CubとSRと

ただの日記

雨、雨、雨

2021年08月21日 | 日々の暮らし
 8月12日(木)

 雨、雨、雨。そして、雨。
 月曜日のゴミ当番は、初めて雨の中での作業だったが、大したことをする必要もなく終わる。
 今日、木曜日は二回目。そしてこれで当番は御役御免となる。
 と言うことなのだが、またもや雨。今回は二回とも雨。
 でも、二回とも大したことをする必要はなかった。月曜は掃除の必要すらなかったし、今日木曜日だって鴉除けのネットをまとめるくらいで終わる。
 
 そういえば集積場の掃除は必要なかったものの、なぜかティッシュが一枚、コンクリートの床面に張り付いていた。
 他には全くゴミがなかったし、そのティッシュだってただ濡れて落ちているだけ。
 ゴミ袋からこぼれ出てしまったものなら、他にも散乱している筈だが、一枚だけ丸まって、所在なげに落ちている、というのはちょっとシュールだ。

 自分がゴミを出すときには、前回みたいに9時半でも既に回収した後、といったことがあるのに、当番の時は不思議なくらい10時を随分回っていても、未回収だったりする。
 今日もそれだった。
 10時をだいぶ過ぎた頃、わりと強く雨が降る中、あの頭からかぶる雨具を着て腕の生えたてるてる坊主みたいな格好になって様子を見に行ったのだが、まだゴミは整然と隙間なく置かれてあった。

 
 取り立ててどうと言うこともない話だから、本当はあえて日記に書くことでもない。
 けど、こんな「どうということもない」、「敢えて日記に書くことでもない」話も、時間の中に並べてみれば同じ重さの「出来事」なわけだ。
 ということは、書かなければ十把一絡げの「取り立ててどうということもない、記憶に残らない一日」、となる。
 そして、そうやってしまうと、振り返った時「意味のない毎日を過ごしてきた」とか「取り立ててどうと言うこともない面白くもない毎日だった」と、つい思って(査定して)しまう。


 同じことでも「日々是好日」と感じることもできるのに。
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(続き)主目的は表札の注文

2021年08月20日 | バイク 車 ツーリング
 「とにかく今日は『帰り掛けに表札を注文』することだけだ。」
 「ついでに『麦茶』を買うんだ。」
 というわけで、当てなしに直進していたのをやめ、右に曲がる。

 この時期、葡萄が売られている。
 昔は道路沿いにいくつも葡萄販売のテントが張られていたのだが、ここ数年ですっかり姿を消してしまった。時折り見えるテントは、すぐ近くにあるブドウ園の直営ばかりらしい。
 今日、偶然にそのうちの一つが道路の右側に店開き(テント設営)をしているのを目にした。そこに車が並び、葡萄を買い求める客の行列ができている。

 三台ほど前を走っていた高級そうなベンツが、ハザードランプを点けていきなり路上駐車。片側一車線。対向車が来るため、後ろの二台は追い越しができず、すれ違い待ち。コペンは三台目。
 初めは右折して駐車場に入ろうと思ったのかもしれない。けど、駐車場と言うより砂利のままの駐車スペースで入口が分からなかったのだろうか、それとも満車で早々に諦めたのか、ベンツはやっぱり葡萄を買おうと路上を駐車場に定めたらしい。

 去年も何度か買った(この場所ではない)けれど、行列を見ると、もういけない。二袋、三袋とまとめ買いをしていく客が多く、見る見るうちに売れてしまって、自分の番になった時、すっかり売れてしまっているかもとひやひやしながら並ぶのは、精神衛生上、全く良くない。
 で、「そこまでして買わなくたっていいや」と思ってしまう。
 「今年は買わないかもなぁ」と思いながら北へ向かう。

 右に曲がった時から、新たな買い物予定品が頭に浮かんでいる。葡萄ではない。「桑の葉茶」だ。
 一昨年辺りからか「柿の葉茶」を飲むようになった。そこから興味が湧き始め、熊笹茶、ドクダミ茶と試して、昨年から桑の葉茶を買うようになった。
 それがすっかり気に入って何度か買っていたのだが、或る時、陳列場所に見つからないので店の人に聞くと、時期が過ぎたので来年まで入荷しません、と言われる。
 それから数か月。ん?じゃ、半年も経っているのか?
 なら、もう入荷しているだろう。買おう。

