志情(しなさき)の海へ

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和辻哲郎賞受賞の『芸者論』神々に扮することを忘れた日本人 by 岩下尚史が面白い!

2012-10-16 21:49:33 | 博士論文資料集

                                (芸者の美しい立ち姿、日本の美!)

遊郭の芸能か芸能の遊郭か?どっちだ?と指摘されてまだ深くことばで織り込めない日々、もう寄り道できない状況でまだ流動していてもと思いつつ、夏休みに取り寄せていた本を紐解いた。面白い。芸と性と社会の諸相、とりわけジュリ(尾類)と芸者の類似と違いについて以前韓国で開催された学会で発表したテーマが甦ってくる。芸者の題で外国人研究者は興味をもっていた。今も昔も人はセクシュアリティーに惹きつけられる。人間の性といえば性かもしれない。女が男と同じ人間として参政権を得たのはつい67年前の日本である。100年前までの女は人間(男)以下の存在でしかなかった。それが自立した人間としての存在はどこにあったのか?それでも王朝時代に紫式部がいて清少納言がいた。文字を早くから習得した優れた女たちは物語を紡いだのである。制度上の差別は満ち満ちていた歴史の痕跡の中で女が女として輝いていたのは妻であり母としての慈しみの役割が大きかったのかもしれない。

中国でも纏足が推奨されたのは中上層階層で、働かなければ食えない田舎では女たちの纏足の拘束は軽かったのよ、とお昼時に語ったのは友人のクリスチャンの彼女だった。なるほど、そうするとまさにセクシュアリティーの対象と産む母性が尊ばれてきた歴史の長さにため息がでる。やれやれ、王朝の後宮の雅を吉原に求めた初期のその遊郭の佇まいが、神として巫女と出会う儀礼儀式のよう花魁との性の陶酔を求めた大名仁の心意気が偲ばれる。

明治以降の公娼制度の貸座敷制度の形態など明治政府の中に包摂されていった琉球・沖縄の制度・形態にも反映されていて、比較してみるのは興味深い。貧しかった沖縄の近代の帳である。那覇の町に3000人とも称されるジュリたちがいたのである。妓楼は中国、大和、沖縄風の名称をそれぞれもち、琉球王府時代からの名残を秘めてあった。その界隈に建った芝居小屋である。

それにしてもジュリ=芸者ではなかった。ジュリ=芸者の要因がなかったわけではなかった。芸者とは芸を売ることが第一義である。そのために芸妓の鑑札を公に金を支払って手にしたのである。芸妓の数はしかし多くはなかったのである。那覇の街ではー。芸とは何?花柳界の芸とセクシュアリティーはそこにある。負ではなく秘められた豊穣さが現在にもたらしているもの、それを表に出そう。

文庫版


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