goo blog サービス終了のお知らせ 

院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

漢方にかんする誤解

2011-11-24 02:50:01 | Weblog
 漢方医学には西洋医学(蘭方)とはまったく別の体系がある。「証」という概念が特徴である。この「証」に虚と実があり、その区別を誤ると正反対の処方をしかねない。つまり、漢方を行うには一定の修練が必要である。

 漢方には中国四千年の歴史があり、漢方薬には副作用がないという思い込みが日本では見られるが、まったくの誤解である。

 漢方は確かに中国大陸から伝わった方法ではあるが、実は日本で独自の発展をとげたものであり、江戸時代に大成された。副作用がないというのも迷信であり、化学薬物と同様、'よく効く薬ほど副作用が強い。そして、現代の中国の漢方は、日本の漢方を中国が逆輸入したものであることを知る人は少ない。

 1976年、漢方薬が保険適用になった。以来、粉末状の漢方薬がよく売れている。しかし、後輩の精神科医で、漢方専門医の資格をもつ者によると、漢方薬は湯で溶かして飲むのが本道だという。粉末で飲むのは、抹茶を粉末のまま飲むのに等しく、従来の漢方医学とは著しくかけ離れた方法だと私は思う。

 その後輩によれば、体に合った漢方薬なら、飲むうちにおいしく感じるようになるという。粉末のまま飲んでは味わえないではないか?

 漢方の「証」を診るには脈診、舌診、腹診といった診察が不可欠であるが、そうした診察をしないで(できないから)漢方薬を処方する医者が多いのは怪訝である。患者が漢方薬をねだるからだろうか?

 最近、医学部で漢方を教える講座が増えてきた。漢方を学ぶのはよいことである。しかし、何のトレーニングも受けずに漢方薬を処方するのは医者の驕りだと思うが、どうか?

各国各地の騒乱(エジプトを中心に)

2011-11-23 05:22:12 | Weblog
 エジプトの騒乱が続いている。デモ隊はもとは味方だった軍と衝突している。理由は軍による憲法草案が軍に有利に作られたということだが、屁理屈である。どんな草案だってケチを付けられ暴動は起きたはずである。革命とはそういうものであり、民衆とはそういうもだ。

 公正な選挙をとエジプトでは叫ばれているけれども、この選挙結果も不正があったなぞとケチを付ける勢力が必ず出てきて、混乱は続くだろう。

 リビアが内戦になるとは、すでに予想した。現在、不思議に(報道からは)なりをひそめているチュニジアでも、いずれ騒乱が起きるだろうから、今から予言しておく。根拠は国民の怠惰である。それは2年前、私がこの目で見てきた。怠惰は貧困を招き、貧困が騒乱を呼ぶのは「定理」みたいなものである。

 ギリシャも騒乱になる。民主主義発祥の地でそのようになるのは皮肉だが、直接民主主義は衆愚政治の母親である。

 翻って、我が国でも名古屋市の減税党は衆愚によって作られた。河村市長は衆愚首長の典型である。減税なんてできっこない。河村市長がどうオトシマエを付けるか、もと名古屋市民として注目している。

 でも名古屋で騒乱が起こることは考えにくい。まず貧困でない。次にマナーがよい。でも、衆愚である点では中東と同じである。

初めて隣町に行ったとき

2011-11-22 03:27:03 | Weblog
 みなさまは、幼少時に初めて一人で隣町に行ったことを覚えておられるだろうか?私は覚えている。

 そりゃぁデパートなぞは、もっと離れた町にあった。でも必ず親が一緒だった。一人で行くという初めての体験をしたのは、私が小学校2年生のころだった。

 私は都会育ちだから、隣町も都会である。交通量の多い広い道を渡ればもう隣町だ。だが、隣町は自分の町とはぜんぜん違って見えた。

 まず町工場がある。自分の町にはなかった。働いている人は自分の町とまったく違う服装をしていた(作業服?)。話している言葉は日本語なのだが、外国語のように聞こえた。顔つきまで違って見えた。