 ところが、「先日入って来てたんだけど、みんな売れてしまって」という返事。無惨。
 「じゃ、今度いつ入ってきます?」と聞いたら盆明けには入って来るかも、と言われる。電話を入れて、確認してから行くしかない。
 結局、何も買わずに道の駅を後にする。

 でも、いい。今日の目的は「表札の注文」。付録が「麦茶」。

 帰り道で去年何回か買った農協の直販テントを目にする。葡萄の袋は僅かだが、客も二人ほど。
 「今年は買わないかもなぁ」と腹立ち半分で思っていたことなど、そこはそれ「年の功」か「老人力」か、きれいさっぱり忘れて、迷わず駐車場に入るコペン。二房1500円の葡萄をトランクに入れ、ニコニコ顔で帰る。
 
 勿論、最初の目的である「表札の注文」は忘れることなくホームセンターで済ませた。麦茶のパックも売っていたから一緒に買った。

 ただ何となく走るだけで、目的は一つ、付録も一つの「ショートツーリング」。それが、思いつきのお茶探しや葡萄購入ということも含めて、曇り空の下、数時間にわたって楽しむことができた。
 暑くはあっても曇り空。トップを閉めることもなく、だからエアコンをつけることも遂になかった。真夏の車でこれは気分が良い。

 「予定通り」というより、予想(期待)以上の100キロショートツーリング。
 
 

 


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予定通り(?)のショートツーリング

2021年08月19日 | バイク 車 ツーリング
 8月10日(火)

 今日の予定は表札の注文。
 何年も前、台風の後だったか、家に入ろうとして階段を上がり、何気なく門柱を見たら何か変だった。すぐ気が付いた。表札がない。

 階段を上がり切ったところに御影石の表札が斜めに二つに割れ、落ちていた。長年の雨と風で接着面から剥がれてしまったのだろう。
 千円や二千円で買えるものではないから、以降、数年間表札のない家になって現在に至る。割れた表札を接着剤で・・・とも思ったが、袈裟懸けに切られた表札を掲げている、なんて切られ役みたいでゾッとしない。

 話は変わって。
 晩の酒の肴に、ちょっと肉も食べたいけれど、冷蔵庫の中にある物を片付けるのが先だ。ししとう、苦瓜は今日食べよう。茄子は昨日山盛りに作ったのが半分残っているし、砂肝を炒めた物も残っている。少なくとも今晩は四、五品ある。それだけあれば十分。

 6時過ぎに起きて、ストレッチを終えた後、小振りのバナナを二本食べ、出発。
 初めは、「とにかく麦茶を買おう」と思っていた。買い物の帰り掛けにホームセンターに寄って表札の注文をする。
 それで、2時頃までに帰って来る。昼間は暑いだろうけど、最悪の場合はトップを閉めてエアコンを点ければいい。
 とにかく今日肝腎なのは「帰り掛けに表札の注文」。この一点。付録が「麦茶」。
 ・・・・だったんだけど、どこでどう間違ったんだろう。

 暑くなるということだったが、10時前だから、まだそれほどでもない。

 機嫌よく流していたいけれど、クルマと言うのは不便だ、追い抜くことも追い越させることも難しい。
 前が数台詰まっている。そこに詰めるのも‥‥と思っていたら黒いデカい奴が後ろに来た。三菱のデ何とかいうやつだ。ひとつ前の型だろうか。

 初めは十二分に車間距離を取っていたから、別に気にも留めなかったのだが、数分後、妙に間を詰めてきた。
 「ぶつけられる」とは思わなかったものの、ちょっと近い。
 「(おいおい)」と思っていたら、離れた。
 しばらく、続くカーブで離れていたのだが、直線に入ったらまた接近してくる。またもや、ちょっと近い。いや、近過ぎる。
 ‥‥と思ったら、また離れる。

 煽っているのではなく、運転に集中していないのかもしれない。スマホを見ているとか。‥‥余計に危ないじゃないか!

