院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

歌を詠む女は妻にすまじもの

2015-04-29 05:28:35 | 日本語
(amazon より引用。)

 「歌を詠む女は妻にすまじもの亭主を尻に敷島の道」とかいう狂歌があります。ここで「敷島の道」とは和歌の道のことです。

 これまで私の人生の中で、歌を詠む女性は2人いました。1人は学生時代の下宿先のおばあちゃん。出版した歌集をくれました。(猫に小判でしたが・・。)

 もう1人は、医学部の同級生の女性。この女性は英語が得意で、試験の前に私はたいへんお世話になりました。歌のほうは大したことはなく(というより意味が分からない)、私が編集していた学友会雑誌にお情けで載せました。

 この女性はその後一子をもうけて離婚しました。女性は妻とはまだ交流がありますが、歌はすっかり止めてしまったようです。


※今日、気にとまった短歌

  歌詠むを身内のきみは軽率にいう「自己満足だよ」いいではないか (久喜市)真中清子

「今日、気にとまった短歌」から

2015-04-27 06:18:30 | 日本語
 「今日、気にとまった短歌」を始めて一年(約300首)になろうとしています。最初はぽつりぽつりと載せていたのですが、最近では毎日になりました。ここいらで一区切りつけて、「気にとまった短歌」のうち、もっとも気にとまった短歌を7首に絞ってみました。



  ◆前後の子おのおの傘をさしている母は合羽で自転車をこぐ (横浜市)宇佐美伸子



  ◆この介護終わりしときの悲しみを日々覚悟して老老介護 (神戸市)池田弘



  ◆妣(はは)のこと思はざる日はなかりしに娘(こ)の逝きてよりそは薄れゆく (三重紀北)庄司まさ子



  ◆虹の下を病院へ急ぎ去年の冬吾が子も虹もなべて消えたり (志摩市)近藤きみ子



  ◆終電の一駅ごとに目を開けてまた眠りゆく黒髪静か (杉並区)竹内亮



  ◆重役の何人か来てその中に不吉においてぬきん出た顔 (仙台市)工藤義生



  ◆我が握手欲しけりゃCD買ってきなプチ売春に見えるアイドル (兵庫県)佐野武



(私は俳句を作りますが、短歌は作れません。定型の短詩ということでよく俳句と短歌はいっしょくたに論じられますが、まったく別の文芸です。一方が作れても他方が作れることにはなりません。)





「線路工夫」

2015-04-05 05:41:36 | 日本語

(元国鉄工夫(92歳)の作業服。We Love Mukaiyama のブログより引用。)

 私が小学校2年生のときの国語の教科書に表題の記事がありました。内容は、線路工夫の人たちが夜中に線路を補修してくれるおかげで、私たちは安心して列車に乗ることができるのです、というものでした。

ところが私のワープロでは「工夫」という文字が出ません。「坑夫」、「人夫」も変換されません。一般にワープロでは差別用語が省かれていますが、「工夫」以下はワープロ会社によって差別用語とみなされたのでしょうか?(少なくとも「工夫」も「坑夫」もむかしの教科書には載っていました。)

 一介のワープロ会社が恣意的な判断によって、日本語の語彙を制限してよいものでしょうか?

 
※今日、気にとまった短歌

  網もって息子が蝉をとりはじめれば森になってしまうゆりのき通り (松戸市)遠山ようこ

私が聞きたくない言葉「賞なんて関係ない!」

2015-03-29 06:03:41 | 日本語

アート倶楽部カルチエラタンのブログより引用。)

 芥川賞とかノーベル賞とか学士院賞とか、「賞」と名のつくものはたくさんあります。幼稚園児の絵にさえ賞が贈られることがあります。ところが、「賞は権威主義的だ」と嫌う人がいます。そういう立場があるのは理解できます。

 
 彼らは言います。芸術でも学術でもなんでもいいが、「賞」を貰った貰わないにかかわらず(自分だけの純粋な価値判断で)作品なり論文なりを鑑賞とか吟味したいと。

 このような態度に対して、私は「では、そうしてください」と応えるしかありません。そう言いながら私は「この人は自分を何様だと思っているのだろうか?」という考えが拭い去れません。

 「賞」にも一流末流がありますが、すべてをまったく無視することは私にはできません。私自身が「なぜこれが受賞なの?」と疑問に思っても、私の眼力が足りないのかもしれないと一度は内省することにしています。

 アタマから「賞なんて関係ない!」と自信満々で言う人たちを私は今ひとつ信用できないのです。


※今日、気にとまった短歌

  カワイイの声する棚の人形のこけしはあはれ「子消し」に由るも (さいたま市)島崎征介

使いたくない言葉「人それぞれだから」

2015-03-28 05:41:59 | 日本語

(「イヌタデ」ウィキメディアコモンズより引用。Dalgial氏によるCCライセンス。)

 マックOSがよいかウインドウズがよいか、和食がよいか洋食がよいか、ピカソがよいかマチスがよいか・・世の中にはいろんな論評や論争があります。それらの論評、論争を経て時代が成熟していくのだと思います。

