CubとSRと

ただの日記

違和感 「天皇制」附

2020年10月26日 | 重箱の隅
 今に至っても「皇室」のことを、「御皇室」と書かれ、また口にされる人、多いですよね。保守の言論人、と言われる人だって、結構やってます。
 つい言ってしまい、つい書いてしまうんでしょう。尊崇の念からのことだ、とは思います。
 貶すのではないから良いようなものですけれど、実はこういうところに本心というものがあらわれる。
 いや、何も「ウソ、ついてる!」なんて言ってるんじゃないんですよ。そうですね、「本心」というより、「心情」、「真情」などと言った方が良いでしょうか。「心象」の方がいいかな?

 皇室に対して、尊崇の念が強くあるならば、却って滅多に口にしない言葉。それが「皇室」です。
 「言挙げせぬ国」ということの意味は、そういうことです。「畏れ多いことと思う」、「特に大事に思う」ことは、できるだけ口にしないようにする。
 ほら、夫婦の話の中だって能くあるじゃないですか、「この人、私のことをちっとも『愛してる』と言ってくれない」、って。
 で、何かの拍子に「とても感謝している」、なんて言われて涙する場面が、テレビで流れたりする。
 だから昔々の天皇が、野辺に菜を摘む乙女に、「籠(こ)もよ 美籠(みこ)持ち~名告(の)らせ~」(「名前を言いなさい」)という歌を贈ったのは、名前を言えば、天皇からの求婚を受け入れたことになるからなんだ、と学生の頃、習いました。

 尊崇の念があるからこそ、つい重ねて敬語を使ってしまうんだと思います。
 でも、尊崇の念が、繰り返しの思考により、深まったものならば、繰り返すうちに何となく違和感を持つようになるものです。
 違和感を持たないままだとしたら、やはり「本心は?」となってしまう。そんな人が「御皇室」と言いながら、「天皇制はなくしてはいけない」、なんて言ってるのを聞くと、「何だかなぁ」と思ってしまいます。

 尊ぶのなら、滅多に口にしない。どうしても、という時は「皇室」は「皇室」で、良い。「天皇制」なんて「制度」は日本古来の国体(國體)を無視した言い方です。天皇は制度ではない。「天皇家」、など存在しないのですから。 大体、名字(姓)のない「家」がありますかね~?
 他国には姓があるから、「王」が倒されて違う「姓」の王朝が建てられる、「易姓革命」が起こります。日本は姓がないから、別系統の王が天皇に、なんてことは起こり得ない。継体天皇に限らず、皇統は一つです。

 これと同じく思ったのが、「八百万の神々」か、「八百万の神達」か、です。
 何となく「神々」の方が良くって、「神たち」なんて言うと、「おい!君たち」みたいで何だか神様を見下しているように思ってしまう。そんなこと、ないですか?
 でも「~たち」というのは、平家物語で能く目にされたと思います。「平家の公達(きんだち)」の「たち」で、意味は「方々」。
 これは尊敬語です。最近、「私たち」というのを能く聞くけど、それは自分で自分に敬語を使っているわけで、言ってみれば「オレ様」と一緒です。「私たち」という言い方こそが間違いということです。「私たち」ではなく、「私共」、或いは「我々」というのが妥当でしょう。

 あ、脱線した。
 「八百万の神々」、でした。「神々」、って「神、神、神・・・・・・」ということだから、どこまで行っても尊敬語はない。
 対して、「神たち」だったら、「達」が尊敬語ですからね。

 ・・・・・まあ、「神」、というだけで、敬語なんて吹っ飛んでしまってますけどね。
  
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違和感 「天皇制」

2020年10月25日 | 重箱の隅
 「天皇制」って言葉、よく聞きますけど、違和感、ありませんか?

 昔、美濃部達吉博士(昔の都知事、美濃部亮吉の父)の「天皇機関説」というのがありました。
 「畏れ多くも天皇陛下を『機関』、とは何事だ!物みたいに。不敬ではないか!」ということで、博士は尋問を受けたのだそうですが、
 「私の論文のどこに陛下を愚弄するようなことが書いてあるというのか!」
 と、博士は一歩も退かずやり合ったのだそうです。
 主義の違いはともかく、学者たるもの、学説を主張するに命を懸ける事は誉められこそすれ貶されることではない。言を左右にして絶対に謝ろうとしないどこかの政治家に比べたら、数等良い。

