(聖火の入場。ウィキペディアより引用)。
いま東京に来ているが静かなものである。前回1964年の東京オリンピックの前はこんなものではなかった。24時間砕石ドリルの音が響いていた。
道路の拡張、首都高速の建設、それに伴うビルの建て替え。道路はいつも大渋滞。ラジオは交通情報を伝えるようになった。どこそこが通行止めといった情報は今でも放送されるが、当時はどこそこの信号は自動車が通るのに何回待ちかが伝えられた。信号が一回青になっただけでは車が通れなかったのだ。
それでも文句を言う人はいなかった。みな初めての東京オリンピックを楽しみにしていた。祖父はカラーテレビを買った。
私は中学生か高校生だった。町ぢゅうのオリンピックへの熱狂にはかえって白けた。だから夢中になってテレビにかじりつくことはなかった。それでも体操やバレーボールは見た。ウルトラC、回転レシーブを生放送で見た。ついでに重量挙げにいろんな持ち上げ方があることも知った。
東京全体が興奮していた。ところが今回の東京オリンピックでは、前回のような東京全体の浮き足立ちが見られない。わが国が成熟したからだろうか?
前回も外国人がオリンピックを見にたくさん来ると期待する向きがあった。フタを開けてみると外国人は普段より増えた感じはしなかった。極東の島国に、わざわざ外国から見に来る人は少なかったのだろう。今回も同じだろう。もともと東京はもっとも外国人が多い都市なのだ。
さきほど駒沢陸上競技場近辺を通ったが静かなものだ。今日は珍しく雹が降ったが。前回のオリンピック前の駒沢は一面の赤土(関東ローム層)の荒野だった。風が強い日は土ぼこりが舞うだけだった。それがいまや駒沢は繁華街となった。私も老いた。
※私の俳句(秋)
み仏は暗きにおはす寺の秋
過分なお言葉を有難うございます。
nifty-serve懐かしいです。
QLD句会の前にV句会に参加させていただいておりまして、今も続けています。
QLD句会、V句会共に、遠方の方々と居ながらにして句会を楽しめるので大変ありがたいです。いつも感謝しています。
コメントが跨ってしまうようで済みません。
ほんとにあの頃は、そうでしたね。(遠い目)。
(1)
昭和三十九年(1964)の東京オリンピック(第十八回夏季オリンピック)は十月十日が開会式だった。中里先生と同じ中学三年生の時である。肌にも心地よい秋晴れの土曜日。中学は登校して点呼するだけで解散となった。今では考えられないことである。
赤十字病院下の電停から四谷三丁目行きの都電に乗って帰途についたが、途中、開会式会場であった国立競技場に近い神宮外苑の権田原電停で下車して、帰りが一緒の級友O君と共に世間の様子を見聞した。会場の歓声が聞こえていた。
信濃町駅あたりに来ると、航空自衛隊のチーム「ブルーインパルス」のジェット機が大空に五輪のマークを描き始めた。放たれた無数の風船が空に舞った。
(2)
東京オリンピックは鳴り物入りで開催された。ひとつは昭和十五年(1940)に予定されていた東京大会が戦況の悪化で中止になったことを受けてのものだったこと。そしてアジア初の大会でもあった。この昭和十五年には万博の日本開催も中止されている。
昭和三十九年は敗戦から足かけ二十年。数字的にも何か大きなことをしかける縁起のいい年だった。戦時、B29の空襲はあきれるほどに徹底していたから、都市インフラはこれみよがしに破壊されたが、戦前の最盛期であった昭和十三年のレベルへの復帰はは予想外に早く昭和三十年代には戦禍の跡は消滅したといっても差し支えない。今から振り返っても、日本社会の根源的底力には驚嘆するものがある。
(3)
その復活の三十年代の最後の年の昭和三十九年を、政府も民間もこぞって、次の時代をめざす都市インフラの再整備の起爆剤として利用したのである。
道路、鉄道、航空、ビル建設など、業界が手ぐすね引いて待っている「建設ラッシュ」が政官民を挙げてのプロジェクトとして次々と実現されていった。裏ではさぞかし、違法な札束が舞ったことであろう。(笑)
開会式のわずか九日前の十月一日。東海道新幹線が開業した。一カ月前には羽田空港と浜松町駅を結ぶ東京モノレールが開業。これはオリンピック対策として作られた。前年には首都高速一号線が開通。今から半世紀も前のことである。戦禍からの復興ではなく、復興した日本を、さらに未来へと続く積極的なもので、全国の都市は、前向きのエネルギーに満ちていたし、人々の心の内も、楽天的で明るい未来像でいっぱいであった。全国の各家庭には陸続とカラーテレビが運び込まれた。
(4)
冷静にみるならば、東京オリンピックから早や五十年以上の時がながれた現代日本の都市の光景とくらべたら、あの当時の大都市など、ずいぶん規模が小さく思える。第一、東京タワーは既にあったが、都市景観の象徴である超高層はまだひとつもなかった。超高層ビル第一号の霞が関ビルの竣工はオリンピックの四年後のことで、その時になっても林立する超高層ビルという都市景観はなかった。
全国に張りめぐらされた高速道路網も、新幹線網もなく、一般道はモータリゼーションの発展の時代にそぐわないほどお粗末だった。もちろん「道の駅」もなかった。
東京の地下鉄は銀座線と丸ノ内線だけだったと知って多くの方々は驚かれるであろう。
羽田空港は考えられないほど手狭の時代で、モノレールも京浜急行も空港ビルへの乗り入れはしていなかった。空港周辺は臭気漂うバラックの立ち並ぶ小汚い貧民窟であった。飛び交う飛行機の主役はプロペラ機であった。
(5)
東京は、そして日本は、オリンピックの後、70年代、80年代、90年代等、気の遠くなるような数多くの発展段階を経て、ようやく二十一世紀の現代へと至った。70年代には、御存じのように、ニクソンショックを経て戦後の円ドル交換の固定レート(360円)が崩壊し、変動相場制へと移行する。円高がどんどん進んだため、輸入品の値段がさがり、海外旅行、海外留学が飛躍的に増えていく。
あのオリンピックの時代には、大半の日本人は海で囲まれた列島の中だけで一生を送っていたと言えば、多くの方々は驚かれるであろう。全国に張りめぐらされたスーパーやコンビニもなかったと言えばまたまだ驚かれるであろう。時代が全く違うのである。
今の若い世代にとっては、オリンピックは、五十年も前のことで、想像力で補えるような近場の過去ではない。誰だって祖父母が子供だった頃のことなんて、アルバムや書物の中に閉じ込められた世界なのである。我々の世代が十九世紀末から二十世紀初頭を、目を細めてみるような歴史の向こうの遠い世界と思うのと同じである。中里先生と共に、私自身も早や年老いてしまったのである。人恋しさのつのる老境。
シナモン twitter:https://twitter.com/yamkam1020
未貴さんのお句はいつも格調が高く、新規な表現を工夫していらっしゃるので感心いたします。
未貴さんは句会では大人しいので、nifty-seave の時代から参加しておいでなのを知らないメンバーも多いことでしょう。
拙ブログのほうも、よろしくお願い申しあげます。
こんにちは。毎日たのしみに読ませていただいております。
今日の俳句の一文字が抜けているようです。
「み仏は暗きにおはす寺の秋 中ちゃん 」
私もいただいたように記憶する秀句です。
これからもお身体を大事に、長く書き続けてくださいね。