日暮らし通信


その日暮らしの生活でも、感謝しています

日頃、見た事・聞いた事・感じた事・そして言いたい事などを発信します

スズメを見なくなりました?

2022年05月30日 16時42分55秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






ある方のブログを見ていたら 「鳥が少なくなった」 と、いわば嘆きのような投稿があった。

その通り、私も東京の外れであるこの辺りでも鳥の数が減ったと感じている。

その例がスズメ、毎日歩いていてもスズメを全く見ない日もある。見ても二、三羽だから寂しい限りだ。

かつては大群で飛び交い、畑地に蒔いた種などを啄むスズメたちは農家の人からは害鳥扱いされていたが、今はその姿を見ることも無くなってしまった。

何故か? いろいろと原因があるようだが、スズメの住み家に適さない民家が増えたこともあるだろう。

聞いた話しによると屋根が日本瓦の家は隙間があってスズメの巣作りには適していたが、今どきの家は屋根の造りが変ってその隙間が無いのでスズメたちも住宅難になってしまったとの説もある。

それと住宅化が進んで樹木の数が減った事も大きな要因だろう。樹木には必ず餌となる虫がいるので、鳥たちにとって樹木の存在は重要な生活条件のはずだ。

今日の散歩でもスズメは見ていない。キジバトを二羽見ただけ。

スズメなどを撮るのを楽しみにしているが、写真のスズメを撮った後はシャッターチャンスに恵まれていない。

昔は自然豊かだったが、今のように自然の風景も変り、鳥たちの数も減るとは夢にも思っていませんでした。







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      写真説明:  やっとスズメを撮れました

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2020.7.3)








入間基地ランウェイウォーク

2022年05月27日 17時04分20秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






私は家庭の事情で自由時間を持てないので外出することは制限されているが、最近、どうしても参加したいイベントがあった。

それは6月18日 (土曜日) に航空自衛隊入間基地で行なわれる 「第13回・ランウェイウォーク」 だった。

ランウェイとは滑走路のことだから、滑走路を歩くのがこのイベントだった。

航空ファン端くれの私なので、ぜひ滑走路を歩きながら飛行機が離着陸する姿を想像したかった。

だが今はコロナ騒動の影響もあり、参加者は1000人とのことだから、これは狭き門だと思ったが、まずはネットで応募してみた。

でも私は今までにたくさんのプレゼント応募などに挑戦したが、当ったことは全く無し、私にはくじ運の神様は存在していないようだ。

このようなイベントに興味のある次女夫婦も応募したらしい。

そしてその結果がメールで届いた。思った通り落選、私の滑走路歩きの夢は消えた。

そのメールによると3723組、9173名の応募があったそうだが、当選した方々が羨ましくなった。

次女夫婦も 「駄目だった」 との LINE あり。

写真は 「入間基地航空ショー (2017.11.3)」 で撮った航空自衛隊 の YS-11 と C1 輸送機です。

入間基地の滑走路を歩くことを楽しみにしていたのですが、残念、また来年挑戦します。







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YS-11 多用途機




C1 輸送機



      写真説明:  YS-11 と C1 輸送機

      撮影場所:  航空自衛隊入間基地にて (2017.11.3)







桑の実を食べませんでしたか?

2022年05月27日 16時35分44秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






毎日同じようなコースを散歩しているが、時には珍しい物を発見することもある。

その発見の一つが桑の実だったが、私がこの実を見て想い出すのは遠い昔の少年時代のことだった。

戦後のあの食料難の時代、子供たちは甘い物に飢えていたが、駄菓子などを買う余裕のない子供たちのお目当ては自然の果物だった。

柿などは格好の食べ物だったが、今は収穫しないが当時は貴重品だったから手に入れるのも無断で頂く冒険だらけ、時にはおじさんに捕まってお説教を受けるのは常のことだった。

それと山栗も生で食べると美味しいことも知ったが、それらの果物の一つが桑の実だった。

その頃は養蚕を職業とする農家も多かったから桑の木は何処でもたくさん見ることができた。

桑の実は熟して赤黒くなると食べ頃で一応の甘さもあったから、子供たちの良き友達だった。

口の周りを赤黑くしながら無心に食べた、そんな時代もあったのです。

今は何でも手に入る時代だから、桑の実などは誰も眼中に無いだろうが、私は桑の実を見ると戦後の食の苦しかった時代を想い出す。

ネット検索すると、桑の実の糖度は 9.3 ~ 15.6 と、品種によってさまざまだが、糖度が高いものはブルーベリーより甘さを感じるほどで、生食でもおいしく食べられるとのことです。

昨年、桑の実を収穫している男性に聞いたら、ジャムにするそうです。”美味しいジャムが出来る” と、自慢していました。どのような味がするジャムなんでしょうか?

