院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

元の旧漢字に戻せ

2014-01-18 06:03:33 | 日本語
 昨年、台湾旅行をしたときにほっとしたことがあった。それは漢字が読めることだ。中国の漢字は省略されすぎていて読めなかった。台湾は旧漢字をそのまま使用しているので、読めたのだ。

 ひるがえって、わが国を考えると、不徹底にも一部だけ漢字が変わっている。區が区、氣が気と変えられてしまった。でも、これはまだ読めないことはない。だが、晝を昼と読める人がどれだけいるだろうか?そもそも、どうやったら晝が昼に変えられるのか分からない。

 躰を体にしてしまったから、私は幼少時に体と休との区別に苦労した。新漢字のほうが覚えやすいことは決してない。

 漢字の改変は戦後に起こったことだ。誰も反対しなかったのだろうか?文字を変えるのは大変なことなのに、戦後のどさくさで通ってしまったのだろうか?まったく、あさはかな行為だった。

 私の高校の教師で、旧漢字を手放さない人がいた。私はそれを何とも思わなかったどころか、守旧派として立派だと思った。

 漢字の簡略化は合理的なようでいて、そうでない。たとえば學なら、子を興こすと分かる。でも、学ではなんにも分からない。

 元の旧漢字に戻せ!新仮名遣いも歴史的仮名遣いに戻してほしい。俳句結社ホトトギスは新仮名遣いを許さない。口語もまず認めない。格調が下がるからである。これは見識である。新仮名遣いや口語体の俳句が文学として成立するようになるには、あと100年はかかるだろう。文化とはそういうものだ。

 以上のことは、しばしば言われてきたことだろうが、国民的な復古運動として力を持ったことがないから、言ってみた。

和歌の枕詞

2014-01-04 06:05:37 | 日本語
 「たらちねの」とか「ちはやふる」といった短歌の枕詞は、すでに形骸化していて現代の短歌には使えないだろうと思っていた。歌人の俵万智さんも、意味がないことに5文字も使うのはもったいないと思っていたそうだ。それが次の歌を見てから変わったという。

   なめらかな肌だったけ若草の妻ときめきてたかもしれぬ掌(て)は  佐佐木幸綱

 いきなり妻といわずに「若草の」という枕詞をつけたから、照れや初々しさが感じられて、いい感じになったと俵さんはいう。

   君の声聞こえぬ時の寂しさは漆黒の闇に勝るものなり  ひまわり

 俵さんは上の歌に次のように枕詞を使うと、「漆黒の闇」という当たり前の表現にはならず、闇が一層深く感じられるという。

   君の声聞こえぬ時の寂しさはぬばたまの闇に勝るものなり

 そういわれれば、確かにそんな感じがする。

「心身問題」は言語問題である

2013-12-18 06:36:19 | 日本語

 例えば「もののあはれ」の「もの」。この「もの」は「ものがたり」の「もの」であり、「ものぐるほし」の「もの」であり、「美しいもの」の「もの」である。「もの」そのものは定義しにくいが、用例からある一定の概念が感得できる。

 例えば「気」。これは「元気」、「気合」、「天気」、「気に入る」、「気が合う」、「陰気」などの「気」である。アトモスフェアとも違う日本独特の対人的、対自然的な気分である。

 「み」という大和言葉を鍵として、「身になる」、「中味」、「実がなる」といった用例の意味空間から「精神」へと巧みに迫ったのが、市川浩の『精神としての身体』である。


(勁草書房刊。)

 言葉はつねに多義的である。「心」も「身」も多義的であるから、「心身一如」が正しいのか「心身二元論」が正しいのか、すでにしてそれらが言葉であるから決定できない。つまり言葉で説明するのは直感的には不可能である。

 だから、心身問題は言語的記述によっては解明できず、以心伝心のように伝えるほかないのではあるまいか?


なぜ書き言葉が話し言葉に?

2013-09-20 05:36:59 | 日本語


 「滑舌」(かつぜつ)という言葉をよく耳にする。これは元来書き言葉で、話し言葉に使われることはなかった。なぜか最近よく使われる。

 「ちなみに」もAKB48のような若い女性さえ、最近はよく使用する。これも元来は書き言葉だった。

 「しかも」もそうだ。これは男性言葉で、かつ書き言葉だった。

 AKB48の女の子がこれらの言葉を使用し始めたとき、彼女らが「のたまわく」とか「しこうして」なぞと言っているような違和感を覚えたが、「ちなみに」や「しかも」にはもう慣れてしまった。

英語が社内共通語?

