今朝「サワコの朝」に、雅楽奏者東儀秀樹さんが
出演されてました。
雅楽を現代音楽とコラボさせて、独自の音楽の世界を
展開している東儀さんですが、その方が「古典は凄い
100人東儀秀樹が集まっても、出来ないと言ってました。
私は、やっぱりそうか!と思いました。
書もそうです。
私たちのお稽古は臨書といって、古典の書を見て
書くのですが、やっぱり永い時を経ても残って来たものは
凄いです。
墨は絵具と違い、墨の黒さ潤いが時間の経過の中に
埋もれていないのです。
王義之の書は、1本の線の中に、悠久の時が
流れているような気がします。
東儀さんが、古典の凄さを語っていましたが
書も同じです。
どうやってもかなわない古典をなぜ求めていくのか
私は、書を初めて日が浅いので、そのようなことを
語れるほど、古典と向き合っていないのですが
帰るべきべきところが、古典にあると思えるのです。
私たちのDNAの中には、筆の歴史が流れている
のは確かです。
筆は硬筆と違い、心のありようまでも伝えるものです。
今日、田口ランディさんのツイッターを見たら
筆で手紙を書いていると言ってました。
筆を持ち、自分の中に刻まれている筆の歴史を
体感することも、秋の夜長にお勧めします。
習字が大嫌いだった私が、書を始めたのは
きっとこの刻まれた歴史が、無意識の中に
存在しているからだと思います。