この写真の桑の実はまだ赤いので熟していないが、もし熟したら、一つ頂いて食べてみようと思っています。







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      写真説明:  桑の実

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2022.5.24)







この電車の型式は?

2022年05月26日 07時42分28秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






今日の散歩はコースを変えてみたが、途中西武池袋線の踏切を通った。

そうだ、電車でも撮るかと、踏切の端でカメラを構えた。

あまり待つでもなく、電車が来るらしいが踏切の施設には矢印があるので上りか、下りかをすぐに判る。

そして電車が来る間隔は意外と短いから、通過してもすぐに次ぎの電車が通過する。

やがて写真のような電車が通過した。しかし、私のイメージには無い西武電車だった。

私は永年この沿線に住んでいるが、西武線と言えば 「黄色い電車」 との先入観があるのでこのような電車を見てもあまりピンとこないのだ。

まだ黄色い電車もあるが、今は他の鉄道会社も相互に乗り入れているので、いろいろな型の電車を見ることがある。

かつてこの線の行き先は上りは池袋駅、下りは飯能駅行きが当たり前だったが、今は他社との乗り入れで上りは新木場行きとか横浜中華街行きとかがあり、私には全く理解できない鉄道網になっている。

電車ファンならすぐにこの写真の電車型式が判るだろうが、飛行機ファンの私にとっては全く電車の型式などは判らない。

ところでそんな事情だから、私が都内へ行く時はキップを買うのに一苦労、すぐに駅名が浮かんでこない。

今はどの駅でも自動改札になっているが、昔のように固い紙質のキップに鋏を入れて改札することが懐かしくなった。

それにしてもいろいろな型の電車があるものだ、と、カメラを構えながら移り変った時代の変化を実感した。








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      写真説明:  電車を撮る

      撮影場所:  西武池袋線の踏切にて  (2022.5.25)







F4ファントム戦闘機

2022年05月25日 17時05分40秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






ランディング後、誘導路をタキシング中のF4ファントム戦闘機。

座席はタンデム式で乗員二名、J79 エンジンを二基搭載。

米軍のパイロットは愛嬌者で、私が手を振ると答えてくれました。





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      写真説明:  1966年以降、会社構内から米軍横田基地を撮影







