月の世に天の国があるように、日照界には日の都がありました。その都には、深い緑の森の中に、点々とたくさんの石でできた建物が散らばり、中央の丘には、磨かれたアラバスターで表面を覆われた、輝かんばかりに白い巨大なピラミッドが建っていました。
そのピラミッドの麓、一群の木々を挟んで少し離れたところに、同じようにアラバスターで外壁を覆った大きな四角い建物があり、そこが、日照界のお役所でした。今、その建物の中の一室で、ひとりの若者が、自分専用の知能器の前に座り、次々と変わる画面の画像を見ながら、風のような速さでキーボードを打っていました。
一連の情報を知能器に打ち込むと、彼は一息つき、右手で魔法をして小さなお茶の器を呼び、それを一口飲みました。そのとき、開いた事務室のドアをたたく音があり、振り向くと、そこに同じ水色のスーツを着た彼の上司が立っていました。若者はあわててお茶を置くと、立ちあがって上司に挨拶しました。上司は彼の挨拶に答えると、少し目を細めて、彼に言いました。
「…気の毒なんだが、この前の君の誕生願い、却下されてしまったよ」それを聞くと、若者は目を見開いて驚き、思わず抗議しました。「なぜです?このたび、月の世に降りたという神の御計画に参加するために、今、魔法使いや僕たちのような者が、たくさん地球上に生まれるために入胎準備をしていると聞いています。なぜ僕が、それに参加できないのです?」
「残念だが、上部のお決めになったことだ。逆らえない。君は愚かではない。わかっているだろう」そう言われると、若者は目を伏せ、素直に「…わかっています」と言うしかありませんでした。上司は彼のその顔をしばし見つめました。若者はその若さに似合わず、金色の髪と髭を長くのばし、実の年齢よりだいぶ大人びて見えました。上司は小さく息をつき、言いました。「…これは、言いにくいことだが、君は、イエスに傾倒しすぎている。それは、改めた方がいいと、わたしは思う。君が地球上に生まれたら、うかつにイエスのような真似をしかねない。そうして君がむごい目にあってしまうと、君自身の魂に悪い影響を及ぼす。賢き人に学ぶことはいいことだが、その真似をして今の自分の段階を無理に超えるような真似をしてはいけない」
「…はい、そのとおりです」若者は目を伏せたまま、答えました。上司は元気づけるように彼の肩をたたきき、「大丈夫だ。君は十分に神の御計画に貢献している。幼きガゼルの魂を導くのも、大切な神のお仕事のお手伝いだ。やるべきことを、やってきたまえ。それが神の御心だ」と言いました。若者はただ、「はい」と小さく答えました。
上司が部屋を出ていくと、若者は椅子にかけていた自分の水色の上着をとり、それに袖を通しながらお役所の外に出ました。そして森の方に向かい、木々の枝の下に入ると、指をぱちんと弾き、目の前に小さな扉を作りました。その扉をあけると、どこまでも広がる緑の広い草原があり、そのあちこちに、かわいい角をしたガゼルの群れが、散らばっていました。若者は扉をくぐると、魔法を行い、手にガゼルの紋章のついた白い旗を出しました。それを草原の真中に突き刺すと、旗は大地にそそり立つ大きな緑の木に変わりました。彼は口笛を吹いて、額にただ一本のまっすぐな角を持つ大きなガゼルに変身すると、その木の根元にゆったりと座り、とぅとぅ、と大きな声をあげて、ガゼルの群れを呼びました。するとガゼルたちは、その声に引き込まれるように一斉に彼を目指して歩き出し、やがて木の周りにはたくさんのガゼルの群れが集まりました。一本角のガゼルは、また、とぅ、と鳴き、彼らに座るように命じました。するとガゼルたちは素直に彼に従い、その場に行儀よく座りました。
「君たち、元気かい?」一本角のガゼルは、やさしくガゼルたちに呼びかけました。ガゼルたちはざわざわと答えました。
げんき?げんき、げんき、げーんーきー!
「そうか、それはよかった。君たち、この前のお話しは、覚えているかな?」
おはなし?おはなし?それなに?しらない、しらない、しらない?
「そうか。もう忘れたんだね。じゃあまた覚えよう。『愛』だよ。あい。その言葉、ちゃんと、覚えようね」
あい、あい、あーいー、しってる、あい、いいもの、とっても、いいもの。
「そう、そうだ。かしこいね。いい子たちだ。では君たち、『獅子』という言葉は、知ってるかな?」
しし、しし、いや、それ、いや、しし、きらい、しし、たべるの、がぜる、たべるの。
「獅子」と聞いただけでガゼルたちの間に不安が広がり、ざわざわと群れが乱れ始めました。中にはとても苦しいことを思い出して、きゅうきゅうと悲鳴を上げて震えだすものもいました。一本角のガゼルは高い口笛を吹いて、彼らを静まらせ、言いました。
「大丈夫だよ、ここには獅子はいない。獅子はこわいねえ。君たちに、とてもいやなことをするね。でもね、君たちがね、獅子に食べられてしまうのは、とてもよい勉強なんだよ」
べんきょう?べんきょう?べーんんきょーう?