 そこにいるのは知らない人たちばかりだった。当然のことながら、近所の魚屋のおじさんも時計屋のおばさんもいなかった。なんだか怖くなったて私は走って帰った。

 自宅に戻り、私は親に「今日、”先祖”の町に行ってきた」と興奮して伝えた。「先祖」というのは正確な意味を知らないから、そう言ったのであって、要するに私にとっては「異人」程度の意味だった。

 新しくも、不安を帯びた体験だった。一年後には隣町はもう「異世界」ではなくなっていた。今は外国が私にとっての「先祖の町」である。

エジプトで暴動起こる

2011-11-21 05:54:41 | Weblog
 エジプトで反政府デモが行われた。デモは暴徒化して軍と衝突し、死者まで出た。今日の報道で知った。死者が出た以上、恨みは長く続くだろう。エジプトの前途は険しい。

 不遜な言い方かもしれないが、こうなることは前から分かっていた。高校でフランス革命について習って、革命後の血みどろの混乱について知っていれば、エジプトもそうなると極東の一日本人でさえ分かる。

 デモ隊が叫ぶのは「ムバラクが倒れても何も変わらないじゃないか」、「この機に軍が政権を掌握しようとしている」といった陳腐な台詞ばかりである。エジプトがこのような事態になる可能性は、本欄ですでに「リビアにかんする偏向報道」(2011-08-27)の項目で予想しておいた。

 民衆とは自分も含めて、愚かで性急だと自覚しておいたほうがよい。

里山は人工産物

2011-11-20 00:46:09 | Weblog
 「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・」という歌や「どじょっこだのふなっこだの・・」という唱歌がある。そのためか、里山とは自然の最たるものと思われがちだが、実は里山は人工産物である。

 人間が山に適度に手を入れて、田畑を営んだ結果、懐かしい里山の風景が生まれたのだ。起源は縄文時代まで遡れるらしい。以後、何度か山の木が伐採されすぎて、ハゲ山となったが、その都度、里山は復元されてきた。もっとも最近、復元されたのは1950年の国土緑化運動で、そう古いことではない。

 したがって、里山の生態系は人工的なものであり、けっして原始の姿ではない。だから。「どじょっこ」や「ふなっこ」も人工産物である。里山を中心とした生態系は、言ってみれば水族館のようなものである。

 ほんとうに原始の風景を取り戻したければ、田畑や山の手入れを怠ればよい。その代わり、田畑は荒れ、「どじょっこ」も「ふなっこ」も激減するだろう。結果として人間は食べていけなくなる。

 多くの自然環境重視主義者が、里山と原始の風景を混同しているようなので、一言言ってみた。

茶髪ピアスの子で親切なのは7%

2011-11-19 00:18:37 | Weblog
 よく新聞の投書で、「茶髪ピアスで怖いと思ったが、とても親切にしてくれて、人間は外見で判断しては駄目だと思った」という意見がある。

 これは何でも白か黒かと決めてしまう、あやまった判断だと思う。たぶん7%くらいの茶髪ピアスの青少年は意外に親切なんだろう。だが、残りの93%は、人の迷惑を考えなくて、コンビニでたむろしているような人種が多いと私は思っている。

 だから投書者は、たまたま親切な青少年にぶつかっただけで、茶髪ピアスの子がぜんぶ親切(白)だと思ってはならない。

 世の中には、白か黒か決められないことがほとんどである。それを私は自分で「7%の法則」と呼んだ。この法則は、いろんな分野で言えるので、ちょっと自信をもっている。

 バイリンガルになれる人も、ちゃんとした日本語が書ける若者も、小学校の英語必須化で伸びる子も、正しい敬語が使える人も、みな7%くらいで、あとの93%はいくら頑張ってもできるようにはならない。

タイプライターの速さ

2011-11-18 05:15:54 | Weblog
 先日、久々に患者として総合病院に行った。担当は30歳くらいの女医さんだった。

 大病院で、電子カルテを採用している。だから、画面や検査データがオンラインで送られてくる。レントゲン写真やカルテを「運ぶ」という動作が不要になった。

 ただし、入力はすべてキーボードである。タイプライターが打てないと、電子カルテシステムは使えない。その女医さんのタイプライターは極めて速かった。

 私は25歳からタイプライターを始めた。女医さんは、その私より2倍くらい速い。女医さんは生まれたときからパソコンや少なくともワープロ単能機はあったはずである。だから彼女は小さいときからキーボードを触っていたに違いない。

