STAP細胞騒動のすべての原因は、当該論文がネイチャー誌に載っただけのことを理研広報部が大々的に宣伝したことにある、とは
2014-03-12 で述べた。騒動を引き起こしたのは小保方さんでも共同研究者でもない。理研の広報部である。(あるいは理研の広報部に宣伝の指示を出した人物である。)
これもすでに述べたことだが、ネイチャー誌が一流誌であるとは言っても、載っただけなのに嬉々として発表してはいけなかったのだ。素人はSTAP細胞が完成したと受け取る。掲載論文の成否はのちに行われる追試でしか語れず、8割の学術論文が再現性なしとして消えていく。STAP細胞の論文もそうした経過をたどるべきだった。山中教授のiPS細胞も、そうした手続きを経て生き残り、ノーベル賞に至った。iPS細胞の論文が 2007 年にジャーナルに掲載されたとき、われわれ国民は何も知らなかったではないか。
識者は次のようなことを言っている。
(1)あの論文は無価値である。理研が追試をするらしいが徒労である。(首都大学東京教授)。
(2)200回以上STAP細胞の作製に成功しているなら、200回以上の実験ノート記録が残っていなくてはならない。(九大教授)。
これらの教授たちが言っていることは正しいのだろう。だが、どうせ言うなら、学術論文が正しいか否かは再現性によってでしか言えないと念を押してほしかった。なぜなら、インタビューをした放送局の記者(これは素人である)は、STAP細胞が存在するか否かばかりを性急に知りたがっていたからである。
追試に待つしかないと言ったのは武田邦彦教授だった。彼は数年すれば再現性のない論文は消えていくとも言った。学者としてもっとも正しい発言である。
研究は税金で行われるのでしょう?と必ず成果が上がらなければならないと思っている記者がいたが、彼らは素人だから仕方がないだろう。だが、その質問に対応した東大教授は記者の意見を否定しなかった。東大教授がそれでは困る。素人の記者たちを「研究とは必ず成果が上がるものではないのだよ」と諭してほしかった。
成果が上がったとしても、学術研究には何の役に立つのか分からないものが多いのだ。最近、南極に築かれた高価な装置で重力波が測定され、宇宙開闢のもっと前が分かりそうだというが、そんなもの何の役に立つかと問われれば立たないのである。学術研究とはそのようなもので、素人がよってたかって野次馬的に論評するものではないのだ。
註:ここで言う「素人」とは
「玄人と素人」の記事(2014-03-05)に書いたような意味である。