 ここに「人それぞれだから」という言葉を投げかけると、議論はストップします。「人それぞれ」は真実です。ですが、その真実を受け入れてしまうと、集団生活も(俳句短歌のような)言語の発見的使用も、すべて不必要になります。

 私はこの言葉を意識的に使わないようにしてきましたし、今後もそうする予定です。「人それぞれだから」は不毛な言い争いを鎮める効果がありますが、一方きわめて非生産的な言葉でもあるからです。


※今日、気にとまった短歌

  手の甲のひどく冷えをりちちぶさのごときマウスを包む右手の 大松達知『ゆりかごのうた』

中華料理人・陳建民さんの名言

2015-02-19 03:31:01 | 日本語

広瀬久美子のオフィシャルサイトより引用。)

 NHKの番組「きょうの料理」で、講師の陳建民さんが中華まんの作り方を教える回がありました。

 担当の広瀬久美子アナウンサーが「この材料で何個分ですか?」と訊ねました。

 陳建民さんの答えは「大きく作る、数少ない。小さく作る、数多い」でした。

(有名な話ですが、知らない人も多くなったと思うのでご紹介しました。)


※今日、気にとまった短歌

  今日もまた3年2組の斉藤が牛乳キャップを獲りにくる昼 (松戸市)内山佑樹

よくある「持参」の誤用

2015-02-18 04:55:25 | 日本語

八王子市のHPより引用。)

 「参ず」を辞書で引くと「うかがう。まいる。参上する」とあります。つまり、目上の人のところにうかがうことです。

 そこで「持参」ですが、「ただ持って行く」のではなく「目上の人のところへ持って行く」ことに他なりません。上のポスターは市民に「持って参れ」と命令しているような意味にも取れます。

 もっともNHKの時代劇でさえ「申された」なぞと、謙譲の「申す」と尊敬の「された」をごちゃまぜにしていますから、八王子市役所にケチをつけてもヤボでしょうが。


※今日、気にとまった短歌

  豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつ汁つくらむと心いそげり 斉藤茂吉『つゆじも』

先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし

2015-02-09 05:00:58 | 日本語

(クイズバラエティー番組。ザ・テレビジョンより引用。)

 「吾輩は猫である」の「くしゃみ先生」のように「先生」とはしばしば揶揄に使用される「尊称」です。表題の言葉はそのことを指しています。

 さいきんテレビ番組で司会者や出演者が、一定レベルの落語家や漫才師のことをやたらに「師匠」と呼びます。それが苦になります。むかしはそんなに師匠師匠と言わなかったように思います。

 医学部を卒業して医師免許を取ったとたんに、同級生同士が互いを先生と呼ぶようになりました。私はたいへん気恥ずかしく感じました。


※今日、気にとまった短歌

  急患の我が点滴終へた時無言で妻は靴持ちて立つ (一宮市)神戸隆三

手話は禁止されていた!?(2)

2014-09-12 00:14:38 | 日本語

(人工内耳の構造。日本耳鼻咽喉科学会のHPより引用。)

 人工内耳の装着手術件数が年々増えています。手術をすると聾者は耳が聞こえるようになるので、その効果はたいへん期待されています。

 そんなに聞こえるようになるなら、手術をどんどんやればいいじゃないかという声が聞こえそうですが、ことはそんなに単純ではありません。

 学習院大学の滝川一廣教授は、聾者の内言語世界がすでに手話で確立されている場合、そこに音声言語という異質の内言語を持ち込むことには慎重であるべきだと指摘しています (2007-10-02) 。

 中部地方で最も人工内耳に詳しいあいち小児保健医療総合センターの服部琢医師は、音声言語が獲得される発達段階の幼児の年齢月齢と、人工内耳埋め込み手術の最適時期を慎重に検討しておられます。彼は人工内耳によって幼児が音声言語を獲得するのに、手話の習得はかえって妨げになるのではないかと推測しています。

 ここで再び手話禁止論が台頭してくる可能性があります。

 ボランティア精神で手話を学ぼうとしている人はたくさんいます。それならついでに、過去において手話容認派と禁止派の対立が聾教育界であったことや、現在、人工内耳の発達によって、手話習得の弊害が考えられるようになってきたことにも注意を向けていただきたいと思います。

註:滝川教授の所論は「そだちの科学9号」に載っています。本書には服部琢医師の記述もあります。この雑誌は現在でも入手可能です。

手話は禁止されていた!?(1)

2014-09-11 00:15:24 | 日本語

(手話キャスター、木村晴美さん。NHK手話ニュースのHPより引用。)

 いまでこそNHKで「手話ニュース」が放送されたり、政治家の演説に手話通訳がついたりして、手話はとうぜんの表現手段になりましたが、私は医者になりたての30数年前には手話はむしろ禁止されていたのです。ご存じでしたか?

