日照界に、中天に太陽を仰ぐ、果てもなく続く鬱蒼とした密林があり、今、水色のスーツを着た一人の青年が、翼もなく、その上を飛んでいました。彼の顔は、まるで太陽から焼け出されたかのように黒く、髪は僧侶のようにそり上げ、磨いた黒曜石のような丸い大きな瞳は、物事すべてにまっすぐな誠の光を隠して、ただひたすらに目指すものを目指していました。
彼は密林の中を流れる一筋の河のほとりに、鰐の紋章を描いた白い旗がはためいているのを見つけ、そこを目指して降り立ちました。白い旗の立っている河岸の少し向こうには、かなり大きな鰐の群れが河の水につかっているのが見えました。彼は旗を岸の土から抜き、それを振りながら鰐の群れに近づくと、大声で、「おおい!」と叫びました。すると突然、水の中から真っ白な大鰐が現れ、それが器用に立ちあがって青年の立つ岸に向かって素早く歩いてきたかと思うと、白鰐は黒い青年の前で、同じ水色のスーツを着た青年の姿に変わりました。その青年は、肌の黒い青年とは対照的に、白髪に近い金髪に水色の目の、薄紅のほおをした背の高い白い青年でした。
「やあ、だいぶ疲れてるようだね」黒い青年がねぎらうと、白い青年は額に手をあて、少しふらつきながら、うなずきました。黒い青年は呪文をつぶやき、白い青年に向かって癒しの術を行いました。すると白い青年はだいぶ元気が出てきて、一つフウと息をつき、スーツのポケットから白い小さな玉を出しました。「これが今月の鰐の指導記録だ。ちょっと見てくれないか。気になることがあるんだ」白い青年が言うと、黒い青年は自分のキーボードを出して、白い玉をその中に放り込みました。すると、画面に一匹の鰐の姿が現れ、その下に一連の文字の列がありました。
「セムハラシム 297769873QXKIDG」
黒い青年がその文字を読み上げると、白い青年が言いました。「それがその鰐の名前だ。少し前から、あまりものを言わなくなった。鰐は普通、キバ、クチ、クウ、などとよくしゃべるものだが、彼だけは何も言わず、なぜか森の方ばかり見ている。精霊といっしょに彼と同化してみて気づいたんだが、彼はどうやら、外界の存在を感じ始めているらしい」それを聞いて、黒い青年は目を見張りました。「外界の存在を?それは鰐にしては段階を飛びすぎていないか?」「そうなんだ。鼠や蝙蝠でさえ、外界と自分との境界を知らない。あり得ないとは思うが、鰐のように幼い魂が、外界の存在の大きさを知ってしまうと、恐怖を感じすぎて病気になってしまうおそれがある。ちょっと注意して彼を見ていてくれないか」「わかった。交代するよ。君は帰って休んでくれ」
黒い青年はキーボードをしまうと、岸に旗を刺して、さっそく白い大鰐に姿を変え、河の中へ入って行きました。白い青年は川岸から宙に浮かび、精霊の起こした風に乗って森の上を飛んでゆきました。
白鰐は、群れの中を静かに移動しながら、セムハラシムを探しました。鰐たちは、ゆったりと水につかりながら、…キバ、キバ、クチ、クチ、クイモノ、クイモノ、クイモノ…などとそれぞれにつぶやいていました。セムハラシムは、群れの中ほどで、半分水から顔を出し、じっと河岸の蒼い森を見つめていました。鈍い金色の目が、時に何かを求めているかのように、くるっと動きました。白鰐は静かにその鰐のそばにより、「セムハラシム」と呼びかけました。すると鰐は、自分が呼ばれたことに鈍く気づき、グ、と声をあげました。「セムハラシム、どうした?」白鰐は呼びかけてみましたが、彼は何も答えず、ただ森の方を見ていました。白鰐は、彼の様子を見守るために、しばらくこうしてずっとそばにいてみることにしました。
十日ほども、彼はずっとセムハラシムから身を離しませんでした。セムハラシムは時々、思い出したかのように、キバ、ということがありました。クチ、クチ、クチ、クククイモノ…。しかしすぐ、かすかな悲しみのようなものが彼の目の中を流れ、彼はまた森に目を移すのでした。(鰐に悲しみがわかるものだろうか?)白鰐は十日目に、もう一度、セムハラシムの魂に呼びかけてみました。
「セムハラシム、あれが何か知りたいのかい?」すると鰐はまた、グ、と答えました。その答えには特に意味はありませんでしたが、白鰐は試みに、言ってみました。「あれは、森というものだ。神が鰐やほかの獣たちのためにお創りになった。ごらん、君にわかるだろうか。森は君を愛している。すべてが、君を愛している。君は気づくだろうか。どんなにみんなが、君を心配しているかを」するとセムハラシムはまた、グ、と声をあげました。そして目をくるくるとまわし、かすかに口を開け、牙を見せながら、河の水から半身を起しました。彼は言いました。モ…リ…。
「そう、森、だ。意味はわからなくていい。言葉だけ、繰り返してみなさい。いいかい、森は君を愛している。そしてすべてを与えている。わからなくていい。繰り返し、繰り返し、練習しなさい。森、森、森…」