2013-08-20 04:05:41 | 日本語
 

 社内共通語を英語にしている会社は以前からあった。海外相手の機械設計の会社がそうだった。最近、「楽天」など必ずしも理系でない会社が英語を社内共通語とした。

 これには賛否両論がある。私は否定論者で、海外と商売するなら各人が英語ができればよく、社内共通語まで英語にする必要はないと思う。

 論拠は3つある。

 まず、「国家とは言語である」(シオラン)という言葉を私は信じている。

 次にある否定論者が言っていたのだが、「あなたが兵隊だとして、参謀が英語で話し合って立てた作戦に安心して参加できるか?」という質問があった。私は、参加できない。

 フィリピン人がなまじ英語ができたためにアメリカに骨までしゃぶられた、という見方がある。ありそうなことである。言語の壁は不便だが、非関税障壁としてしばしば国を守る。

 というわけで、私は英語を社内共通語とするのは目先の利益を見ているだけで、将来的にはマイナス面が多いと考えている。みなさんはどうだろうか?

語尾伸ばし言葉への批判と擁護

2013-05-16 04:44:02 | 日本語
 私が30代半ばのころ、朝日新聞・愛知県版からコラムを依頼された。

 何編か書いたが、中で「私はぁ、昨日ぉ・・」という語尾伸ばし言葉について書いたことがあった。当時、語尾伸ばし言葉は嫌がられていた。私は反対に、普通の方言は尊重するのに、若者言葉を否定するのはいかがか。若者言葉は時間的な方言である。それに対して普通の方言は空間的な方言であって、両者は別物ではない、と主張した。

 さらに、同じ集団内で同じような言葉を使うのは、人間には他の集団構成員と同じでありたいという欲望が本能的にあるからだ。そうすることによって初めて個人は集団の成員とみなされる。だから、若者がみな同じような語尾伸ばし言葉を使用しても、それはむしろ自然なことである、と述べた。

 このコラムは愛知県内でけっこう反響を呼んだ。愛知県版の投書欄に、若者言葉を嫌っていた人の反省の弁が載せられた。投書者いわく、「なんどきも私はぁと語尾伸ばす少女の頬を殴りたくなる」という短歌に共鳴していたが、コラムを読んで反省した、と。

 だが、白状すると、私も上の短歌には共鳴できる。コラムでは、理屈で考えるとそうなると言っただけで、本当は理屈と感情は常に乖離している。一例を出せば、「方言は美しいから尊重しよう」という呼びかけは理屈であって、感情的にもそう思っているかどうかは甚だ怪しいのである。

話し言葉の世代間継承

2013-05-15 00:45:06 | 日本語
 「私が?昨日?どこそこへ?行ったら?・・」と、いちいち語尾を上げて疑問形のように話す話し方が、あまりに謙譲が過多な感じがして耳障りだった。

 私が初めてこのような話し方に出会ったのは、ある病院の婦長さんの話し方だった。(今は看護婦ではなくて看護師と呼ぶから、婦長は師長に変わった。)最初は「なんて変わった話し方をする人なのだろう」と物珍しく思った。もう20年以上前のことである。

 その後、このような語尾揚げ言葉は瞬く間に全国に広まった。ついには私の親友までが、このような話し方をするようになった。私はこのような話し方が無反省に広がっていくのを恐れた。

 30年前、高校生が「私はぁ、昨日ぉ、どこそこへぇ」と語尾を伸ばす話し方をするようになった。この語尾上げ言葉が広まると、若い人たちが「えーと、あのぉ」と口ごもることがなくなった。「えーと、あのぉ」は私たちは禁止されていたが、その分、話しにくくて仕方がなかった。「えーと、あのぉ」が消えたのは、「私はぁ」と語尾を伸ばしている時間に考えることができるようになったからではないか、と当時思った。(「えーと、あのぉ」が禁止されたから出てきた話法かとも考えた。)

 その高校生が親になって、その子供たちがまた語尾伸ばし言葉をしゃべるようになった。話し方は世代間で継承されるのだなと思った。今は中年になった当時の高校生は、未だに「私はぁ・・」と言っている。

 ところが「私は?昨日?・・」という語尾揚げ言葉の方は、さいきんすっかりなりを潜めてきた。この話し方は世代間で継承されなかったのだ。

 一方は継承されて、一方は継承されない。この違いはどこにあるのだろうか?今のところ、その根拠が見いだせないでいる。

使いたくない言葉

2013-04-06 00:03:01 | 日本語
(1)私には使いたくない言葉がいくつかある。以下の言葉が好きではない。

 「自分らしく」・・・具体的に何を指しているのか分からないムードだけの言葉。シンガーソングライターが歌詞に使用することがあるが、それがヒットしているのが謎である。

 「滑舌」・・・昔からある言葉だが、最近急に使われるようになったので、かえって使いたくない。

 「真逆」・・・「正反対」のことをわざわざこう言う。流行語に近いから使用したくない。

 「生活者」・・・万年野党が好む言葉。生活者でない人なんていないから、意味不明。

 「元気をもらう」・・・元気はもらうものか?「元気づけられる」ではないのか?タメ口なのもよくない。どうせ言うなら「元気をいただく」だろう。

 「・・みたいな」・・・「私は偉いのよ、みたいな感じ」のように用いる。20年ほど前に一度はやったが、すぐにすたれた。今回はすたれず若者に蔓延している。どんな場合にも言うようになったので、いやだ。