飛行機撮りが趣味になりました

2022年05月15日 11時24分39秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






今までにいろいろな趣味に熱中したが、私は 「熱しやすく冷めやすい」 の欠点持ちなので長続きしない趣味も多くあった。

だが、若い頃から続いているのは 「カメラで写真を撮る」 趣味で今でも熱中している。

それは若い頃から飛行機が好きだったので、それを撮ることが原点だった。

1966年4月、私は米軍横田基地近くの工場へ転勤になったが、この転勤は飛行機好きな私にとっては格好のシャッターチャンスを貰ったようなものだった。

当時、私が持っていたのは Asahi Pentax SV の一眼レフとコムラーの 300mm 望遠レンズだったが、それでも当時としては優れものだった。

フィルムは白黒で市販されているのは ASA 100 だから、高感度のフィルムが欲しくて ASA 400 の TRIX フィルムを切り売りで買って使っていた。

当時はベトナム戦争が真っ最中だから、横田基地へ飛来する飛行機は実に他機種に渡っていたので私のカメラも忙しかった。

当時は基地内は撮影禁止だったから、空中の飛行機を撮るのが常だったが、後には基地内撮影可能になった。

1966年当時、会社の勤務は16時までだったから、終るとすぐに横田基地北側へ行った。

そこで離陸する、着陸する飛行機を撮りまくっていた。そんな時代もあった。

横田基地で最も印象があったのがF4ファントム戦闘機だった。

時には横田基地には2戦闘機隊 (24機) が常駐していたので、一度に23機のF4を見たこともあった。

日本の航空自衛隊もF4を採用、1960年代の後半、私は民間会社でそのエンジン J79-IHI-17 を毎日のようにテストしていた。

その年代、横田基地に飛来する飛行機をたくさん撮った。その一部をこのブログで時々紹介したいと考えています。

今日の写真は横田基地上空を編隊でローパスするF4戦闘機 (撮影: 1966 年後半) です。

ただし、古いネガをCD化したので鮮明度が落ちていたり、キズありですのでご容赦ください。







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      写真説明:  横田基地上空を編隊でローパスするF4戦闘機

      撮影場所:  工場構内にて  (1966 年以降)







名知らずの鳥

2022年05月13日 14時21分29秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






最近、私の住んでいる辺りでは鳥の数が減ったので、鳥を撮ることが難しい環境になってしまった。

だが時には名も知らない鳥を見ることがある。

鳥の名をあまり知らない私なので、写真を撮っても名が判らないと興味も薄れてしまう。

ネットで調べてもさっぱり判らないが、パソコンで拡大して見ると、どの鳥も愛らしい顔をしていることに気付く。

特にどの鳥の目も可愛らしい。

それとその鳥特有の羽の色が様々に綺麗なことだ。

この三枚の写真、名が判らないが何とも可愛らしい姿だ。
しかし、その後、この写真の鳥を見ていない。

だが私が撮りたいのは飛行中の鳥の姿だが、こればっかりは私のカメラ術では撮れそうもない。

名を知らなくてもいいから、私の散歩道に鳥たちが飛んで来ることを願っている。

鳥を撮るのは難しいが、それなりに撮り甲斐のある楽しい時でもある。








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      写真説明:  名知らずの鳥

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2021.1.21)







頑張れ~ 大谷翔平選手

2022年05月12日 14時29分26秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

咲き始めた紫陽花

空堀川沿いにて
(2022.5.11)



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9日、本拠地でのレイズ戦に3番指名打者で出場したエンゼルスの大谷翔平選手は七回に2打席連続の6号満塁本塁打を放った。

 ”天晴れ、大谷選手” と叫びたいほどだったが、ただただ ”凄い~” と感嘆するばかりだ。

今はテレビで大リーグの熱戦を見ることが出来るので私はできる限りエンゼルス戦を見て大谷選手の活躍を見守っている。

そんな私の好き勝手にMも文句を言わずにテレビで熱戦を共に見ている。

そのお陰で 「イチロー選手の背番号は何番?」 と聞くと 「51番」 と答えるが、要介護のMが知らずにイチロー選手の背番号を覚えたのは私にとっては嬉しいことだった。

そのイチロー選手も引退、次ぎのお目当ては大谷選手だが、先日Mに 「翔平さんの背番号は何番?」 と聞いたら 「17番」 と、答えたのでびっくりした。

一部の記憶を失ったMだが、このように翔平さんの背番号を覚えた脳細胞はまだ活きていると、私は感動した。

そして最近は見ることもないイチロー選手の背番号も 「51番」 とはっきり言えるから私の安心度も高まっている。

これからも翔平さんの活躍を期待するが、私が願うのは唯一つ 「怪我をしないこと」 だ。怪我さえしなければ翔平さんは今シーズンも大きな活躍をすることは間違いない。

翔平さんの背番号を覚えたMと共に、これからも二刀流の翔平さんを応援することを楽しみにしています。

今日の写真は散歩中に見た咲き始めた紫陽花です。







今日は何日?