 私と女医さんのタイプ速度の違いは、たぶんそこから来ている。まえにも言ったが、体で覚える技能は若いうちから始めなくてはならない。

リンゴの変遷

2011-11-17 05:57:41 | Weblog
 私の少年から青年時代にかけて、リンゴと言えば「国光(こっこう)」か「紅玉(こうぎょく)」だった。

 「国光」は甘みが少なく、硬く、ときにゴミ臭いことがあって、私はあまり好まなかった。「紅玉」は好きだった。あの甘酸っぱさといったらリンゴの王道だろう。

 「紅玉」は酸っぱさゆえに、焼きリンゴやパイの中身によく合った。最近、酸っぱくないイチゴがあるけれども、これらがジャムに向かないのと同様に、酸っぱくないリンゴも調理に適さない。

 甘いリンゴの走りは「デリシャス」だったように思う。生で食べるのにおいしいリンゴだったが、最近見かけない。リンゴと言えば「ふじ」の系統ばかりになった。だから、「紅玉」が食べたくなっても、どこにも売っていない。そもそも生産しているのだろうか?

 「ふじ」は確かにおいしい。しかし、生食以外の食べ方を想定していないのではないか?ああ、「紅玉」が食べたい。「紅玉」を丸ごと一個食べると通じもよくなる。

 ネットで調べれば、どこかで売っているのかもしれないが、それほどまでにして取り寄せるほど「紅玉」は高級品ではない。

 街の八百屋で一山いくらで買ってきて、毎日一個くらいずつ食べるのが、「紅玉」の正しい味わい方だと私は思う。

ドラマ「南極大陸」視聴率低下

2011-11-16 00:44:54 | Weblog
 ドラマ「南極大陸」の視聴率が急降下しているそうだ。2回目から私も面白くないと思って、先日ここに書いた。

 5回目を少し見たが、やはり詰まらなかった。詰まらない原因は、キムタクを撮って、キムタク演じる「一隊員」を撮っていないからだとか、30年前の高倉健主演の劇場映画「南極物語」と較べられてしまうとか言う人があるけれども、私は違うと思う。

 やはり、基本的な脚本と構成と演出が悪いのだ。物語に引き込んでいくだけのリアリティーがこの作品にはないのである。

 私は劇場映画「南極物語」は、名前は知っているが見ていない。だから、較べようがない。キムタクにリアリティーがないと言うが、ドラマ全体にリアリティーがないのである。キムタク一人のせいではない。

 わざわざ「フィクションです」と断っているのもリアリティーのなさを弁解しているように見えてしまう。第一次越冬隊では遭難者は出ていないように記憶するが、ドラマでは遭難者が出る。南極観測隊の遭難者と言えば、翌年氷の中から発見された福島隊員だけのように記憶しているけれども、私の記憶違いだろうか?私の記憶が正しければ、フィクション化のしすぎである。

 10年ほど前、私の同僚医師(救急科)が医師隊員として越冬隊に加わった。星の美術的な写真撮影が好きな人である。身近に観測隊経験者がいる人は他にも多いだろう。つまり、南極観測はまだリアルなのである。それをフィクションにしてしまうには、まだ早すぎると言わざるを得ない。

 繰り返すが、ドラマ「南極大陸」が詰まらないのは、キムタクのせいでもなければ、劇場映画「南極物語」のせいでもない。ただひたすら、作り手の未熟さによるものである。

日本医師会がTPPに反対する訳

2011-11-15 04:05:47 | Weblog
 日本がTPPに加入すると、世界に冠たる国民皆保険制度が危うくなるというのは本当である。だから日本医師会はTPPに反対している。大資本が医療界に入ってくると、受けられる医療やサービスの格差が拡大する。今でも金持ちは入院中には特別室にしか入らず、相部屋は嫌うではないか?