そのときでした。不意に、セムハラシムは横にいる白鰐に気付き、突然口を大きく開け、目にもとまらぬ速さで白鰐の腹にがぶりと噛みつきました。白鰐はあまりの痛さに、ぎいっと声をあげ、一瞬手足をもがかせました。しかしすぐに彼は自分を落ち着かせ、その痛みに耐え、セムハラシム、とまた呼びかけました。彼は、セムハラシムの小さな魂が、鈴のように震えて、おびえているのを感じました。白鰐は言いました。「セムハラシム、愛している」セムハラシムはそれには答えず、ますます牙に力を込めました。
白鰐がしばしその痛みに耐えていると、上空から密林の精霊が一人降りてきて、セムハラシムと同化し、その小さな魂を抱きしめました。そして精霊もまた彼に、「セムハラシム、愛している」とささやきました。密林の樹霊たちも、彼に愛を送りました。精霊の愛に抱かれて、セムハラシムの魂は次第に落ち着きを取り戻しました。そして精霊は、しばしその魂を胸に休ませ、彼の代わりに彼の口を動かし、白鰐の腹から牙を離しました。白鰐はずくずくと痛む腹に魔法を塗りつけ、苦痛を一時麻痺させると、精霊と同じように、セムハラシムとの同化を試みました。
「セムハラシム、愛している」彼はささやきながら、精霊とともにセムハラシムの魂を抱きしめました。なんと幼い魂なのか。なんとおまえは小さいのか。すべてを、すべてをやってやらねばならない。こんな小さなものが、こんな小さなものが、いるのか。すべてを、やってやらねばならない。彼はまるで神のようにセムハラシムの全存在を抱きしめ、自らの胸の奥からあふれてとまらぬ愛に泣きました。
セムハラシムは森を見つめ続けました。そして彼は、かすかに魂にしわを寄せました。それは、彼が何かを言いたいのに、言えないもどかしさを感じているからでした。白鰐の魂はセムハラシムの魂と深く共鳴し、彼が語りたい言葉を探し、それを代わりに、セムハラシムの口から言いました。
ナ…ゼ…
「なぜ?なぜと言ったのか、セムハラシム」白鰐ははっと自分に戻り、セムハラシムに問いかけました。セムハラシムはまた、ナゼ、と言いました。
(セムハラシムは疑問を持ち始めた。問いかけ始めた。たぶん、森が何なのか知りたいのだ。しかし、どうしても、知りたいということがわからない。言えない。彼は違う。何かが違う。鰐が、なぜ、なぜというのだろう?)
白鰐は、ずっとセムハラシムから離れずに注意深く観察し、それを体内の白い玉に記録してゆきました。
やがてひと月が経ち、白い青年が、空を飛んで河のほとりにやってきました。白鰐は、旗を持つ白い青年の前に立ち上がり、すぐに元の黒い青年の姿に戻りました。その姿を見て、白い青年は驚きました。彼の水色の服のあちこちに、セムハラシムが噛んだ牙の跡がたくさん残っていたからです。
「何があったんだ。ずいぶんひどい様子じゃないか」彼は黒い青年に癒しの術を行いながら言いました。黒い青年は黙って、白い玉を白い青年に渡しました。「セムハラシムは病気ではないようだ。ただ、どこかが他の鰐と違うだけだと思う」黒い青年が言うと、白い青年は白い玉を自分のキーボードに放り込んで、画面に映るこの月の指導記録を読みつつ、ひゅう、と口を鳴らしました。「君、ちょっとがんばりすぎだ。ここまでやったのか」
「師たる聖者がおっしゃったことがある。幼い魂の中には、これまでわたしたちが経験し、積み上げてきた知恵だけでは計ることができない変化を見せる者が時々いると。セムハラシムはその例ではないかと思う。もちろん、稀ではあるから、今僕がそう思うだけなんだが」黒い青年が言うと、白い青年はうなずき、「よし、交代だ、引き続き観察を続けよう」と言って、旗を岸に刺しました。黒い青年は、安心したようにほっと息をつき、初めて顔に疲れを見せました。そしてうつむきながら、まるで何かに導かれるように、言いました。「…一体、我々は、どこから生まれてきたのだろう?」白い青年は、変身をする前に、彼のその言葉に振り向きました。黒い青年は続けました。「セムハラシムのそばにいて、思った。我々は一体どこから来たのか。神が、お創りになったのか。それとも、どこからか、自然に生まれてくるものなのか…」
「それは誰もが持つ疑問だ。答えを知っている者はいない。神でさえ、ご存じではないかもしれない。わかっているのは、僕たちが今存在していて、ただ、愛さずにはいられないということだけだ」白い青年が言うと、黒い青年は顔をあげ、「そう、…そうだね」と言いました。彼らは、深い森の愛に囲まれているのを感じながら、しばし、自分たちが同じ愛の中にいて、魂が共鳴していくのを感じました。ああ、愛だ。君も、愛。そして、僕も、愛。みな、同じ愛なのか。それが、この世界に、こんなにも、たくさん、いるのか…。
黒い青年は、片手で顔を覆い、うっと喉をつまらせました。白い青年はその肩に手をやり、その心を共にしました。存在というものの孤独と、喜びと、それは皆が、当たり前に持っているものでした。皆、同じでした。悲しみも、苦しみも、幸福も、すべては皆、同じでした。
白い青年は黒い青年の名を呼び、「愛しているよ」と言いました。すると黒い青年は顔をあげて、ようやく笑い、「ああ、僕もだ」と答えました。そして白い青年は再び白鰐に姿を変え、河に入って行きました。黒い青年はそれを確かめると、ふわりと宙に浮かび、精霊に助けられながら、森の上を空高く飛んでゆきました。