2022年05月11日 14時10分21秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






散歩している途中のことだった。

対面で私の方に向って歩いていた高齢なご婦人が、突然近寄ってきて 「今日は何日でしょうか?」 と聞かれた。

一瞬私も戸惑って言葉がすぐに出なかったが 「今日は5月10日です」 と、答えた。

長身なご婦人だからさぞかし美人だろうと思ったが、この頃は何方もマスク着用だから素顔を見ることはできない。

そのご婦人は 「ありがとう」 も 「すみません」 の言葉もなく無言で遠ざかって行った。

散歩中、このような質問を年に二、三回受ける。それも決まって女性からだ。

見知らぬ人だからどのような状態で私に質問したのかは判らないが、他人に物を尋ねるのもそれだけの事情があってのことだろう。

もしかしたらそのご婦人は認知症の範疇かも知れないが、そんな行為に接すると人間の儚さのような挫折感を感じてしまう。

でも独りで散歩しているから認知症ではないだろうが、無事に家に帰るようにと遠ざかるそのご婦人の姿をいつまでも見届けていた。

私もいろいろと度忘れをするが、他人に尋ねるほどでもないのでまだ認知症ではないとの自信がある。

私が認知症になったら妻の介護はどうなる? なんて、時々自問自答しています。








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ゼニアオイは、アオイ科ゼニアオイ属の多年草




大変丈夫で寒さに強い植物であり、草丈は60-150cmほど




日本には江戸時代に鑑賞目的で渡来した




初夏から夏にかけて赤紫色の花を咲かせる



      写真説明:  ゼニアオイ

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2022.5.10)







高齢者の交通事故に思う

2022年05月09日 09時55分47秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






先日、ネットでニュースを見ていたらある精神科医の先生が高齢者の運転に関する興味ある話しを述べていた。

それは高齢者で運転している人と運転しない人を比べると、認知症になるリスクが4割減るとのこと。

また運転を中止した人と継続して運転している高齢者を比較すると、要介護になる危険性が8倍に上昇すると述べている。

両話を私が勝手に纏めるとと、運転している高齢者は認知症になりにくく、要介護にもなりにくいと解釈したが、私にすれば全く有り難い話しだった。

今、世の中では事故が起ると 「また、運転していたのは高齢者か?」 と、高齢者を目の仇にするように見られているが、正常に無事故無違反で大人しく運転している多くの高齢者にとってはありがた迷惑そのものだ。

そのお陰で高齢者の運転免許証返納を奨めることも理解できないことではないが、地域差による車の必要性を無視した提案は論外だ。

また極論だと思うが、年齢によって免許証を停止する提案もあるが、これは大きな個人権利の侵害であり理解できない話しだ。

要するに大きな事故を起こすのは高齢者だ、との先入観を除いてから論議すべきだ。

私は令和6年1月に免許証更新でもう運転を止めることを考えていたが、前述した両話を聞いてまた更新するかを決めかねている。

妻が元気なら私はもう免許証を返納しただろうが、要介護の妻と行動するには必ず利便性の高い車が必要だから運転を続けている。

幸いなことに56年間無事故、無事故だが、一番心掛けているのは 「スピードは控え目に」 を優先していることだ。

だが自動車は凶器であることに間違いない。その扱いは高齢者だからより以上の慎重さが要求される。

そして高齢者だけに科せられている認知機能などの検査をもっと若い世代にも適用すべきだと思う。

現状の問題にフタをするのでは無く、予防という観点からすれば若い世代から適正を確認することも必要なことだろう。

また世に問う。運転事故を起こす高齢者もいるが、事故を起こさない多くの高齢者がいることも忘れないでください、と。








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      写真説明:  クレマチス 三態

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2022.5.9)







ははの日 に思う

2022年05月08日 15時58分51秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

アヤメ咲く

川沿いの民家にて
(2022.5.5)



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今日は 「母の日」、子供たちには 「Mはもう高齢で、敬老の日にも祝って貰うので何もいらないから」 と、言ったはずだが、どんなに年老いても母への感謝の念は変わらないらしい。

そして長男夫婦と次女夫婦からはお祝い品が届いた。

だが要介護のMは今日が母の日であることを判らない、私としては不憫で寂しい気持になってしまった。

元気なら街中の和食レストランで皆で食事をするのが恒例になっていたが、コロナ騒動とMの要介護がネックになってそれも出来ない。

そんな状況を嫁さんが気遣って夕食にはお寿司を用意してくれた。

Mの大好物はお寿司だから、お祝い品を貰うよりはお寿司を食べることが満足なことだろう。

Mを介護するようになってからは嫌でも主夫の役割が増えたが、そこで思ったのはMが行なっていた仕事の多さだった。
私には主夫業をこなす実力は乏しかったが、介護しながらMの労苦を改めて知ったような気がした。