 国民皆保険制度が、どんな社会主義国よりも徹底した計画経済であるということを知る人は少ない。

 国民皆保険制度に少しでも資本主義的な要素が加わると、計画経済はほころびる。計画経済が駄目になると、今度は病院や医師に(資本主義的に)ランクが付けられるようになる。

 計画経済なら、いつどこでも料金は同じだから、ランクはあまり気にしなくてよい。しかし、資本主義的になると必ずランクが付けが行われる。日本医師会はそうしたランク付けを嫌ってTPPに反対しているのである。

 計画経済の皆保険制度でもランクが付けられるのだから、そうでなくなったらランク付けは徹底されるだろう。そうなると、人気がある病院とそうでない病院との間に格差が出てくる。日本医師会はこれがイヤなのだ。(他にもイヤな理由は多数あるが。)

 ところが、このランク付けというのが実は信用できない。医者自身がその病院で2ヶ月くらい働いて、じっくりと観察しないと良い病院かそうでないかが分からない。病院の良し悪しを見極めることはそれほどに難しい。それも、自分が専門にしている科しか見破れない。

 まして、素人さんに病院や医師の良し悪しが分かることは絶対にないと言ってよい。仲間内では駄目とされている医者に異常に人気が出たり、優秀な医者が意外にも評判が悪くなるといった現象が必ず出てくる。

 このような事態よりは、今のほうがよほどマシだから、日本医師会がTPPに反対するのを私は理解できるのである。

なぜ漁民には嫁が来るのか?

2011-11-14 04:30:31 | Weblog
 農家と違って漁民には後継者がいる。嫁も来る。

 何故か?漁業者は補助金が要らないほど儲かるからだと私は睨んでいる。農民が畑を耕すようには海を耕す必要がない。なんの努力をしなくても、水産物は自然に育ってくれる。

 こんなにいい商売はない。私も漁民になりたいとは、いつぞや書いた。しかし、私は漁民になれない。そこには漁業権という「財産」がからんでいるからである。漁業権はたいてい世襲である。ヨソ者が出る幕はない。

 その漁民が先年、原油高に抗議して海上デモをやった。私はいっぺんに白けた。漁民は自ら誇りを捨てたのである。農民のように。

農家に嫁が来ないのは何故か?

2011-11-13 03:43:57 | Weblog
 農家に嫁が来ないのは、農業が3Kの仕事だからではない。補助金漬けだからだ。人様から貰ったお金で生活している家に嫁が来るはずがない。

 ・・と言ったのは私ではない。もう20年以上も前に故山本夏彦さんが言ったことである。

 とくに兼業農家が補助金の恩恵にあずかっている。不作だと言っては補助金。災害と言っては補助金。今回の原子炉事故でも補助金ということになるだろう。風評被害にまで補助金が出るらしい。

 食糧自給率が云々、食糧安保が云々というのは口実に過ぎない。小規模でも農家をやっていれば食いはぐれがないのである。みんなお上が面倒を見てくれる。だから農村は大票田になる。民主党政権になるまでは、そういう構図がまかり通っていた。政権が変わっても、その構図は変わっていない。

 TPP問題でもそうだ。農業が崩壊するというのは、つまり補助金が崩壊することに他ならない。

 全国200万人と言われるワーキングプアを見よ。彼らは給料が少ないからといって、補助金が貰えるわけではない。クビになっても補助金は出ない。

 ワーキングプアから見れば、農家は恵まれすぎている。食糧自給率40%と言ってもカロリーベースだ。金額ベースなら60%である。カロリーベースで自給率を発表している国は日本以外にはない。ためにする統計だとしか思えない。

 だからJAがいくらTPPに反対しても説得力はない。

受験のカリスマ・和田秀樹さん

2011-11-12 02:11:16 | Weblog
 灘高から東大理�へ行った秀才の和田秀樹さんは精神科医である。

 いまでこそ受験のカリスマで、受験に関する著書も多い。ちょっと立ち読みしてみたが、まことに当を得たことが書いてある。そして面白い。

 和田さんは実は精神医学的な本も昔は書いていたということを知る人は少ない。「シゾフレ日本人」(kkロングセラーズ、1994)がそれである。シゾフレ人間とメランコ人間という類型を取り出して、一般人に向けて書かれた日本人論だ。私は和田さんが有名になる前に読んだ。

