない、という生来の落ち着きのなさの故。一番大きいのは、そりゃやっぱり、車買ったばかりだから、なんですけどね。

 二十四、五年前、瀬戸内から岩国、山口、津和野を回って家に帰った時、萩に泊まった。萩城を見たり、松陰神社に参ったりしたのだが、今回は松陰神社に参ることだけ考えていた。

 四半世紀も経ったからか、忘れっぽいからか、単にボケたのか、とにかく松陰神社がどこら辺にあったのかどんな風だったのか全く覚えてない。
 ただ、松下村塾の建物は我ながらおかしいとは思うのだが、「半分」だけ、覚えていた。「半分」というのは、「粗末だと言われるほど粗末ではない」と思ったという記憶。

 何しろ天気が良い。人が多い。
 今NHKの大河ドラマをやっているからだろうけど、とにかく旅行社の仕立てたバスで、私より年長の御一行様が次々にやってくる。案内係の人とバスのガイドさんの説明とが同時に左右から聞こえてきて何が何だか分からない。とにかく、人、人、人、だった。

 30年くらい前だろうか、吉田松陰が大きく取り上げられたことがある。
 「あの小さな村塾で学んだ者の多くが国政に携わり、近代国家建設のための大きな力となった。それは教育者『吉田松陰』の力が大きかったということである。ならば、松陰について、もっと学ぶべきではないか」
 ・・・みたいなことだった。主にこれは経営者の方面からの発想だったようで、キーワードは「小さな村塾」、「少人数」、「効率」。このあたりから語られることが多かったように記憶している。

 ・「藩校」ではなく「私塾」であるということは、国公立の有名大学ではなく、地方の小さな学校からだって中央に出て、活躍することは可能だ、ということを証明している。
 ・「少人数」だから個々の特徴を特長としてとらえ、育てることができるだろう。
 ・「効率」の良さ、は言うまでもない。僅かな人数が、それもほんの数年で、みんな一人前の政治家になっていく。
 「孔子の弟子だって長年月、師と行動を共にし、学んだのに、松下村塾のこの効率の良さはどうだ!?」

 ということで以前に、「『松下政経塾』が、その辺を多分に意識したであろうことは想像に難くない」みたいなことを日記に書いたこともある。

 三十代半ばに松陰神社に参った時、松下村塾の建物を繁々と眺めた。
 今回は改めて村塾をぐるっと一回りしてみた。
 「松下村塾」の大きな掛け看板(?)には「松下邨塾」と書かれている。本来、塾は「松本村」に在るので「松本村塾」、なわけだが、漢風の表記では「本」は「下」、「村」は「邨」なのだから、正式には「松下邨塾」と書いていたのだろう。読み方は同じ「しょうかそんじゅく」。
 ところが「松下邨」では読めない人もいるだろう、ということからか、「邨塾」ではなく、聞いたままの「村塾」と書くのが普通になっている。で、「松下村塾」と書いて「しょうかそんじゅく」と読めと言う。
 そこに「松下政経塾」が紛れ込んでも、誰も「しょうかせいけいじゅく」なんて読まない。こっちはちゃんと「まつした」と読む。
 けれど、何となし記憶ではつながりやすい。少なくとも「松下村塾」と書かれたのを見て、今は「松下政経塾」のことを全く思い浮かべない、という人はあまりないんじゃなかろうか。

 案内板には「八畳ほどの粗末な塾だったのを増築して今の規模にした」とある。
 で、窓から覗き込んで見ると旧の建物は八畳どころか十畳ほどもある。反対に増築したと言われる方はちょうど八畳。おかしい。
 市の情報誌の取材に来ていた人に「増築したのはこちらですよね?」と尋ね、肯定されたのだが、畳の枚数は旧が十畳、増築部は八畳で変わる筈もない。それに増築された八畳の方は、質素ではあるけれども決して粗末ではない、きちんとした建物である。

 もう一度回ってみた。やっと事情が分かった。
 元々は住居ではなく、ただの「小屋」だったのだ。それに庇をつけて、本来なら縁側にでもすべきところに無理矢理壁をつけ、二畳分ほど家を拡張している。違法建築みたいなものだ。だから土台もいい加減だし、横から見れば屋根を付け足したのが丸分かりだ。
 そして能く写真に出てくる松下村塾は、増築した側から撮ったものばかりであることから、原初の「邨塾」の様子が分からない。

 増築部を消して、脳裏に松陰が幽囚の身となる以前の建物を浮かべてみる。それはそれは貧相なものだ。八畳の部屋に30~40センチの座机を置いたら、一体何人が座れるだろう。そんな中での学問というのは、今の机と椅子の教室に比べてどんなだったろう。「粗末な」というのは本当だったということになる。
 そして、同時に思ったのは「粗末な建物、僅かな資料、というのは、実はこれ以上はない、と言えるほどの勉学の環境ではなかったろうか」ということだった。
 あとは師の「高い志」。そして弟子の師に対する「尊敬の念」。