 「たわわに実る」、「大粒の涙」・・・これらはもう慣用句のようになっているので、使用したくない。(もし俳句で使用されたら、確実にボツである。)

(2)10年上級の先輩がいやだと言っていた言葉を以下に並べる。私もいやである。

 「原点」・・・もとは数学用語。エセ左翼の学生が好んでいたので、使いたくない。

 「たたき台」・・・私にはそう抵抗はないのだが、先輩はいやだと言っていた。

 「視座」・・・「視点」、「観点」と言えばよいのに、知識人が使い始めた。知識人ぶっている感じがしていやだ。

(3)読み方でよく間違われるのが「早急」だ。多くの政治家がこれを「そうきゅう」と読む。正しくは「さっきゅう」である。「そうきゅう」と読む人は「早速」を「そうそく」と読むのだろうか。自民党の石破幹事長はさすがに間違えなかった。

誤植の罪

2013-02-23 00:11:12 | 日本語
 私が小学校低学年だったか、歯医者の待合室で子供向けの本を読んでいた。そこにはカイツブリという鳥の生態が書いてあった。

 中に一か所だけ「カイブリ」と印刷してある部分があった。小学校低学年だから、それが誤植とは分からない。そもそも「カイツブリ」でさえ初めて出会った鳥の名前だ。だから、少年の私は「カイツブリ」という鳥と「カイブリ」という鳥が別々にいるのだと思った。そのため、その記事全体の意味が分からなくなった。

 「カイツブリ」と「カイブリ」の謎が解けるまで、その後何年も要した。たった一か所の誤植だが、なんの罪もない少年を苦しめるのには十分だった。活版印刷からワープロ印刷になって、活字が横向きになるような誤植はなくなったが、文字を落とす誤植はなくならない。

 俳句の会(句会)では、短冊に書いた俳句をシャッフルしてから清記をしなおす。その俳句が誰の作か筆跡から推察できないようにするためだ。俳句は短いから、一文字でも違うとまったく別の俳句になってなってしまう。そのため、清記にはみなが細心の注意を払う。

 でも、清記下手の人はどこにでもいて、句会には「あの人に清記されたら、もう選句されない」と出句者が諦めるような人が必ずいる。清記が間違っていると指摘する時間は句会にはない。

 私が所属する俳句結社の会誌は、たぶんまだ活版印刷だろうと思われるのだが、俳句が間違えて印刷されることはまずない。係りの人がボランティアでそうとう注意深く校正しているとしか思えない。俳句結社は趣味の会だし、参加者も年金生活者が多いので、会費がとても安い。それなのに、まったく誤植のない会誌を出していることに脱帽の念を禁じ得ない。

趣味は実益を兼ねうるか?

2013-02-15 01:56:05 | 日本語
 俗に趣味と実益を兼ねるというが、趣味と実益は兼ねてはいけないのではないか?

 例えば釣りは趣味である。獲った魚も家族で食べるほどの小規模なものである。これが、大量に魚を釣って魚市場に流すようになれば、もう趣味と言ってはいけないのではないか?

 例えば、山歩きが趣味の人はなにか報酬を得てはいけないのではなかろうか?つまり、何かを山小屋まで運んで小遣いを稼いでは、趣味と言えなくなるのではないか?

 花栽培、洋裁、陶芸なども売るほど作っては趣味と言えなくなるような気がする。

 囲碁将棋も、それを行うことによって収入を得れば、趣味とは言えない。(もっとも、囲碁将棋は天才でなければ収入を得ることはできないが。)

 趣味が趣味であり続けるのは、それによって報酬を得ないことが大前提であり、趣味と実益を兼ねるというのは、そもそも語義矛盾なのではないか?

トラックは兵器か?

2013-02-02 03:15:23 | 日本語
 だいぶ昔のことだが、「トラックは兵器か?」という問いがなされたことがあった。

 答えの中に「トラックが兵士を運んだり、機関銃を据えつければ兵器だが、穀物などの食料を運ぶのなら兵器ではない」というものがあった。その答えで納得してしまった人が結構いた。しかし、私はおかしいと思った。

 運ばれる穀物などの食料が、兵士の戦闘力を維持させるものだとしたら、トラックはまたもや兵器だということになってしまうではないか?

