(東間屋からの眺め、白い幹!)
深夜のつぶやき→朝もう5時前!
舞台を見ると、演出がないのだと分ります。全体の統一や美ですね。組踊も白塗りが目立ちますね。これでいいのですか?国宝や国の保持者や県の保持者のみなさま?顧問の方々はどんなアドバイスをされているのでしょうか?
権威主義で芸が軽くなっていくのは皮肉ですね。←情けないところがちらほら浮上していますね。島チャビの沖縄です。
第三者の知恵で伝統や習俗や欺瞞・腐敗が改善されていくのは、例えばカトリックの権威主義の中の腐敗へのジャーナリストの追及もそうでした。日本のシステムへの強力な批評や論理化は、海外からの眼差しで切開されるかもしれませんね。制度へのメスが内部だけでは浄化されない普遍性があるようです。相対的に総体的に見据える眼差しなんですね。360度の中の貴方や私ですね。
相乗効果、視点の照り返し、内部を見据えること、世界の中の位置、国内の位置づけ、視点をどこに於くかなんでしょうか?強者の立場、弱者の立場、あなたはどこに立っているの?組織の中のピラミッドの腐敗はどこでも起こりえます。浄化する、正していく柔軟さ、ぎちぎちした密告もありますね。組織の中の排外主義・暴力もあります。義務的に従って働く労働者もいます。多様性の中の貴方や私、ニューリベラリズムの弊害、隙間の存在の光もある。組織力学に襲われない真実の灯りもある。さてー!
多良間の豊年際の衣装は派手、全く地味じゃないとおもいます。確かに、すり足では躍っていないようですが。
「それを一実演家がどれだけ理解してるかです!」戦後生まれの30歳そこそこの実演家たちが理解できるはずがありませんね。
明治後、雑踊り創作の時期において、もしや、一般大衆受けするように古典舞踊の型も多少なり変化してしまったのかな?
現在踊られている古典舞踊は琉球王府時代の姿ではなく伝承でもなく、戦後流派の師匠さんたちにより型が変えられ、王府時代の型が継承されている流派は一握りであり、さらには、戦後のコンテスト用に型が変わっていきました、ということですね。
「ひるまさ、変わたる、くぬうちなー、世の中かわりば、芸んかわてぃいちゅる」ですね。
変ってしまったのは己の責任でしょうか?相手側の精神に合わせてきた結果の型でしかないわけですね。
沖縄舞踊にとっての流派って、一体何?
衣装もあの当時は派手だったと思いますが今現代では地味に分類されます!
今が逆に派手で着付けもコンクールが始まり綺麗に統一されてきたのです!
それは踊りもそうです!昔は人それぞれ古典以外の踊りにも個性もありました!今は逆に型が統一されてきてるんです!
もちろん踊奉行の方々は化粧などしません!
村の豊年祭などご覧なられた事はありますか?それが昔に近い現状です!
それを一実演家がどれだけ理解してるかです!
沖縄はいろんな国々との貿易で栄えた琉球国です!
その国々の影響を受けて独自の芸能が生まれたのです!
