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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

妙高山登山口の燕温泉へ。不動滝と惣滝。火祭りで有名な関山神社へ(妻女山里山通信)

2020-06-30 | 歴史・地理・雑学
 三泊四日の旅最終日。窓を少し開けて蚊取り線香を焚いていたのですが、六ヶ所刺されました。おそらくスマホをするために街灯の下に行った時に刺されたのでしょう。

 朝6時半ごろの道の駅しなのから望む妙高山。手前の柵の下には池があって、昨夜はカエルが鳴いていました。満天の星空で、北斗七星が光っていました。今日は、妙高山の登山口にある燕温泉に向かいます。まず杉ノ沢へ下り、399号を池の平、赤倉温泉へ。ここまでは広い道です。

 赤倉温泉で突き当りを少し登ると右に足湯。その先の角を右に曲がると関温泉へ。ここからは道幅が狭いので対向車に要注意です。写真は、大田切渓谷に出たところ。対岸の上に関温泉が見えます。

 渓谷にかかる不動滝。落差は20m。以前はもっと落差があって大滝とも呼ばれていたそうですが、滝壺が土砂で埋まってしまったとか。

(左)橋を渡って対岸へ。道路脇に駐車して大滝不動尊へ。(右)150mですが、高齢者や子供、山登りに慣れていない人は止めたほうがいいほどの道です。こんな風にトラロープもあります。

(左)足元は悪く、幅が30センチもないところも。水たまりもあります。下は崖です。(右)大滝不動尊。

 そこから望む不動滝。

 39号のT字路を左折してすぐに謙信の隠し湯ともいわれる関温泉。そこを抜けて3キロほど登ると写真の燕温泉です。トイレのある下の広い駐車場(無料)に車を止めて登ります。ここでカメラのバッテリーが、予備も含めて切れました。充電ケーブルを忘れたのです。なので、以下の写真はiPhoneです。画質はそれなりです。燕温泉の名前の由来は、イワツバメが大量に営巣するから。

(左)登山道案内図。大倉谷は台風の影響で橋が壊れたのか渡河できないと書いてありました。(右)登ってほどなく黄金の湯。標高1150m。泉質は、硫黄泉・炭酸水素塩泉・硫酸塩泉などで、美人の湯ともいいます。下側に女湯があります。小さな木の物置みたいな脱衣所があります。ここで、入浴セットを持ってこなかったことに気づきました。しかし、下まで戻って取りに行くずくがありません。この先の下には河原の湯があります。両方とも無料ですが、冬期は閉鎖です。

 少し登って落差80mの惣滝。少し危険ですが、遊歩道を伝って滝壺まで行けるそうです。しかし、カメラが使えないのでは。またにしましょう。

 見上げる妙高山(2454m)の雄姿。温泉街に戻る途中で、下から妙高山に登るという青年と邂逅。長野市から来たというので拙書の紹介をし、URLカードを渡しました。昼頃に山頂は厚い雲に覆われましたが、無事に登頂できたでしょうか。妙高山の妙は奇妙を思い浮かべると思いますが、本来は妙(たへ・たえ)といって言いようもないほど優れていることをいいます。妙齢・妙麗といいますね。また、松代には奇妙山という山があり拙書にも載せていますが、本来は帰命山であり帰命無は南無と同じで、身命を投げ出して仏の教えに従うことです。但しそれは思考を止めて盲信せよということではなく、精進するということです。

 温泉街に下ると、土産物店おじいさんが、休んで行きなさいよと。冬に学校に行くときは、スキーで駅まで下って、帰りは担いで登ってきたとか。15キロぐらいありますよね。行きはいいでしょうけどと聞いたら、当時は当たり前だったから辛いとか嫌だとか思ったことはなかったそうです。豪雪地帯ですが、屋根にはパイプが張り巡らしてあり雪下ろしは不要。道路にも融雪装置があります。むしろ下の人がうらやましがるそうです。ただ、後継者がいないなどで、三軒が廃業したそうです。往時ほどではないものの、駐車場はほぼ満車だったので、常連さんは戻ってきているのでしょう。写真の右手は、斑尾山。その奥は志賀高原の山々。

