テレビ見て遊んでる間に
おれがいちばんの馬鹿になってたんです
なんにもしてないのに
おれがみんなに
悪いこと全部やれって言っただけで
みんながやったこと
みんなおれがやったことになるんです
ぜんぜんだめなんですよ おれ
何にもしてないのに
何もしたことないのに
おれが馬鹿やれっていっただけで
みんなが馬鹿やって
この世界すべて荒らしまわって
いいやつ全員殺しちまって
世界中馬鹿ばかりにしたら
世界が馬鹿になって
それすべて おれんとこに来るんです
おれ 神さまにさからうつもりなんて
なかったんだよ
だってそんなことできるわけないじゃん
いやなことみんなでやったらなんとかなるから
ぜんぶ馬鹿やれって それいっただけで
おれ 神さまに戦争ふっかけたことになるの
それ 絶対馬鹿です
やってない おれやってない
なんにもしてないよお
どんなにがんばっても
逃げられません
おれ 何にもやってないの
家でテレビ見てただけなの
何にもしてないのに
おれがすべてやったことになるんだよ
ぜんぶにおれがやれっていったからさ
そんなことに なるんだよ
言ったことは責任取らなくちゃいけないんだよ
馬鹿みたいだ
おれ何にもしてないのに
ばかみたいだ
ばかみたいだ
ばかみたいだ
泣きたいことの材料なら、本当は、在庫はいくらもありました。心の中に作りあげた、大きな堰の向こうには、それが弾けとんだらどうしようもなくなるほどの、秘めた感情の水がため込まれていました。
でも私は、それをずっと隠していました。それができなければ、大人ではないと思っていましたし、いつまでも悲哀に溺れて自分を哀れんでいるような人間でいたくはありませんでした。悲しみや孤独や絶望や、叫びだしたくなるような現実の前でも、負けたくなかった。常に明るい明日を作り出せる、本当の自分の力を信じたかった。
(2005年3月ちこり33号、言霊ノート)
私も、長い結婚生活の中で、一緒にいればいるほど孤独を感じる時というのがありました。正直、何を言っても、相手には通じませんでした。男女にかかわらず、未熟な人の中には、力関係のみにしか人との関係を見いだせない人がいるものです。そういう時、愛を紡ごうとする人は、たまらなく孤独を感じます。
伝わらない心の、窒息しそうな苦しさを、書くこと、表現することがだいぶ楽にしてくれました。いろいろな目に見えない助け、目に見える助けがありました。
試練の多い人生を歩んでいる人はたくさんいますが、しかしこの世界には、そういう苦しい人生を生き抜こうとしている人を、助けようとしてくれている力もあるのです。がんばっていきましょう。行く手にいつか光が見えてくることを信じて。
(2006年8月ちこり37号、通信欄)
あらゆるものに
うそをついて
じぶんばかり
いいめをみた男に
病鬼がとりついて
目に大きなこぶができる
こぶはだんだん腐ってきて
そいつはとうとう目が見えなくなる
そのとたん 口の奥から
今まで腹の中に溜めこんできた
真実がゴロゴロと出てくる
ああ いやだ いやだ
いやなことになるのはいやだ
いたいことはなしにして
しあわせないいものになりたい
つらいおもいなんかしたくない
どろぼうでも うそつきでも
だまってさえいれば
だれにもばれないのだ
じぶんじしんにさえも
もう二度と
つらい思いなんかしたくないんだよ
それでなきゃ勉強ができないって言われても
いやなものはいやなんだよ
そうやって逃げてばかりいたから
病鬼にとりつかれて
おまえは死ぬほど苦しい目にあわねばならない
何もやってこなかった反動は
いつも思わぬ方向からやってくる
もう そろそろ 馬鹿はやめよ
幸いは 飴のように溶けて
なくなってしまいました
自分には似合わない服を
無理やり買ってもらったばかりに
わたしの幸せはみな
どこかがおかしくて
本当はみんなに馬鹿にされていたのです
きれいになりたかった
お金持ちになりたかった
そのために
悪魔にいろんなことをしてもらった
だけど その幸せは
もう だめなのです
神さまが とうとう
人間の本当の幸せのしるしを
世界中にばらまいたからです
新しい幸せは
ダイヤの中にもシャネルのバッグの中にもなくて
大きな屋敷や 高級車の中にもなくて
もっと難しいものの中にあるの
人間の魂の奥の永遠の幸福のスイッチを押すと
世界が何もかも変わって
わたしの持っている幸せはみんな
色あせたガラクタのようなものになるのです
欲しいものなど何もない
ただ必要なものがあればいい
本当の幸いは
美しい自己表現ができる自己の永遠のエネルギィをひめた
この自己存在の真実に気付くことだと
先生がわたしに教えてくれるのです
でもわたしにはまだ半分も
