月の世には、一匹だけ、小さな恐竜がいました。青い太古の森の中で、彼女は地面にシダの茎や葉を編み重ねて小さな巣を作り、ひとりで住んでおりました。その顔は蛇に似ており、首は鷺のように長く、体格は鶏のようでした。そして顔の周りと足以外の全身を、黄色い羽毛に覆われていました。
あるとても月の明るい日、竪琴弾きが、彼女の巣を訪ねました。「こんばんは、奥様」竪琴弾きはいつも、恐竜のことをそう呼びました。恐竜はその呼び方が面白いので、この竪琴弾きのことをたいそう気に入っておりました。
「こんばんは、音楽家さん」恐竜は巣に座ったまま、答えました。
竪琴弾きは、彼女の巣のそばに座り、竪琴を膝にのせながら言いました。
「ある森に、聖域ができたのをご存知ですか」
「ええ、知ってるわ。お役所は必死で秘密にしてるようだけど、あの人たちの魔法って、ちょっと甘いんですもの」
「月のお役所は、融通が利きすぎるところがありますからねえ」
「わたしも神獣を見てみたかったわ。すばらしく美しいんですってね」
しばし会話が弾んだあと、竪琴弾きは本題に入りました。
「それでですね、今日は少し、奥様にお願いがあってお伺いしたんですよ」
「また卵がいるの? いつもの月長石かしら」恐竜は少し首を伸ばして言いました。竪琴弾きは「いや、今日はそうじゃなくて」と、手を振りながら言いました。
「あなたの卵の中にたしか孔雀石のものがありましたよね」竪琴弾きは、竪琴をぴんと鳴らして言いました。「それを少しの間、お借りしたいんです」
「別にいいけど、何に使うの?」
「今度できた聖域に、本格的な結界を作ることを、お役所が決めたんですよ。それでその魔法に、あなたの孔雀石がいるそうなんです」
「そうねえ、それはそうしたほうがいいわ。品のない怪が入り込んでは、困りますものね」言いながら彼女は巣から立ち上がりました。すると彼女の下から、たくさんの丸い石の卵が現れました。その多くは、どこにでもあるような普通の石でしたが、それに混じって、青いのや赤いのや透き通ったのや、いろいろな光る石がいくつかありました。
恐竜は古い古い時代の生き物で、地上ではもうとっくに石になっておりました。それで彼女の生む卵も、みな石になって生まれてくるのでした。もうその卵から赤ん坊が生まれることはありませんでしたが、石の卵の中には時に醸された不思議な魔法のタネが宿っていて、それで人はよく、特別な魔法を使う時に、彼女のもとに卵を借りにくるのでした。
「こうしてずっとあっためていると、とてもいい石になるのよ」彼女はいとおしげに、小さな薄紅の卵をつつきました。
「きれいですねえ、それは紅水晶ですか。生んでどれくらい経ちます?」
「三百年くらいかしら。これがいちばん新しいの。孔雀石はこっちよ、ほら、これは千五百年くらい」言いながら彼女は、石の中から緑色の縞模様の入った、大きめの卵をつつき出しました。竪琴弾きは恐竜の許しを得てから、その卵を手に取りました。それは想像以上に重く、中で何かが熱く燃えているようでした。
「千五百年の石の卵か、これでは、半端な怪が近付くと、月を浴びるだけで燃えてしまいそうだ」竪琴弾きは、重い声で言いました。恐竜は首をのばしたり縮めたりしながら、「返すのはいつでもいいわ。その代わりまたひとつ、お願いね」と言いました。すると竪琴弾きは、孔雀石を懐に入れ、竪琴を弾きはじめました。彼は琴の音に合わせ、古代の香りのする森の風を呼び、それとともに美しい呪文の歌を歌いました。恐竜はしばし、うっとりと目を閉じて聴いていました。
ふと気がつくと、森のあちこちに、紫色の小さな菊の花が咲いていました。
「あらすてき! 紫色なんて珍しいわ。とてもいいお返しね。ありがとう」
「いえ、こちらこそ」竪琴弾きは竪琴を背中に負い、笑いながら言いました。
「それじゃ、また」竪琴弾きが去っていくと、恐竜はまた卵の上にすわり、首を巣のふちに寝かせ、目を閉じました。菊の澄んだ香りがすがすがしく、白い月の光がひとすじ、音もなく聖者の現れるように、彼女の頭を照らしました。