(左)39号を下って火祭りで有名な関山神社へ。本殿は文政元年(1818)に再建されたもの。(右)拝殿の両側の木鼻には、唐獅子と貘(バク)の見事な木彫。上越、中越、北信には、幕末から明治にかけて活躍した宮彫りの名工、北村喜代松がいたのですが、これは彼が生まれる前のものです。先代、あるいは先々代の作でしょうか。

(左)拝殿に奉納された「信州川中島甲越合戰陣取畧繪圖」。左になぜか武田 典厩 信繁の墨絵の肖像画が奉納されているのです。(右)私が持っている資料。「信州川中島合戰陣取畧繪圖」臨江齋画。更級郡北原村(長野県):松屋栄助再板とあるので、左の絵を模写したものでしょう。江戸時代中期以降、庶民の旅行が盛んになります。善光寺参拝の土産として、こういう川中島合戦絵図がいくつも作られ、飛ぶように売れたそうです。南の文字の下にある妻女山の位置は、現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく斎場山(旧妻女山)の位置になっています。ここが上杉謙信が本陣としたと地元で伝わる山頂で円墳です。拙書では地図や歴史を詳しく記しています。

 妙高堂。本来は、妙高山の山頂に鎮座していた阿弥陀堂に木曽義仲が奉納したと伝わる阿弥陀三尊像が安置されています。明治政府は、神仏分離や廃仏毀釈、南方熊楠が猛反対した合祀令などにより、日本の伝統文化や自然(鎮守の森)を破壊しました。明治維新は、欧米の金融機関による薩長を傀儡とした軍事クーデターだったのです。

 関山石仏群。平安時代の作で、昔は登山道沿いの各所に置かれていたそうです。そのためか風化が激しい。裸行上人が、和銅元年(708)に初めて登頂したそうですが、当時は登山道などなかったでしょうし、装備も粗末、しかも裸行というように裸だったそうで、想像を絶します。『義経記』(ぎけいき)に、妙高山を妙観音岳と記しているのも目を引きます。
関山神社:その歴史。

 国道18号を南下して鮫ヶ尾城へ。案内所で昨年9月に訪れたときに湿原まで案内してくれたおばさんがいました。コシノコバイモの咲く場所などを教えていただいて山頂へ。山頂の本郭跡から北方の春日山城跡方面の眺め。風が吹くと気持ちがいいのですが、標高が低いので暑いです。さて、そろそろ帰路について温泉に入りましょう。

(左)帰りは北登山道を下ります。ヤマアジサイ。万葉集の二首。
「言問はぬ木すら味狭藍(紫陽花) 諸弟(もろと)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり」(大伴家持 巻4 773)
  (恋を語らない木ですら、紫陽花のように移ろいやすい。巧みな言葉に私は騙されてしまいました。)
「味狭藍(紫陽花)の 八重咲く如 やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ(しのはむ)」(橘諸兄 巻20 4448)
  (紫陽花が八重に咲くように、ますます長い年月を生きてください。紫陽花を見ながらあなたをお慕いします。)
 帰りに道の駅あらいで、スルメイカ10杯380円、幻魚の干物11匹500円、イクラとウニが鮨飯にのった丼1500円を買い帰路につきました。
(右)親不知と、ヒスイ海岸で拾った石の数々。左は、翡翠園で買ったお守りの本物の翡翠。翡翠には七色あるともいわれ、緑色、紫、黒が入ったものが有名ですが、純粋な翡翠は真っ白なんだそうです。こつは大きなものでなく小さなものを探すことです。濡れると透明感があるので波打ち際で探す人が多いのですが、ペットボトルに水を入れて、大時化の時に打ち上げられる様な石が溜まった少し中の場所で探すのもいいと思います。実は、以前に拾った石や大鹿村で拾った石を磨くために、ミニグラインダー60点のセットを買ってしまいました。おまけに、知る人ぞ知る激安通販のwishでサソリの入った琥珀を二つ買ってしまいました。鉱物の魅力にはまると底なし沼が待っています。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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