 この本は、浅田彰さんのベストセラー「構造と力」(勁草書房、1983)と似ている。「構造と力」では浅野さんはスキゾとパラノを対立軸に置いている(*)。この本が、和田さんの「シゾフレ日本人」の売り上げを阻んだと言えるだろう。

 和田さんが医者を休業しているのは、自身の言葉によれば「文筆で得られる収入が医者の収入と同じくらいになったから」だという。

 和田さんは、とにかく勉強家だ。文筆業になってからも学会に出席している。この前、日本精神神経学会で姿を見かけた。

 (*)この概念は、木村敏のアンテフェストゥムとポストフェストゥムという対立概念を一般人に分かりやすく翻訳したものだと思う。

コンスタントに検索される用語

2011-11-11 04:07:56 | Weblog
 コンスタントに検索されている用語は次のようなものである。

 「船医」 船医は最近少なく、どういう存在か興味を持っている人が多いのだろう。

 「先天性中手骨欠損症」 外見を損なう奇形でありながら、一般に記載が少なく、調べたい人が多いのだろう。

 「正多面体が5種類しかないことの証明」 中学生や高校生が調べるのだろうか?

 「交互色彩分割法」 30年以上前に私が考案した非言語的コミュニケーションの技法である。未だに検索されることが嬉しい。そのため原著論文をPDFにして公開した。

 「被差別」 被差別がどこにあるのか、未だに知りたい人が多いのだろうか?私は知らない。

私の能楽遍歴

2011-11-10 07:19:26 | Weblog
 中学生のとき、Uちゃんというアダナの国語教師が「このクラスの中で本物の能を見たことがある者はいるか?」と問うた。一人もいなかった。高校生になってJiというアダナの古文教師が「能のバックで演奏している人たちを何と言うか?」と問うた。みな曖昧な答えしかできなかった。正解は囃し方である。

 何度も教師が能について語るので、能とは日本の古典芸能として、そんなに重要なものなのかと思って、私は水道橋の能楽堂に一人で見に行った。演目は「葵の上」というものだった。初めに説明があったから筋は分かったが、楽しめたとは言えなかった。ただ、囃し方の演奏はすごいと思った。

 家の近くに能楽堂があったので、そこにも行ってみた。その時は「袴能」と言って、面や衣装を着けない能だった。そのためか、入場料もとても安かった。席は椅子ではなく、桟敷だった。これも全然意味が分からなかった。面や衣装なしだから、余計に。

 同時に演じられた狂言は分かった。太郎冠者、次郎冠者が出てきて滑稽な劇を演じる。能よりも台詞が聞き取れるので、意味は分かったが、大笑いするほど滑稽ではなかった。

 大学生になってからも、能を今の妻とデートで見に行った。相変わらず意味が分からず、したがって面白くもなかった。でも、囃し方がすごかったので、能の「紅葉狩り」というレコードを買って、聴いていた。

 それから、20年間くらい能とは無縁の生活をしていた。ひょんなことから、妻が大鼓(おおつづみ)(その筋では大皮(おおかわ)という)をやり始めた。気に入ったらしく、もう10年以上も大鼓の練習をしている。

 私も影響されて、能管(能の笛)を2年間習った。若いころから管楽器をやっていたおかげで、能管の演奏はどんどん上達した。しかし、謡(うたい)との合わせ方が分からない。

 やっと能の基本のすべては謡にあると分かった。だから、演奏をするにも舞いをするにも、まず謡が十分にできなければなんともならないことがようやく分かった。私は謡を習う気はなかった。だから、能管も止めてしまった。

 妻は謡が分かるし、実際に謡うことができるから楽しいらしい。月に1,2回は能を見に行く。私も最初のうちは付き合ったが、とても退屈で、とうとう能からは手を引いてしまった。

 けっきょく能を楽しむことは、私にはできなかったけれども、能に関する知識だけは付いてしまった。心から能を楽しめる妻が羨ましい。