 それはともかくとして。
 天皇陛下を、学説としてそうであっても、現実に「機関」と表現するのは、相当な覚悟の上だったのでしょう。

 「天皇機関説」。
 国家という大きな仕組みは、有機的な生命体と言っても良いもので、その複雑な構造体には、頭脳(中枢)や心臓となって国を動かす(国政)存在が必要不可欠であり、我が国では天皇がその必要不可欠な存在であって、何事に於いても天皇の聖断を仰がなければならない。正に天皇という存在は国を成り立たせる最重要な「機関(仕組み)」なのである。
 大まかに言えばこんなところでしょうか。

 「我が国にとって何より大切な仕組み(機関)」と唱える美濃部達吉博士に対し、「天皇陛下を物と同じような見方をしている」と怒ったのが、軍部と野党の立場。唯物思想と皇国美化視の対決です。
 しかし、根本的に価値観が違うのだから、双方共に天皇陛下を尊崇してはいても、平行線です。
 軍、野党は陛下を神聖視(確かに、帝国憲法には『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』とありますが)しているのに対し、美濃部博士は「国体」の最重要な存在であると、存在意義の面から尊崇していた。
 尊崇はしていても、一方は「神として」、であり、一方は唯物思想で、しかし国家を定義する「法」に於いて、特別な存在、としていた。
 だから、軍、野党から見れば不敬にしか見えないし、美濃部博士からすれば、「頭脳のような存在」ということのどこが不敬なんだ!ということになる。

 自信を持って反駁する博士に対し、遂に罪を問うことはできませんでした。
 「どうも不敬ということではなさそうだな」となった、と見ます。

 ところで、この「天皇機関説」の「機関」というのは、意訳なんだそうです。
 本当は「機関」でなく「器官」。
 だから、「天皇機関説」でなくって、本来なら「天皇器官説」です。
 こう書いたらどんな感じになりますか?
 「天皇機関説ならまだしも、天皇器官説とは何だ!不敬だ!」
 となりませんか。
 美濃部博士も「器官説」という、臓器を思わせる(臓器ですけど)生々しい表現でなく、その存在の意義ということで敢えて「機関」としたのでしょう。

 でも、これ、よくよく見ると「機関(仕組み)」という命のないものに対して、「器官」は血の通った最重要な存在という感じは強くなります。
 美濃部博士でさえ「器官」と訳するのをためらって「機関」とした。
 しかし、そのために却って血の通わない冷たい仕組みとしか捉えられなくなった。(勿論、「天皇器官説」とやったら、全く問答無用、だったでしょう)

 唯物思想と天皇陛下、さらには皇室、は相容れないもの、と結論付けるのは簡単なことです。けれど、それでは「ああそうですか」、で終わりです。
 繰り返しますが、美濃部博士が「器官」とせず、「機関」としたこと、また自分は陛下に不敬の気持ちなど、毛頭ないと主張したことから、陛下を尊崇する気持ちはあったと思います。
 ここを見なければ唯物思想を持つ日本人は、日本人ではない、と切り捨てられるばかりになる。

 さて、では本当に、天皇陛下は「器官」乃至は「機関」なのか。
 現実の現代社会ではそう解釈されてもしょうがないでしょう。

 「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」
 とあります。
 「象徴という立場であり、日本国民がそれを決めているのだ」となっています。これこそ不敬な条文です。
 「国民の総意が天皇の地位を認める(総意に基く)」ということは、「国民の支持」どころか「国民の指示(指図)」といっているのと同じでしょう?

 「だから占領下で主権のない状態でのみ存在した、『日本国憲法』という名の占領国統治法なんだから、昭和27年の独立によって無効になったんだ。大日本帝国憲法には、ちゃんと書いてある」
 と現憲法無効論を唱える人は居ます。確かに筋の通った考え方です。

 けど、それが欧米式民主主義の中では、民主主義だから多数の意見を採るが故に、「そんなこと知らない」という国民が大多数の中では、いくら言ったって通らない。

 百歩譲って、大日本帝国憲法ならどうでしょうか。
 確かに、こちらは「国民の支持、指図」は関係ない。けれど、こう書いてある。
 
 国民の支持、或いは指示について書かれてはいないけれど、帝国憲法の「神聖にして侵すべからず」という文章は、一体誰が定めたのでしょう。天皇自ら?
 「欽定憲法なんだから、天皇自らが定めた」ということになりますが、やはり、自分のことを自分で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と書いたにしても、設定は、「憲法によって天皇の地位が定められている」ということになります。

 つまり帝国憲法でも、いや、帝国憲法でこそ、天皇の地位は「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざるものと「規定」されています。
 国、国体を「仕組み」として捉えたら、唯物思想からであろうと皇国美化視からであろうと、こんな風に「規定」されざるを得ない。