より、歌舞伎化粧の歴史背景について一部ご紹介いたします。
歌舞伎における化粧の役割を大きくしたと考えられる創始期とその次期の元禄歌舞伎の境界として、延宝八年(1673)における初代市川団十郎の「荒事」があげられるが、ここでおこなわれた紅と墨での化粧が「隈取」の起源といわれている。「型」による歌舞伎化粧の伝承は「型」に支えられた身体伝承により今日まで伝えられたことから「型」の藝術といわれる歌舞伎の伝承は、兄弟子から指導や口伝えによっておこなわれており、このとき形式と、その役者の精神性である「わざ」を含んだ「型」による概念を用いる。」
追伸:勿論、隈取の下地は白塗りでしたね。琉球王府が薩摩置県になった1600年初期ごろから薩摩江戸上りをしいられていた時期において既に本土では白塗りや隈取が確立されていたわけですね。当然、琉球の踊奉行たちは隈取や白塗りを事実上観賞できていたはずですね。そして大和で化粧品を手にいれることが可能だったはずですね。その後玉城朝薫は歌舞伎からヒントを得ながら朝薫五番の組踊りを創作したのです。当然、歌舞伎化粧もそれなりに真似ていたことでしょう。さもなければ、地味なる化粧でもって、隈取もなく朝薫五番の一作品である執心鐘入りの蛇女を演じることは極めて説得力にかけてしまいますし演出上総合芸術として成立しえないと感じます。
では(あ)さんの説明によれば、隈取の舞台化粧も明治以降発展したということでしょうか?どうかんがえても、つじつまが合いませんね。
こちらでは、明治時代に発展した雑踊りではなく、あくまでも古典芸能についてのみの「型」の伝承として討論とさせて頂いています。ご了承下さい。
戦前は化粧や衣装も地味だったということですが、地味な形で琉球王府が中国接待を行っていたということなんですか。
江戸上り下りの際には薩摩や江戸将軍たちの前で化粧もせず地味な格好でお披露目していたわけですか。
(あ)さんの情報が事実であるならば、現代の実演家(講師)たちにより披露されてるデモやレクチャーなど、「これらの形は、現代風にアレンジされたものであり琉球王府時代は、もっと地味で衣装も化粧も地味なるものでした」と、無知なる一般人にしっかりと歴史背景を伝達するべきなのでは。
いわゆる琉球伝統芸能は、現代人により創作されモダン化された伝統芸能だと主張するほうが、見る側にとって納得しやすいかと思います。
現代風にアレンジされた形を世界中で披露しながら、琉球、琉球と名乗り主張することは、いかがなものでしょう。
他の投稿欄で討論がされている型の継承についても、いったいどの形が昔のオリジナルなのかわかったもんじゃないです。
県立芸大で指導されている化粧や型は、戦後確立された創作ものであり、伝統総合芸術としては浅い歴史を学ばされているってことですね。
すべてが確立されていないチャンプルーですね。これからも、沖縄芸能はチャンプルーまっしぐらですね。
伝統の技継承課題が山積する沖縄ですね。
ある衣装屋の高齢の売り子さんからの発言です。「現在、沖縄県には、舞台小道具をしっかりと作れる職人が減ってきています。小道具作りでは、商売にならないからねえ、買う人も少ないからねえ、日傘踊りの日傘も中国製なんですよ、たかでーらまんざいの傘も作れる人がすくないから、注文してから一ヶ月かかりますよ」。
あなたがおしゃってるのは戦後で私は戦前の話をしているのです!
戦後はもちろん紅型もほとんど焼け焦げ、和装柄の生地を使い役者さんは衣装を作り上げました!もちろん小道具も皆さん役者さん手作りです!
戦前は今のような派手やかさはありません!
大和ぬ世になってから芸能も庶民に受けいられるようにと色々工夫をなしてきたんです!
それは今まで琉球政府の仕事としてきた芸能が、庶民への娯楽の楽しみと生まれ変わったからです!
「地味な衣装にもどすべきです」とは、一体どのような衣装なのでしょうか。
戦後(昭和)に母が躍っていた松竹梅の役柄は白黒写真ですが、現代の梅の花傘に比べてみると、より派手なデザインで、豪華で、全く地味だとは思いません。どちらかというと、紅型柄も現代の柄より派手です。
伝統芸能は形を継承するのであって化粧を継承するのではありません。沖縄は唐の影響が強いです。衣装もメイクも・・・・
メイクをするようになったのも戦前からです。
琉球舞踊とは型を継承するのが基本であってメイクが継承ではありません!
歌舞伎の先生方や大衆演劇の方が言うとおり、沖縄は50年前の化粧をされておりますとおしゃっておりました!
時代によってメイクは変わります!
それは今も昔も
時代は進化しつづけるなかまた元に戻りまた生まれ変わるんです!