 名前は似ているけど、松下政経塾は見事なくらい正反対なんじゃなかろうか、と、ふと思った。
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17/8/05 (2605年8月17日)

2020年03月30日 | 心の持ち様
2015.05/10 (Sun)

 産経新聞の論説委員氏が書かれたものです。全文転載します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【一筆多論】

 「日本紀元2605年」インドネシア独立宣言書が西暦を使わなかった理由

 「17/8/05」

 これは、ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣言書の日付である。「05年8月17日」を意味する。
 05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年である。
 宣言書に署名したのは独立運動のリーダーで、インドネシア共和国の初代大統領と副大統領になったスカルノとハッタの2人だ。

 日本が大東亜戦争に敗れた翌日、スカルノら建国準備委員会はジャカルタ在勤の海軍武官、前田精(ただし)海軍少将の公邸に集まり、インドネシア人だけで17日未明までかけて宣言書を起草した。前田は後に、インドネシア共和国建国功労章を授与された。

 スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣言書に用いた意味は重い。西暦は植民地支配への反発から避けたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。

 大東亜戦争で日本は、インドネシアを350年もの間、植民地支配してきたオランダを駆逐し、軍政を敷いた。愚民化政策をとったオランダとの違いは、日本が官吏育成学校、医科大学、師範学校、商業学校など、国づくりに必要な教育を推進したことだ。

 特に、祖国(郷土)防衛義勇軍(略称PETA)をつくり、3万8千人ものインドネシアの青年に訓練を施した意義は大きかった。彼らが、植民地支配に戻ってきたオランダ軍や援軍となったイギリス軍との間で、独立戦争を戦う中心となった。80万人の犠牲を払って独立を勝ち取ったのである。

 日本へ引き揚げず、インドネシア独立戦争に身を投じた日本軍将兵は1千人から2千人もいたとされる。相当数が戦死し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に葬られた人もいる。

 インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席した安倍晋三首相は先月22日、カリバタ英雄墓地を訪ね、祈りをささげた。その際、首相は英雄墓地に葬られた残留日本兵の墓前に献花した。

 第1回バンドン会議(1955年)では、日本代表団は、アジア独立を掲げて戦ったことを感謝され、歓迎された経緯がある。

 今回のバンドン会議での演説で、安倍首相は第1回会議の逸話にも、日本がアジア独立を掲げて大東亜戦争を戦ったことが有色人種の国々の独立につながったことにも触れてはいない。
 そこには日本流の謙虚さがあるし、当時は敵国で今は盟邦となったアメリカや友好関係にある西欧諸国への外交上の配慮がある。

 首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉でなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。

 いつの時代でも戦争は避けるべき悲劇だ。それでも、日本が国を挙げて戦った戦争に、当時の日本人がどんな理想や意義を見いだしていたのか。外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。それがバランスのとれた歴史観につながる。 (論説委員・榊原智)

http://www.sankei.com/politics/news/150509/plt1505090015-n1.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「05」年、皇紀2605年としたのは、西暦を使いたくなかったから、というのは能く分かります。
 ・・・・と言いたいんですが、どうなんでしょう、「植民地支配されていたからと言ったって、世界で一番使われているんだから、別に西暦でもいいんじゃない?そんな『江戸の仇を長崎で~』みたいなこと言わなくたって」、なんて思いませんか。
 「良いものは良いんだよ。平和憲法だって、AIIBだって。押し付けられたとか中国の都合で作られたとか、細かい事言ってんじゃないよ。そんな狭量なこと言ってたらバスに乗り遅れるよ。もっとグローバルな見方をしなきゃ」?
 英語は何で世界中に広まっているのか。優れた言語だから?

 色んなことを言うのは自由だと思います。だから、天皇陛下を「天ちゃん」と言ったからって別にかまやしないし、総理大臣呼び捨てにしたって逮捕されることはない。
 ただ、それを言うことで、己の品性、人格というものを他者から批判される、或いは非難されることも受け入れなければならない。
 となれば、それなりの覚悟はいつだって必要なわけで、信念持って(確信犯、ですかね)言った場合には批判されたって耐えられるけれど、唯の思い付きで調子に乗って迂闊なことを口走ってしまった時には、もう落ち込むしか手はない。
 「東南アジアの人々には酷いことをした」、と謝罪しろ、って。このインドネシアの人々は「東南アジアの人々」じゃないのか。
 ・・・・なんてことを、考えない人はやっぱり考えないんでしょうね。
 「細かいこと、言ってんじゃないよ!」
 って、一喝してやっつけた気になってるのは幸せでいいだろうけど・・・・。
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