 そうではなくって「国体の本義」は?と、つまり、「仕組み」でなく、目的は?と捉えたら命の流れが見えて来ます。血の通ったものになる。
 そして、「国体の本義」なら、早くから明らかにされている。あの天壌無窮の神勅に書かれている。
 「この日本の国は、天照大神の子孫である天皇が治める国」の一言です。
 「天皇が治める国」。それだけ、です。

 この一言が何故「国体の本義」を明らかにしていると言えるのか。それはそこに続く言葉で具体的に説明されています。
 「天皇が(民草と共に)栄えよ、天壌に窮まることが無いように(栄えよ)。」
 天皇も赤子である国民も共に、ということです。

 こう見て来ると「天皇制」という言葉は、「国体」に「天皇」という存在を配置する(制度化する)国家体制を意味する言葉になります。
 それは「天皇器官説」、或いは「天皇機関説」そのものです。

 「皇統の護持を。皇室の弥栄を」という人々が、そのために「天皇制云々」と口にすること。妙に違和感を感じるわけです。

 まあ、単純に「天皇制」という言葉は、歴史を「階級闘争史」として見る戦前の共産党が造った言葉ですから、違和感を感じるのは当然のこと、と言われたらそれまでなんですが。


 補記

 「天壌無窮の神勅」

 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。 
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違和感 「愛国」

2020年10月24日 | 重箱の隅
 ちょっと悪乗り(?)して、もう二、三回。

 「親の恩は山よりも高く海よりも深い」、というんだと子供の頃、聞いた覚えがあります。
 詳しくは「山より高い(高く尊き)父の恩 海より深い母の愛」、だったようです。
 ちゃんと父母の性質を対句にして説いてある。

 「父の愛」、じゃないんですよね。「父の恩」。
 父親というものは山のように峻厳で大きな、仰ぎ見る存在。
 そうやって父を仰ぎ見、目標とすることで子供は努力し、向上する。それは「恩」という言葉でしか言い表せない。
 又、父の方も仰ぎ見られる視線を感じ、一所懸命に生きる。
 無邪気にその姿を仰ぎ見ていた子供は、後にそれは自分のために見せてくれていたと捉えるようになり、恩義を感じるようになる。

 一方、「母の恩」、ではなくって「母の愛」。
 母は海の如くに全てを包み込む。そうやって母の優しさの中で、子供は気持ち穏やかに、周りと和やかな関わりを作っていくことを学ぶ。
 やっぱりこれは母の「愛」。
 
 「恩」と「愛」が揃って一人前の人間となる。

 「愛国」という言葉はあるけれど、「恩国」という言葉はありません。
 あるのは「報国」。
 「恩」「愛」は対になっているけれど、「愛」「報」は対になっていない。

 考えてみると、「国を愛する」という言葉にある、「愛する」というのは漢語です。音読みです。大和言葉ではない。
 
 「愛」って何だろう。
 「愛する」は「愛(あい)する」、だから音読みということになるんですが、じゃあ、この「愛」という言葉、訓読みはないんでしょうか。訓読みなら当然、日本での意味が分かる筈です。

 「愛おしい」「愛しい」。
 これ、「愛(いと)おしい」「愛(いと)しい」と読みます。
 でも「いとおしい」「いとしい」は、「愛おしい人」「愛しの君」という言葉があるのをみれば、どうも、「好き」という意味らしく、そうなると「愛国」→「日本が好き!」、みたいなところになる。
 何だかちょっと違うような気がしませんか。

 「愛しい」。これ、「愛(かな)しい」とも読むそうです。「悲しい」ではないけれど、でもちょっと似た感じは、ある。
 あまりにもはかなくてこわれそうだから、大切に守ろうとする。そんな気持ちを「かなしい」というんだ、とか。
 でも「国」を「愛(かな)しい」というのは、これまた、違う感じがする。そんな「儚な気な」存在、じゃないでしょう、国って。絶滅危惧種じゃない。

 「愛(め)でる」。「好き」でも、明るく陽気な感じです。
 「これ、いいなあ。好きだなあ、こんなの」、というのが「愛でる」。

 「いとしい」「かなしい」「めでる」、と思いつくままに、「愛」の訓読みを挙げてみましたが、やっぱり「愛国」の「愛」には当てはまらない。

 ということは、日本には「愛する」という概念がなかった。また、「愛国」という言葉もなかったのではないか。
 似た言葉はありますよ。初めに書いた「報国」です。
 あの楠木正成の「七生報国」。国に大恩があるから、それに報いる。
 「国に報いる」。「愛国」の一つの形です。中でも激しい形、といえるでしょう。四魂の中の「荒魂(あらみたま)」にそっくりです。

