研究所は、海を望む高い崖の上にありました。そこの空は闇に近く、星もなく、月はナイフできれいに切り落としたかのような、半月でした。
博士は、海の音の聞こえる研究室で、パズルのような形をした不思議な顕微鏡をのぞいていました。顕微鏡からは細いコードが伸び、そばにある小さな機械につながっていました。
「先生、荷物が届いていますよ」少年が入ってきて、持ってきた大きな箱を机の上に置きました。博士は顕微鏡を離れると、箱を開け、中のものを確かめました。そこにあるのは、月光を特殊加工して寒天状の棒にしたものでした。手に取ってみると棒は空気に溶けるように軽く、部屋を明るく光で満たしました。
「何見てたんです?」少年は興味しんしんで、勝手に顕微鏡を覗きました。見るとそこには、小さな黒い虫のようなものがもぞもぞ動いていました。博士は少年の無邪気なことに苦笑しながら、「君も聴いてみるかい」と言って、顕微鏡のそばの機械のスイッチを押しました。すると機械は、かすかな低い声で、うなりはじめました。
「ネ…タマシイ、ネタマシイ、ネタマシイ、ツライ、ツライ、ツライ…」
少年はびっくりして、顕微鏡から離れました。それは嫉妬に狂う怪のつぶやきでした。博士は、スイッチを切りながら「それはペストの怪だよ」と言いました。
「ペストぉ? そんな怪がいるんですか!?」少年はびっくりして目を見張りました。
「正確にはその分身だ。本体はネズミの方なんだよ。昔、これらの呪いのせいで地上世界には大きな災いが起こった」
「それは知ってます。あのときも、神様がいらっしゃって、清めてくださったんですよね」
博士は研究室に置いてある水槽の前にゆき、月の棒を細かく千切って中に落としました。水槽の中には数匹のムカデの怪がいて、大喜びで、その光る食べ物に食いつきました。
「本当に、怪が人間に戻ることなんてあるんでしょうか?」少年がムカデを見ながら問うと、博士は振り返りざまにふと窓から見えている半月に目を吸われました。博士は月を見ながらひとり言のように言いました。
「怪はね、自分が痛いんだよ。罪を犯し、馬鹿なことや醜いことばかりする汚い者がいて、それが己(おのれ)であることがつらいんだ。これを存在痛というんだが。つまりは自己の存在すること自体が痛く、苦しすぎるんだ。この自分が存在する限りその苦しみは続く。だが自分の存在を消すことなど決してできない。怪は苦しみのあまり、自分以外のものすべてが妬ましく、憎く、すべてを呪ってしまうんだよ」
「それは…、痛いですね。ぼくなんかには、たえられそうもないな」
少年は、博士の話の半分もわからなかったので、適当に答えました。博士は少年に、別の部屋で飼っている怪にも、食べ物をやってきてくれるように頼みました。少年はハイとうなずき、月の棒を何本か持って研究室を出ました。
博士は椅子に座り、水槽の中のムカデを見つめました。食べ物を今やっているものに切り替えてから、ムカデたちは以前よりだいぶ大人しくなっていました。毒を吐くこともなく、女を呪うて泣くこともだんだん少なくなってきていました。
(だが、これからの壁が越えられないんだ)博士は唇を結んで腕を組みました。どうやれば彼らの存在痛を治すことができるのか、彼は目を閉じて考えました。と、どこかで、ことり、という音がし、博士は目を開けました。振り向くと、窓の隙間から、一匹の蜘蛛の怪が入ってきていました。
「だれだ」と博士がいうと、蜘蛛はまるで女が恥じらうようにふるえ、少し退きました。博士と蜘蛛は、しばらくにらみあったあと、はあ、と蜘蛛が長い息を吐きました。博士ははっと何かに気付きました。そして蜘蛛に問いました。
「人間に、戻りたいのか?」すると蜘蛛は、神の前に懺悔をするように頭を足で抱え、かすかに、つう、と鳴きました。
「おいで」博士は蜘蛛に近付き、手を伸ばしました。すると蜘蛛は、しばしうろたえた後、おずおずと博士の手に乗ってきました。
「希望はある。前に一筋の光さえなくても、決して道がどこにもないわけではないんだ」
博士は言いながら、手の上の蜘蛛に、金色の食べ物をやってみました。