 つまり「トラックは兵器か?」という問いそのものが無意味なのだ。

 「花瓶は武器か?」という問いも同じである。ドラマなどで花瓶はよく凶器に使用される。だからといって、「花瓶は武器か?」と問うことはナンセンスである。花瓶は花を活けるものである。それなのに、「花瓶は武器か?」と問うのは言葉のトリックである。

 こうした怪しい問いは相手にせぬほうがよい。答えたら答えたで、屁理屈になってしまう。

 しかしながら、類似のトリッキーな問いは、気付かれないように繰り返し発せられている。曰く「ペンは剣か?」。曰く「テロは悪か?」。これらの問いはまっとうな問いではないから、無視するのが一番である。

「ら抜き言葉」を擁護する

2013-01-15 05:17:43 | 日本語
 「切る」の可能態は「切れる」である。「取る」の可能態は「取れる」である。でも、昔は「切られる」、「取られる」が正しい可能態だった。

 「着る」の場合、可能態は「着られる」である。「着れる」というと年長者から文句を言われる。「切れる」がOKで「着れる」がNGなのは矛盾している。

 だから、「見れる」、「食べれる」でよいのだ。「ら抜き言葉」として批判する必要もない。そもそも「見られる」、「食べられる」と言ってしまうと、可能態なのか受け身なのかが区別できない。

 名古屋弁では昔から「見れる」、「食べれる」である。それどころか「行ける」を「行けれる」という。可能態としての「教えられる」を「教えれる」という。

 名古屋弁のほうが「標準語」よりも、よほど論理的だと思う。

「谷底」と「依存」

2012-12-21 04:33:31 | 日本語
 NHKのアナウンサーは「谷底」を「たにぞこ」と濁って読む。「依存」は「いそん」と澄んで読む。

 私は「谷底」は「たにそこ」と澄んで、「依存」は「いぞん」と濁って発音していた。

 しゃべりのプロのアナウンサーや、彼らを擁するNHKが間違えるはずはないと思って、広辞苑を調べてみた。

 広辞苑では「谷底」は「たにそこ」の項目にあり、「たにぞこ」と濁った発音は載っていなかった。

 「依存」は「いそん」と澄んだ項目に載っていて、そこに「いぞんとも発音する」との注意書きがあった。

 広辞苑が絶対に正しいというのではないけれども、「谷底」の発音は私の経験に照らしても、NHKは一般的ではないものを採用していると分かった。

「おにぎり」か「おむすび」か

2012-12-19 06:05:42 | 日本語
 コンビニでは「おにぎり」を売っている。酒とおにぎりを供する小店は「おにぎり屋」と呼ばれる。「おむすび屋」とは言わない。

 逆に民話の「おむすびころりん」は「おにぎりころりん」とは言わない。三角形を表現するのに、「おむすび型」と言うが、「おにぎり型」とは言わない。

 私は幼少のころ東京に住んでいたが、母親は「おむすび」と言った。「おにぎり」という呼び名に出会ったのは少し長じてからだった。

 関西ではもともと「おにぎり」だったらしい。その呼び名が全国に普及して「おむすび」の勢力は減退してきたと言えるだろう。

 「おむすび」は形が三角形と決まっているが、「おにぎり」は俵型など形を問わないという説もある。

切符をチケットと呼ぶのは何故?

2012-12-04 05:20:23 | 日本語
 切符のことがチケットと言われ始めたのは案外古く、50年近く前、私が中学2年生のころだった。

 なぜそんなことを覚えているかというと、学校で売られているパンの購入を「チケット制にしよう」とクラスの秀才が訴え始めたからである。チケットって何?と思った。まだ ticket という単語を習う前だった。

 チケットが分からないから、秀才が何を求めているのか分からなかった。後になってチケットは切符のことだと知ったが、現金の代わりに切符制にするメリットが分からなかった。(未だに分からない。回数券のようにオマケが付いた覚えがない。)

 その後、「チケット」はすたれずに生き残って、現在ではプレイガイドで売っているものはすべてチケットである。コンサートの切符とは言わない。コンサートのチケットと言う。

 だが、それ以前はすべて「切符」と言ったのだ。映画も演劇も全部、「切符」だった。飛行機も切符だった。電車は未だに切符だから、なぜそれ以外のものをチケットと称するようになったのか、理由が分からない。

 いま「尊敬」のことを、わざわざ「リスペクト」と言う。どうしても外来語でないと意味が通じにくい用語は存在する。でも、切符、尊敬をあえて外来語で言う必要性を感じない。「リスペクト」は50年後も生き残っているだろうか?