 まあ、考えてみれば我が国の男は、妻に対してでさえ「愛してるよ」、なんて言ったら死ぬんじゃないかと思ってるかの如くにして暮らして来ました。
 だから何かの拍子に「妻には感謝しています」なんて言うと、奥さんは「そんなこと言われたの、初めて」と感激して涙ぐんだりして。

 妻には言わないけど国に対してなら言える?そりゃないでしょう。「愛する」という言葉をそういう風にしか捉えていなかったんですから。
 大体が「愛する」というのは押し付け、自己主張そのものです。自分の気持ちを相手に押し付け、無理やり囲い込み、強引に(我が身勝手に)守ろうとする。「愛は惜しみなく奪う」或いは「神(愛)は押しのけつつ抱きしめる」がそうでしょう。「愛」の鍬形をつけた兜の直江兼続だって、あの「愛」は、愛染明王、もしくは愛宕権現の「愛」だというじゃありませんか。

 では日本人は、国に対してどんな気持ちを抱いていたんでしょうか。
 少なくとも、「愛国」などという言葉で表現できるような気持ちではなかった、ということははっきりしています。
 けれど、「一旦、緩急あれば義勇公に奉じ~」です。それが南北朝期の初め、「報国」という形で現われている。(あ、もっと昔に「醜(しこ)の御楯(みたて)」というのもありました。大王(おおきみ)をお守りする強靭な楯。)


 日本人はそれぞれの土地にあって、懸命に生き、土地を大事にしこそすれ、「国を愛する」なんて考えたこともなかったんじゃないでしょうか。
 もっと言えば、「国を愛する」、なんて考える必要も口にすることもない。そんなの当たり前過ぎることだから。
 自らの所領を守ること、困っている隣人を助けることで、その先の日本全体を守ることを推察していたのではないでしょうか。


 「愛国」は、「一生懸命」や「誠心誠意」のように、方向のはっきりしない、目的の見えない曖昧な言葉です。日本人はそんなことは全く考えない。
 でも、隣人同士助け合い、所領を守る延長線上に、幕府があり、その先には幕府をも頭を下げさせる朝廷がある。
 「報国」、「一所懸命」、「正心誠意」。

 「愛国」、なんて歴史の新しいぼんやりした言葉でなく、ただ、「報恩報国」、でいいんじゃないでしょうかねぇ。 
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もう一つ

2020年10月23日 | 重箱の隅
「賞味期限が切れた」?

 「賞味期限」って変な言葉だと言われて久しい。
 「賞味」というのは「味を賞する」、つまり「美味しい、とほめる」ことです。
だったら、「賞味期限」というのは、「美味しいとほめる期限」ですよ。
 何だか「美味いって言えよ」と強制されてるみたいだ。
 これ、言葉の意味をあまり考えずにつくった言い回しなんですね。
 
 元になったらしい言葉に「笑納」があります。
 「つまらない物ですが、御笑納下さい」
という言い回しに、日本人の謙虚さ、思い遣りが見てとれます。
 この頃は、作法の先生でも、「つまらない物」という美しい言い方を遣わないようにし始めているのが気になります。
 「外国の方は本当にそう思ってしまいますから。『つまらないものなら、何でくれるんだ?』って」。おかしな説明だけど。

 おっと、脱線の脱線になってしまいました。脱線まで戻ります。
 「笑納」は「笑われるほどの、つまらない物ですが、どうぞ、お受け取り下さい」です。そこから派生した「賞味」は「あんまり美味しくないかもしれませんが、どうぞお召し上がり下さい」。
 だから、「笑味」でないと、考えの筋道が通りません。
 でも、正しく書くとここで言われるんです、きっと。
 「何これ。『笑味期限』、だって。字、間違ってるぅ~。あったま悪い。え?これが正しい?何で?変だよ~、だって味が笑うんだよ?」変なのはお前だ。

 とは言え、あまり馴染みのない言い方です。
 それならば、と「消費期限」という言葉ができました。ただ、ちょっとこれは、あまりにも事務的な感じがします。最近は「賞味期限」を過ぎても食べられる期間が「消費期限」、なんて無理やり納得させているみたいですね。そこまでやったって「賞味期限」はやっぱりおかしい。


 結局、正しい筋道よりも、意味は少々おかしくても、何となし、言い習わしてきた言葉に近いものの方を、つかう。
 「何気なしに」が「何気に」、「気色悪い」が「きしょい」に。(「二つとない」が「一つとない」になった時は、さすがにコケそうになりましたが。)