 他県ナンバーなら、カーナビに目を取られてということもある。‥‥でも、一本道だし。今、見る時じゃないだろう。
 もしかして居眠り運転?それなら蛇行する。ナンバーは?神戸。
 となると、これはやっぱりスマホを見「ながら運転」?

 煽り運転より、或る意味怖い、悪意が全くないんだから。危険を知らない赤ん坊と同じで、全く無意識に追突してくる。

 「やだなぁ~」と思っているうちに、脇道のある丁字路に差し掛かった。
 いつもの通り、左折離脱!・・・と思ったら、彼も続いて左折した。
 間違いない。彼の車はここをいつも走っている地元民の車だ。

 そうこうするうちに消えてしまった。商用車ではないからこの辺りの住人だったのかもしれない。

 急に直進する気が失せた。今は買い物の当てなしに走っている。別に直進する用もない。とにかく今日は「帰り掛けに表札を注文」することだけだ。

 そしてついでに「麦茶」を買うんだ。


 (続く)


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我が身可愛さ?それとも心遣い?どっちだってうれしい。

2021年08月18日 | 日々の暮らし
 8月9日(月)

 昨夕から風が強く、夜中になるとそれに加えて小降りながら、雨。
 でも、風が強いから叩きつけるような雨で、強雨に感じる。

 台風九号だったか、鹿児島から上陸し、今日、日本海(島根沖)に抜けて早々と温帯低気圧と名前を変えたものの、勢力はさらに強くなる。
 明日は東日本から東北にかけて暴れ回るらしい。
 住んでいる辺りは夕方になって雨は止んだものの、強風はまだ続いている。
 そういうわけで今日は一日(夕方まで)雨。なので出掛けることはしなかった。

 しかし今週はゴミ当番。
 この雨と風の中、ゴミ集積場の後片付けなんて大変だな、といささかうんざりしながら、昔バイク用品ショップのくじ引きでもらった頭からかぶる雨具を着て、10時過ぎ、まず様子見に行った。
 集積場の後始末と言うのはめんどくさい。ゴミ袋が破れたり、ちゃんと括ってなくてゴミがこぼれたりしているのを箒で掃き取り、自宅に持ち帰って次回の回収日まで預かって(?)置かねばならない。
 更に、集積場のコンクリートの床に水切りの十分でなかった生ゴミから流れ出た汚水が染みついているのを、持って行ったバケツの水で洗い流す。
 生乾きになった汚水はなかなか落ちないから、水を掛けては箒を掛けるということを何度も繰り返す。
 却ってそれなりの量の雨が降った後の方が、簡単かもしれない。
 (雨は小降りだったものの、風が強くて傘を差せるような状態ではない。雨具を着て出たのは正解。)

 けど、この上にゴミが、それも紙類が散らばっていたら最悪だなと思いながら行った。
 コンクリートの床に濡れた紙が張り付いているのは始末に困る。箒で掃いても取れないから手で拾うしかない。一枚だけならまだしも(それぞれの事情なんだろうけど)何かの拍子で、紙吹雪を作ったみたいに細かく千切られているのが何十枚も床に張り付いていたら、それも強く雨が降る中だったら・・・。
 ん?でも、そうでもないか。何十枚の方が早々に諦めがつくから「しょうがないな、やるか!」となるかも。
 一枚だけだったら億劫なのが先に立つから、初めは無精して箒で掃き取ろうとする。取れない。諦めきれず何度もやってみて、それでも取れなくて、ついに半分癇癪を起して(もう!)とか思いながら素手で拾おうとする・・かな? 


 !!まあ見事なくらい綺麗だった。
 それだけじゃない。普段なら乱暴に打っ棄ってある網と、抑えの竹棒がきちんと奥に寄せてある。
 つまり、様子を見に来たら、もう「何もしなくてよい」ことが分かった。
 まあ、そういうわけにもいかないので一応、竹棒に網を巻き付けて改めて奥に寄せたが、出直して水を入れたバケツや箒、ゴミ袋等を持って来て、雨の中作業をしなくて良い。点検だけで終わった今週一回目の当番。

 天気がこんなだから、もしかしたら何軒かは「今日は出すのをやめて木曜日にしようか」となったのかもしれない。
 そうじゃなくって、「こんな天気だから、当番の人が困らないように、しっかりゴミ袋を括っとこう」との心遣いがあったのか?