 聾者は口話法(読唇術)で相手の話を読み取ることが合理的とされ、手話は口話法の習得を妨げたからです。手話の忌避はひとつの立派な立場でした。聾学校では手話は教えられないため、手話は先輩から伝承する形で「隠れて」使われていました。

 ですが、同じころ主に若い女性の間に手話ブームがおこりました。手話はジェスチャーですから、はたから見てすぐにそれと分かります。当時の女性にとって目立つことはファッションとして重要な要素でした。(「口話法」は習得が手話より格段にむずかしく、習得しても目立ちませんから、彼女たちには採用されなかったのでしょう。)

 また、着飾るだけのファッションと違って、手話には福祉活動の香りがします。そこがカッコよかったわけですね。こうして手話ブームはまたたく間に広がり、NHKでは手話の教室を放送するようになりました。それでもまだ、手話は「公式」のものではありませんでした。

 手話が法律で公式の言語として認められたのは、なんと3年前の2011年のことでした。

 医学的な診察で手話がどの程度役に立つかというと、精神科においてはまったく役に立たないことを 2007-01-06 の記事で述べました。「寝つきはよいのに夜中に何度も目を覚ましますか?」が手話でなかなか通じませんでしたが、筆談ですぐに通じました。そのときの手話通訳者が下手だっただけかもしれませんが。

消えゆく文語体

2014-09-03 00:26:41 | 日本語
(出版社不詳。)

 明治時代の文学が美しいのは、文語が残っているからです。言文一致とやらで口語体になってからは、文語体特有の美しさが消えてしまいました。これは大きな損失でした。

 谷村新司さんの「昴」がよいのは、歌詞が文語体であることに負うと言えば、文語の美しさを理解していただけるでしょうか?「昴」が口語だったら締まらないでしょう?



 たとえば次の口語俳句は有名ですが、一句だけだから存在価値があるのであって、この手の句を茅舎がたくさん詠んだら面白くもなんともないでしょう。

     約束の寒の土筆を煮てください  川端茅舎

 無定形口語体の碧梧桐が、虚子に敗れてほんとによかったです。口語体が文芸の言葉になるには、あと200年はかかると言ったのは故山本夏彦翁です。

キツい内容を柔らかく書く

2014-06-17 03:48:57 | 日本語
(技術評論社刊。)

 私は岩田健太郎教授の読者です。岩田教授は神戸大学の感染症内科の先生ですが、感染症の本だけではなく、いろんな方面で発言しておられます。私がもっともだと感じることをおっしゃる方です。

 2014-03-05 の.I.教授とはこの方のことです。上の本で先生は「患者の気持ちが分かる」という医者を信用しないと書いています。そのような過激なことを書いているのに、柔らかい感じがします。それは「ですます調」だからかも知れません。私も少し「ですます調」で書いてみることにします。

権利はもつが行使はできない集団的自衛権とは何か?

2014-05-30 05:14:33 | 日本語

BLOGOSより引用。)

 マスコミからの情報だけで政治論議をしても床屋政談になってしまうから、この欄では政治の話はしないようにしている。だが、このたびの「集団的自衛権問題」について日本語として語義矛盾があるので、その点だけ表明しておきたい。

 報道では歴代内閣は「集団的自衛権は保有しているが行使できない」と表明してきたらしい。歴代内閣はなぜそのように表明してきたのか、その背景が語られないので背景を知りたい。

 権利とは必ず行使できるものであって、(有権者が選挙を棄権するように)「行使しない」とは言えても、「行使できない」とは言えない。そもそも「行使できない」ものを権利とは呼ばない。「行使できない」とはまさに「権利がない」というのと同義である。このように、まともな日本語ではない主張を、歴代内閣がせざるを得なかったその理由を知りたい。

例え話に反論する人

2014-04-03 05:58:32 | 日本語

スドウのランドセルHPより引用。)

 子どもにとって大多数の子どもと違うことをやらされるのは、つらいものだという話を伝えたいときに、例え話として「男の子は黒、女の子は赤のランドセルが当たり前の小学校に、男の子に赤いランドセルを背負わせて学校に行かせたら、その男の子はどう感じると思いますか?」という話をしたとする。

 そうすると「うちの子は男の子ですけど、茶色いランドセルを喜んで背負って行っています」というような回答をする親が必ずいる。

 ひねくれた親なのか、正直すぎる親なのか分からない。少なくとも私の話の筋道を理解していないことは確かで、それ以上話す意欲がなくなるのだ。

「大丈夫」の横行

2014-03-27 05:19:33 | 日本語
 二回目に歯医者に行くと若い歯科助手がにこにこと「大丈夫でしたか?」と訊いてくる。私は一瞬考える。「前回、風邪をひいていたから、それについて訊いているのだろうか?」。いや、ここは歯医者だから歯のことを訊いているのだろう。だとすると「痛み?」、「ぐらつき?」、「噛みあわせ?」と考えは廻って、けっきょく「何がですか?」と訊きなおすことになる。

 レストランでコップの水が半分ほどになっているときに、ウエイトレスが「お水、大丈夫ですか?」と尋ねてくる。「もっと水が要るか?」なのか「まだ水は要らないのか?」のどちらの意味なのか分からず返答に窮する。

 気になり始めると、とくに若い人に「大丈夫」が横行しているのが目に余る。若い人の言葉使いに文句を言いたくないのだが、「大丈夫」はあんまりなので一言言ってみた。