むかし私は俳句についてコウモリみたいなところがあって、伝統俳句派(ホトトギス派)のアンチである現代俳句派の句会にも出ていた。いろいろ学ぼうと思っていたからである。もう20年以上前の話だ。
そこの主宰 H氏に褒められたのは次の2句だけである。現代俳句派であっても H氏は虚子が好きだ。流派を問わず虚子を否定する俳人はいない。
彼に褒められた私の俳句は2句である。
炎昼や古き市場の暗き奥
命踏むごとく空蝉踏みにけり
H氏が主張する「俳句は副詞から腐っていく」という教えは、なるほどと思う。歳時記に収録されている俳句で副詞を使用した句はほとんどない。(「俳句と副詞」2007-01-16参照。)
実は H氏は形容詞も使用してはいけないという。「白き」、「白い」もダメ。できれば名詞だけで句作せよという。つまり動詞もなるべく使用不可というわけだ。(「俳句は事物を提示するだけの文芸である!」2015-07-28参照。)
言われてみればそのとおりである。万太郎の「湯豆腐や命のはてのうすあかり」なんて、副詞形容詞はおろか動詞も使用していない。
(湯豆腐。「足成」より引用。工藤隆藏氏撮影)。
そのような目で歳時記を見ると、ほんとうに副詞がないことに驚く。確かに形容詞も少ない。よい句は名詞とわずかな動詞だけでできている。
その点、私の「炎昼や」の句は「古き」、「暗き」と2つも形容詞が出てくる。無理に形容詞をはずすと・・
炎昼や闇へと続く古市場
とでもなろうか?うん、これも悪くない。副詞もないし・・。「炎昼や闇へ導く古市場」でもよいかもしれない。
もう一点、 H氏は「ごとく俳句はいけません」と常々言っていた。しかし、私の「命踏むごとく空蝉踏みにけり」は例外的だ。こういう「ごとく俳句」はよいですと。
以上のような次第で、私は副詞だけは使用しないようにしている。教えられたからではなく、ほんとうに「俳句は副詞から腐っていく」と納得したからである。
参考:「俳句の師の教え」2015-05-25
※私の俳句(秋)
病身の浴ぶる喜び虫しぐれ
そこの主宰 H氏に褒められたのは次の2句だけである。現代俳句派であっても H氏は虚子が好きだ。流派を問わず虚子を否定する俳人はいない。
彼に褒められた私の俳句は2句である。
炎昼や古き市場の暗き奥
命踏むごとく空蝉踏みにけり
H氏が主張する「俳句は副詞から腐っていく」という教えは、なるほどと思う。歳時記に収録されている俳句で副詞を使用した句はほとんどない。(「俳句と副詞」2007-01-16参照。)
実は H氏は形容詞も使用してはいけないという。「白き」、「白い」もダメ。できれば名詞だけで句作せよという。つまり動詞もなるべく使用不可というわけだ。(「俳句は事物を提示するだけの文芸である!」2015-07-28参照。)
言われてみればそのとおりである。万太郎の「湯豆腐や命のはてのうすあかり」なんて、副詞形容詞はおろか動詞も使用していない。
(湯豆腐。「足成」より引用。工藤隆藏氏撮影)。
そのような目で歳時記を見ると、ほんとうに副詞がないことに驚く。確かに形容詞も少ない。よい句は名詞とわずかな動詞だけでできている。
その点、私の「炎昼や」の句は「古き」、「暗き」と2つも形容詞が出てくる。無理に形容詞をはずすと・・
炎昼や闇へと続く古市場
とでもなろうか?うん、これも悪くない。副詞もないし・・。「炎昼や闇へ導く古市場」でもよいかもしれない。
もう一点、 H氏は「ごとく俳句はいけません」と常々言っていた。しかし、私の「命踏むごとく空蝉踏みにけり」は例外的だ。こういう「ごとく俳句」はよいですと。
以上のような次第で、私は副詞だけは使用しないようにしている。教えられたからではなく、ほんとうに「俳句は副詞から腐っていく」と納得したからである。
参考:「俳句の師の教え」2015-05-25
※私の俳句(秋)
病身の浴ぶる喜び虫しぐれ