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細かいこと。いや、「神は細部に宿る・・・」

2021年08月17日 | 神社
 「行幸と御親拝」
 「天皇陛下が靖國神社を参拝(親拝)されたことはない」
 文章を読んでいる途中、この文章はこう言っている、と解釈しました。
 「はぁ?」と思いました。
 「何、言ってんの?昭和天皇は参拝されてるし、第一、靖國神社を置くようにと言われたのは明治天皇なんだから、参拝のなかった筈はない」、と。
 で、能々読むと、「皇太子の時は参拝されている」と続くので「??」となり、「天皇は皇室の祖先神や、代々の天皇を祀る神社には参拝をされるが、そうでない神社(靖國神社等)には行幸をされるのだ」と書かれていることで、やっと納得。
 天皇陛下は神官の長、日本国の祭主なのだから、国民の先頭に在って皇祖神を拝するのが仕事。
 国民を拝む、ということは対立する支配者であるという立場を唱えることになる。
 で、「参拝と行幸の違いは、神前での拝礼の角度にある」と展開し、「参拝は90度に身体を倒される(最敬礼)が、行幸の場合は30度だ」、と。
 「何だ、角度の違いか。それだけのことか。細かいことを。天皇陛下が来られるという事が大事なんだから、そんな角度のことなんか、この際、大したことじゃないぞ」
 、と考えますよね?大半の人は。
 でも、そうじゃない。
 一番大事なことは、靖國に祀られている英霊(靖國の大神)の立場で考えてみれば、という事です。
 「靖國の大神」、と言うより、英霊達は、天皇陛下の最敬礼を望むだろうか。
 一見、拝礼の角度なんて小さいことに見える。
 けど、そういう小さいところにしか心は表せない。そういうところにこそ、真心が見える。
 英霊達は国を護るために命を捧げることが、身近の人を守る近道と知っていた。
 だから「お母さん」と叫んだり、妻子の名前を叫んだりした。天皇陛下個人のためにではなく、国のために。
 国の存続がなければ、身近な人々は結局命を失うことになる。
 ・・・・・・・・・・・・・・
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)5月15日(水曜日)弐
         通巻第6078号
(読者の声2)最近天皇陛下の御親拝または御参拝に関する議論が多くなされています。
 さらに最近沼山光洋氏が自裁されたことにより議論が沸騰しています。一つ注意を喚起したいことがあります。
 今までに靖国神社に御親拝ないし御参拝された天皇陛下は一人もいらっしゃいません。
 明治天皇も大正天皇も昭和天皇も上皇も靖国神社に行幸されたことはあります。しかし御親拝ないし御参拝されたことは一度もありません。
 大正天皇、昭和天皇は皇太子時代には靖国神社に参拝されました。
 天皇陛下が御親拝ないし御参拝されるとき神殿に向かって90度上体を倒されます。天皇の祖先に当たる神様や亡くなられた天皇が祭られている神社では御親拝ないし御参拝されます。例えば伊勢神宮です。
 神社に行幸されるときは、約30度上体を倒して、深めの会釈をされます。
 天皇陛下が神社にいかれる場合は、天照大御神様の地上における現人神としていかれます。
 天照大御神様が靖国神社で90度上体を屈して拝まれることは、何より英霊の方々が望まれません。
 英霊は天皇陛下が近くにいらして御稜威に触れることをなにより喜ばれます。天皇陛下が靖国神社を御親拝ないし御参拝されるよう要求することは、天皇の御稜威そして存在そのものを否定することです。
 以前GHQの中の天皇陛下を裁判にかけず利用しようとした一派が、そのための文書・資料として木戸幸一に口述させ、寺崎英成に筆記させて作ったものが、昭和天皇独白録として公開されました。あれを第一級の歴史資料といった東京大学の教授がいましたが、それをはるかに超えた暴言、暴挙です。
   (當田晋也)
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