それが時代の流れです(※ゆいまーる)
型を守るのは大事な事だと分かってます。
化粧も伝統と言うならば戦前のように役柄関係なくナチュラルメイクに地味な衣装に戻すべきです。
あと着付けも昔にもどすべきです。
あきさみよーなー、凄い発言がでちゃっていますね。
中国の昆劇化粧や歌舞伎化粧にしても、お化粧は統一されていますよ。
「あんしぇーよー、(あ)さん、
くりからん、大和風んかいなてぃいちゃびーぐとう、色ぬ白させー、白かーぎー(ちゅらかーぎー)ぬしるしさみんでぃち、まっしーらーぬちら(顔)る、ましやさ。村のあんぐあーたーん、しら(白)かーぎーや、ましやさ」(笑)
沖縄らしさは、どんどんなくなりますね。そして、自らのアイデンティテーからの逃避です。
nasakiさんが言う統一とはそういう意味ではないと思いますが。
伝統芸能も常に進化していくものでしょう。が、確実に中国昆劇はそのままの化粧を継承し伝承していますよね。
もし、沖縄の伝統舞踊や芝居の化粧がどうでもよいとなれば、それは伝統とは言えないです。
ロボットじゃあるまいし!
化粧は伝統と全く関係ないですよ!
統一しないといけない意味が分かりません!
確かに型は群舞の場合統一しないといけないと思いますが
失礼ですが沖縄の芸能の見方間違ってません?(^_^)
評価するにはもう少し視野を広げて沢山研究して色んな人の話や資料、また沢山の舞台を見られたら方が宜しいかと(>_<;)
ちなみに琉球王国時代には化粧などは行っておりません。
カマジー芝居が始まり、各劇団の役者さんの役柄によって今以上に色の無いかなりな白塗りから地塗りなど・・・写真が白黒が多いため中々知られてない現状があります。
もちろんメイクも白黒時代の昔はかなり大きく描いておりました。
それからテレビが普及されメイクも小さくなり、ナチュラルメイクになってきました。
伝統芸能は・・・歌舞伎
沖縄芝居は・・・大衆演劇です。
なのでメイクは時代によって変わってきます!それは歌舞伎も大衆演劇もすべて一緒です。
百姓だから地塗り
侍だから白塗りという決まりはありません。また衣装も派手にしたり地味にしたりするのも
これは見る側に分かりやすくするために座長さんが考えた事です。
実際の琉球人は舞台と現実は全く違います。
なので最近のメイクがおかしいなんて私達からは言えません。
これは見る側の感性です。
決まりはありません。
芝居での侍役は、昔はかなり厚化粧でしたが今は薄い方だし色がある方です。
舞踊は、昔はナチュラルに近い化粧でしたが今は厚化粧です。
「村の娘に真っ赤な口紅とか違和感が起こりますね。」
同感しています。
ちなみに日本のTVドラマなど見ていると、病院のベットで横になっている患者が口紅をつけ厚化粧していたり、リアリティー性に欠けてしまいますね。
役柄のお化粧を一人ずつ忠実に行うことは、確かに演出家の仕事なのかもしれませんね、が、お化粧は役者さん任せで、同じ演目を演じる場合でも個人個人の顔色が違っていたりバラつきがあるようです。
それと、舞台俳優さんで、全ての役柄で同じ化粧方法で演じている方もいるようですね。それもまたリアリティー性が欠けてしまいますね。
白塗りに関しては、どうも大和風に傾いてきたように感じます。
具体的に写真で比較検証したいですね。ただどの流派の舞台でもお化粧を家元や会主、あるいは演出家が全体のイメージを把握しているのか、気になりますね。舞踊家の化粧にもばらつきが見られます。
組踊は若衆などの白塗りが目立ちますね。最近はー。化粧の歴史的な考察をどなたが研究しているのでしょうか?戦前、王府時代、戦後の変遷、推移が正確に知りたいですね。
冠船芸能も、原型はお化粧はあったでしょうか?近代のお化粧は?芝居役者の戦後の物のない時代の話はよく出てきますよね。
まず、戦後の変わり用が凄いのではないでしょうか。村の娘に真っ赤な口紅とか
違和感が起こりますね。「まぁーいいか」でいいでしょうか。
王府時代からの結髪や舞台衣装に関しては博士論文が一部登場ですね。お能などと比較していますね。次は化粧の比較研究がまとめられたらいいですね。
琉球舞踊だけに絞ってもいいかと思います。
舞台化粧は流派によりバラバラ、そして役柄にり肌の色が違ってみたり色々だと思うのですが。