 何でこうなるか。
 原因は、ただ一つ。「無知蒙昧」。物事を知らず、頭の中が真っ暗でゴタゴタしているからです。
 何も難しい業界用語や学術用語を使う必要はありません。却ってみんなに知らせるには、日常遣っている言葉の意味を、しっかりおさえて、きちんとした論の展開をこそ、すべきです。
 つまり、急がず、ちゃんと考えて話すことが大事です。
 
 昨日、「そこまで言って委員会」で、初めて、噂の「張景子」という、朝鮮民族系中国人の日本帰化人を見ました。
 彼女は筋金入りのシナ共産党員ですが、考えながら喋るわけではありません。勿論考えて喋るわけでもありません。問題に対して反射的に頭に浮かんだ答えを猛烈な勢いで説明するだけなのです。
 だから、永久に日本人にはなれない(もっとも、本人はならない、と思っているのでしょうが)。

 これから、内からも、また、彼女のように外からも、日本人でない日本人が出てきます。その時(今がその時ですが)我々は、我々の持っている力でしか戦えない。
 我々の力は謙虚さです。この謙虚さを以って、日常の言葉を遣って、考えてから、物を言う。論の展開をする。

 主語を言い、述語を言って、以降長々と良く言えば説明、悪く言えば言い訳をするのが洋の東西を問わず多くの国の言葉遣いです。
 日本語は違う。説明をする、時には言い訳をする。しかし、言葉の最後で、説明してきた事柄を実行する。
 「この言葉、変だな」「この言い方おかしいな」と考えたら、正しいと思う形に直して言う。正しいと思う形に直して実行する。
 それが、変だったら周りの人が何か言ってくる。そこで、会話がはじまる。
 問題集の答え(模範解答)が頭に入っていて、そこから問題文へ戻るなら、問題集の意味はない。合格率は高くなるけど、社会の役に立たない頭をつくることになる。

 政党というのは、それぞれ主張するところは違っていても「かくあるべし」「かくあらまほし」という国の姿を実現させようとつくったものでしょう。
 「時流にそぐわないから」とか「流行に乗れ」なんていう政党に、何の意味がありますか。百年先の国を描いて見せるのが政党じゃないのですか。
 煤けているようでも、カビがはえてしまったようでも、その主張が旧来と変わっていなければ、そして、筋の通ったことを言っているならば、何を変える必要がありますか。


 
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2020年10月22日 | 重箱の隅
 「何なら」の誤用ということから、以前に書いた日記を再掲。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「或る一日」

  ところで「雨模様」というのは、「いかにも雨の降り出しそうな『模様(雰囲気、感じ)』~」という意味で、本来の意味は「降らない(降ってない)」ということらしいのだが、実際の天気予報では「もしかしたら降るかも(だから傘を持って出たほうが~)」といったニュアンスで使われることのほうが多いようだ。
 最近では更に進化(?)して時折雨粒が当たるような場合まで「雨模様」と言ったりしている。「模様」が無視されている。
 「雰囲気(ふんいき)」を言いにくいからか、「フインキ」という。「女王(じょおう)」をイントネーションの関係からか「じょおおう」と言ったり、「何の気なしに」から変わった「何気なしに」が、長過ぎるからか「なし」が省略されて「何気に」、になったり。
 そのみょうちきりんな言い回しのためにこちらは彼が言いたいことを掴むのに却って時間がかかったりする。
 「情けは人の為ならず」が「情けをかけてやっては、その人のためにならない(心を鬼にして接するべき)」となっては、もう正反対なんだけど、結構それで通用するようになっている。ことわざというより箴言、金言の類だから、理にかなっていれば正反対の解釈でも素直に受け入れられるんだろう。


 こうやって重箱の隅をつつくと、面倒くさい奴ということになって、
「言葉は生きてるんだから、それらの用法は世間が受け入れた時点で正しいとせざるを得ない。いや、そうすべきだ」
、とNHKが十把一絡げにして説諭する。そして民放局はそれに一斉に右へ倣え、となる。斯くして誤用は堂々と辞書に掲載され、読者の頭をして混乱させることとなる。


「世間が受け入れた時点で正しいとせざるを得ない」
って・・・・。
これ、「嘘も百回言ったら真実になる」と同じだよ?
「一人でも虐殺されたのなら、『虐殺はあった』のである。数量は問題ではない。だから、『南京大虐殺はあった』のであり、三十万人が日本軍に殺されたというのは真実である。」
「慰安婦おばあさん本人から、『日本軍にジープに乗せられて連行された』、と直接聞いた。だから真実である!」
・・・・ん?

また脱線したよ、シャチョさん。


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