意味が分からなくて
今でもフェラガモの靴を履いて
エルメスのバングルをはめて
夫のフェラーリを乗り回して遊んでる
すると町でわたしを見た人が
ああ あの人はまだわからないのだと
指を差して 気の毒そうな顔をする
もう変わったのに
まだやっていると
子供たちがはやしたてる
だって まだやりたいのだもの
こんなのが幸せだって
まだやりたいのだもの
いっぱいいっぱい高級なものに包まれて
わたしは幸せだってみなに見せびらかしたいの
それだけなの
でも わたしが近寄って行くと
もうみんながわたしから逃げるように離れていくの
だれにも相手にしてもらえない
真実が どんどん世界に染みこんでくる
わたしは大きな勘違いをしているって
先生は何度もいうの
こうして わたしの幸いは
飴が溶けるように
だんだんなくなっていったのです
なぜなら わたしの持っているものは
いつか必ず古びてなくなってしまうものだから
どこにも永遠は無いのです
路地裏のちいさなものかげに
だれかがなくした
じぶんじしんが落ちていました
それは半分土に埋もれ
ひろいあげてみると
少し欠けていました
うちに持ち帰り
きれいに洗ってみましたら
それは深い色をした悲しい珠玉でした
秘密の水槽の中に
そっと落とし込み
小さな貝の中にかくしました
いつか だれかが
とりもどしにくるでしょう
そのときまで
だれにもいわずに
そこにかくしておきましょう
(2006年11月、南野珠子詩集「ひとつの星」より)
森の中を道に迷い
一筋の小川の岸を歩いていると
どこからか
昔殺した女の呼ぶ声がする
愛してなかったわけじゃない
ただあいつが
あんまりにおれのいうことを聞かなかいもんだから
いっそのこと殺してしまおうと思ったのだ
愛してなかったわけじゃない
最後のセックスをしてから
喉を絞めて殺した女の死に顔は
信じられないほど美しかった
何をやったのか
何をやったのか
おれは死体を埋める穴を掘りながら
そんなことばかり考えていた
思いどおりにしようなんて
考える方が悪いんだよ
言うことを聞かそうとして
暴力をふるう方が悪いんだよ
女は馬鹿じゃない
馬鹿だと思わないと
男の方が苦しいから
女が馬鹿だって言う嘘を
真理の書の中に紛れ込ませておいただけだ
そうやって
男は女を馬鹿にし続けてきて
思いどおりにしようとして
言うことをきかそうとして
すべての女を殺してしまったのだ
もう誰も帰って来はしない
あらゆるものが 阿呆かと
おれたちをあざ笑う
そこまでのことにならなければ
わからなかったのか
大馬鹿者よ
愛していると 今更言っても
誰も帰って来はしない
おれはひとりで水の中に入り
永遠に見ることのできない世界に別れを告げて
運命を受け入れる
もうだめなのだ
あきらかにおれたちのやったことは
セックスが欲しくて
女を馬鹿にして
何もかも思いどおりにできる
唯一神になることだったのだ
子供の頃、ウルトラマンは本当にいると信じていました。空を眺めては、彼が飛んでいないかと探していたこともあります。今でも、夕刻にベランダから空を眺めては、山の向こうにゆっくりとたちあがる巨人の姿を、幻想したりします。
ウルトラマンはただの特撮だと言う人、きっとたくさんいるでしょう。(かつて私にもそういう時期があったし。)でもそれは、ミロのヴィーナスを、あれはただの石だというのと同じことだと思うのです。
人間は馬鹿でどうしようもないものだけど、どこかに、自分を愛してくれて、許してくれて、しかも守ってくれる大きな存在を求める、淋しい心があって、そんな切なくて、正直には言えない思いが、子供向けという形をとって、ウルトラマンになったのではないかと……
二人の息子と並んで、テレビのウルトラマンを見ながら、時々胸がじんわり湿ってくるのは、懐かしさだけが原因ではないような気がしています。
(1997年3月ちこり9号、コラム)
書店で働いていると、けっこう天使に関する本が目につきます。天使っているのでしょうか? 種野はときどき、天使っているなあと、しみじみ感じます。姿が目に見えたり耳に声が聞こえたりするわけじゃないけれど。辛いことを乗り越えて、一つ新しい風景が見えた時に、何か、大きな、私を導いてくれているだれかの、大きな愛を感じてしまうのです。
人生の新しいステップに入った時、振り返ると過去の自分がどんなに未熟だったかがわかります。その未熟だった自分の存在を許して、辛くても生き続けるように、いつもわたしのそばにいて励まし続けてくれていた、目には見えないけれど確かにいた、あれは誰なのでしょう? いつか会える時が、くるのでしょうか?
(2002年7月ちこり25号、通信欄)