「…そう、大切な、大切な、勉強だ。愛はね、とても大切なことを教えるんだ。獅子はね、とても苦しい。君たちがいないと、とても苦しい。おなかが減って、おなかが減って、つらくってしょうがない。でも君たちを食べると、獅子はうれしい。こどもにも、食べさせることができて、獅子はとてもうれしい。君たちはね、獅子に、とてもやさしいことをしているんだ。食べられるというのはね、自分をみんな、神様にさしあげてしまうってことなんだよ。それはね、とてもたいせつな、勉強なのだ。愛はときに、自分が壊れてしまうほど、とてもつらいことに、耐えねばならないからだ…」
一本角のガゼルは深い声で、ガゼルの群れに語りかけました。ガゼルたちは、きょとんとしました。群れがざわざわと動きはじめ、いや、いや、いや、と騒ぎだしました。
いや、いや、しし、きらい、たべるの、しし、たべるの、がぜる、たべるの、いや、つらいの、つらいの、いたいの、いたいの、いや、いや、いや!
「でもね、それが愛なんだよ、つらいことにたえるという、大切なことを、君たちは、ガゼルとして、勉強しているんだ…」
一本角のガゼルが言うと、突然一頭のオスのガゼルが立ちあがり、いやだ!と叫びました。
いやだ、いやだ、あい、いやだ、あい、きらい、きらい、あい、いいもの、ちがう!
「だめだよ、愛をきらいだなんていっては…」一本角のガゼルは言いかけましたが、ガゼルたちはもう彼の言うことに耳を貸しませんでした。一斉にその場に立ち上がると、いや、いや、いや、と声を合わせて騒ぎ、一本角のガゼルに背を向けて、あっという間にみんな向こうに行ってしまいました。
一本角のガゼルは、ガゼルたちに背かれて、ひとりぽつんと木の下に残されました。
「Oh, Jesus! なんてこった!」ふと、上の方から誰かの声が降ってきました。一本角のガゼルは元の若者の姿に戻り、上を見上げました。すると木の梢の上から、ガゼルを導く精霊の一人が、くすくすと笑いながら彼を見下ろしていました。「場所は鹿野苑てとこですが、状況はイエスにそっくりですね」精霊が言うと、若者は「からかわないでくれよ」と口をとがらせました。精霊は上司のような声で、彼をたしなめました。「ガゼルにあんな難しいことを教えても、わかるものですか。嫌われるだけですよ」すると若者は腕を組み、ため息交じりに言いました。「幼き魂を導くのは、かくも難しいんだ」。
精霊はあきれたように返しました。「あなたはイエスに感化されすぎです。せめて、その髪と髭はやめたらどうです?」そう言うと精霊は一息の風を起こし、若者の顔をなでてその髪と髭を消しました。するとそこに、まだ輪郭に幼さを残す、なんとも愛らしい青い大きな目をした少年のような顔が現れました。若者は、駄々っ子のように首を振り、すぐに元の髪と髭の顔に戻しました。精霊はやれやれ、とため息をつきつつも、そこを離れず、ガゼルたちに去られてしまった彼の胸の寂しさを、補おうとしました。
若者はポケットから蛍石のカードを出し、それをキーボードに変えて、今日のガゼルたちの指導記録を打ち込み始めました。その上から、安心させるように、精霊が言いました。
「大丈夫ですよ。さっきあなたが言ったことなんて、ガゼルはもうすっかり忘れています。みんなもう、草や水のほうに夢中だ」若者は精霊の言葉には答えず、指導記録を打ち込み終わると、一息つき、ガゼルたちの草原を見渡しました。精霊の言ったとおり、ガゼルは忘れっぽく、一本角のガゼルがいたことすらも、もう覚えていないようでした。
「僕たちにも、あのガゼルのように、小さい時があったんだろうか?」若者はふと、言いました。精霊は、「さあ?だれも、自分の魂生の全てを覚えている者はいません。わたしも、気付いたら、いつの間にか精霊をやっていて、歌ばかり歌っていました」と答えました。「でもきっとわたしたちにも、ああして幼い時があって、このように誰かに導かれていたんでしょう」精霊は遠くガゼルの群れを見渡しながら、言いました。
若者は、キーボードに目を落とすと、青いキーをポンと打ちました。すると、目の前に、黒い髪に美しい青い目をした彼の人の肖像が現れました。若者はその顔に見入り、どうしてこの人の目は、こんなにきれいなんだろう?とつぶやきました。精霊は、ふうと息をつき、「幼き魂を導くのは、かくも難しいからですね」と、言いました。
若者は、精霊が多少の皮肉をこめて言っているのにも関わらず、ただ、その人の青く澄んだ目の中に浸り、いつまでも心を吸い込まれていました。