展望台と戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する招魂社のある妻女山は、戦国時代は赤坂山と呼ばれていました。そこから20分ほど林道を登ると古くは東風越と呼ばれた長坂峠に着きます。ここで道は二手に分かれ、右へ行くと2分ほどで斎場山古墳のある斎場山があります。ここは旧妻女山で、謙信が本陣としたと伝わる場所です。左へ行くと5分ほどで崖状の段差に突き当たり道は右へ折れますが、この上には広い台地が広がっており、そこが地元では上杉謙信が陣小屋を築いたとされるところで、陣場平と呼ばれています。
『甲陽軍鑑』の編者とされる小幡景憲彩色の「河中島合戰圖」が、東北大学附属図書館の狩野文庫画像データベース にあります。「河中島合戰圖 」で検索すると一番目に出てきます。パーツに分かれていますが、その中に山の中に「謙信公後陣所」 と書かれた黄色い線で囲まれた絵があります。中には七棟の陣小屋(陣城)が描かれています。ここが陣場平です。
陣場平は、上杉謙信斎場山布陣想像図を見ていただくと分かるのですが、戦後すぐはまだ畑地でした。桑畑、薬草バイモの畑、梅園などです。現在は手入れのされない植林地や雑木林、荒れ地になっています。そんな陣場平の片隅に、こんもりとした丸い丘があります。去年、茂った草を刈りとってみると、大室古墳群にあるような積石塚古墳と思われるものが出てきました。ここから西へ下った所に、千曲市側に堂平古墳群があり、その奥には積石塚古墳群があります。それと非常によく似たものでした。
今回、灌木が生い茂ってしまったので除伐に行きました。草刈りをし、灌木を切り払うと積石塚の形がきれいに浮かび上がりました。そしてその北側5mぐらい外側をぐるっと取り囲む様に半円形の石垣で作られた墳丘裾が取り巻いていることが確認できました。戦後すぐの航空写真でも、この部分は畑ではなく森になっています。謙信が陣小屋をここに築いたとすれば、その時もこの場所だけは壊さずにおいたということなのでしょう。神聖な古代の墳墓という言い伝えがあったのでしょうか。それとも、陣場平一帯が積石塚古墳群で、陣小屋を建てた時にこのひとつを除いて、他は全て破壊して小屋建設に使ったのかも知れません。前記の堂平積石塚古墳群は、かなりの古墳が古い時代に壊されて、畑の土留に使われた形跡があります。
この積石塚は大室古墳群と同時期のものでしょうか。また、大室と同様に馬の放牧の技術をもたらしらといわれる渡来人との関係があるのかもしれません。地元でも知る人はなく、長野市の史跡にも指定されていませんが、この上にある清野古墳との間の塚も含めて、いずれ発掘調査されるよう広めて行きたいと思います。
そんな帰りの山道で、杉の丸太に白いものを見つけました。粘菌かと思い近づくとタマツノホコリの子実体でした。ちょうど単細胞期(移動体期)から多細胞期(集合期)に変わったばかりで、丸太の側面にはまだ単細胞期の半透明なゲル状のものがありました。梅雨の今時は、粘菌が活発になる季節です。以前息子達と国立科学博物館でモジホコリをもらい、粘菌ペット「もじ太郎」と名前をつけて飼っていたことがあります。餌はオートミールです。シャーレからはみだしてしまったり、なかなか面白いペットでした。
写真には小さな甲虫が写っていますが、ハムシの一種と思われます。粘菌は小さな虫の餌になることもあるらしく、コマメホコリの未熟をテントウムシの幼虫が食べているのを撮影したことがあります。ベニホタルの仲間も粘菌ではよく見かけます。餌として食べている虫の研究はあまり進んでいないようですが、食餌のムービーや、糞の解析などでいずれは判明するでしょう。また、粘菌がどれほど栄養価があるかは知りませんが、場合によっては人類を救う食料になるかもしれません。もっとも、ここに布陣していたかもしれない謙信や武将たちには粘菌など目に入らなかったでしょうが・・・。
★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。粘菌もこちらで。
★古墳巡りルポ
08/08/10 森将軍塚古墳・大室古墳群ルポ
08/12/13 堂平大塚古墳・斎場山古墳・土口将軍塚古墳ルポ
09/04/09 森の春のあんず祭(古墳遠望)
★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」での検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。