昨年、台湾旅行をしたときにほっとしたことがあった。それは漢字が読めることだ。中国の漢字は省略されすぎていて読めなかった。台湾は旧漢字をそのまま使用しているので、読めたのだ。
ひるがえって、わが国を考えると、不徹底にも一部だけ漢字が変わっている。區が区、氣が気と変えられてしまった。でも、これはまだ読めないことはない。だが、晝を昼と読める人がどれだけいるだろうか?そもそも、どうやったら晝が昼に変えられるのか分からない。
躰を体にしてしまったから、私は幼少時に体と休との区別に苦労した。新漢字のほうが覚えやすいことは決してない。
漢字の改変は戦後に起こったことだ。誰も反対しなかったのだろうか?文字を変えるのは大変なことなのに、戦後のどさくさで通ってしまったのだろうか?まったく、あさはかな行為だった。
私の高校の教師で、旧漢字を手放さない人がいた。私はそれを何とも思わなかったどころか、守旧派として立派だと思った。
漢字の簡略化は合理的なようでいて、そうでない。たとえば學なら、子を興こすと分かる。でも、学ではなんにも分からない。
元の旧漢字に戻せ!新仮名遣いも歴史的仮名遣いに戻してほしい。俳句結社ホトトギスは新仮名遣いを許さない。口語もまず認めない。格調が下がるからである。これは見識である。新仮名遣いや口語体の俳句が文学として成立するようになるには、あと100年はかかるだろう。文化とはそういうものだ。
以上のことは、しばしば言われてきたことだろうが、国民的な復古運動として力を持ったことがないから、言ってみた。
ひるがえって、わが国を考えると、不徹底にも一部だけ漢字が変わっている。區が区、氣が気と変えられてしまった。でも、これはまだ読めないことはない。だが、晝を昼と読める人がどれだけいるだろうか?そもそも、どうやったら晝が昼に変えられるのか分からない。
躰を体にしてしまったから、私は幼少時に体と休との区別に苦労した。新漢字のほうが覚えやすいことは決してない。
漢字の改変は戦後に起こったことだ。誰も反対しなかったのだろうか?文字を変えるのは大変なことなのに、戦後のどさくさで通ってしまったのだろうか?まったく、あさはかな行為だった。
私の高校の教師で、旧漢字を手放さない人がいた。私はそれを何とも思わなかったどころか、守旧派として立派だと思った。
漢字の簡略化は合理的なようでいて、そうでない。たとえば學なら、子を興こすと分かる。でも、学ではなんにも分からない。
元の旧漢字に戻せ!新仮名遣いも歴史的仮名遣いに戻してほしい。俳句結社ホトトギスは新仮名遣いを許さない。口語もまず認めない。格調が下がるからである。これは見識である。新仮名遣いや口語体の俳句が文学として成立するようになるには、あと100年はかかるだろう。文化とはそういうものだ。
以上のことは、しばしば言われてきたことだろうが、国民的な復古運動として力を持ったことがないから、言ってみた。