父の日はいらないから 「第二母の日」 でまた祝いたいほどあの頃Mは良く働いた、と改めてMが元気な頃の姿を想い浮かべた。





街中でオナガを見た

2022年05月07日 16時28分59秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






街中を歩いている時、前方50メートルほど前の街路灯の天辺に何やら鳥が見えた。

レンズをズームアップして見ると、どうも鳥の 「オナガ」 のようだったが、街中でオナガを見るのは珍しいことだった。

私が住んでいるのは新興住宅街なので樹木が少なく鳥もあまり飛んで来ないがオナガは特に見かけない鳥だった。

オナガ (尾長) は、スズメ目カラス科オナガ属に分類される鳥。

名前の由来は、尾羽が長いことによるが、その長さは20~23センチ、頭部は黒いと思っていたが、実際は濃紺らしい。

私はいろいろな鳥を撮ったが、意外と鳥は金属製の構造物が好きらしく、このような街路灯上で鳥を見ることが時々ある。

視界良好なので外敵に対する備えも充分なのだろう。

かつては何処でもオナガを見たが、今はなかなか探しても逢えないので、私もその姿を撮ったのは始めてでした。








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      写真説明:  オナガ

      撮影場所:  街中にて  (2022.5.3)







昨年の 「こどもの日」 の想い出

2022年05月05日 13時55分22秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






今日は入院していた昨年の 「こどもの日」 のことを想い出した。

昨年、4月26日午後入院、その日の夕食から病院の食事のお世話になったが、始めて見て驚いたのは茶碗一杯の大盛りごはんだった。

家で食べる量の倍以上もある。家ではご飯を食べるのは夕食だけだが、ご飯には糖分があるので私は軽く一杯食べるようにしていたがここでは毎食ご飯付きだ。

それと副食、いわゆるおかずも三品ほどついていたが、思った通り塩加減は超薄味だった。
家では嫁さんが私たち向けにかなりの減塩料理造りに徹しているが、それよりも何ランクも下の薄い塩加減だ。

そして毎食がご飯付きなのは始めてで、家では麺類やパン食が多かったから私の胃袋は戸惑ったに違いない。

でもご飯の量が多すぎるので減量を頼み、入院三日後の朝食からは 「大盛り」 と呼ばれたご飯量が 「小もり」 と呼ばれる量に減った。

おかずとのバランスも良いようで 「食べることしか楽しみが無い」 身分だったが食に対しては文句を言わないのが私の自論、でもやはり家の料理が恋しく食べたくなった。

退院したらまず冷たいビールとお寿司を食べたいと、病人としては過ぎたる夢を持ちながら ”超塩分控え目の食生活” を経験した。

だが 「超塩分控え目」 は健康で長生きするための基本的ルールだとつくづく思った。

今日の写真は昨年病院での 「こどもの日」 の夕食のお膳をアップしました。
その膳には小さな柏餅と折り紙の兜 (かぶと) が添えられていました。

その折り紙の兜は今でも我が家のマスコットとして部屋に飾ってあります。








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夕食ご膳




添えられていた折り紙の兜



      写真説明:  「こどもの日」 の夕食ご膳

      撮影場所:  病室にて  (2021.5.5)







あれから一年

2022年05月04日 17時32分04秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

病室から南方向を望む

入院した病院にて

(2021.5.8)



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今は大型連休の真っ最中、コロナ騒動での行動制限も緩和されたようなので、外に出掛ける人も増えたことだろう。

だが私たち夫婦はいつも大型連休のようだから何処へ行く予定も無い。

ふと振り返ると私は昨年の連休は入院していたことを想い出した。

昨年の4月26日、体調不良で街の医院へ行き、すぐ胸部レントゲン検査を受けたら左胸下半分が真っ白とのことで、即医師から入院勧告、救急車で市北部にある総合病院へ向った。

即入院で私の頭は真っ白、偶然にも長男が同行していたので助かったが思いがけない出来事だった。

この病院には遠い昔に入院したこともあったが、それから36年後にまた同じ入院とは、不思議な縁でもあった。

救急車内でオキシメーターで血液中の酸素飽和度を計ると78%、医師も救命士も驚いていたようだったが、私自身はあまり自覚症状は無かった。

だが病院の担当医師はこの濃度と胸部写真、そして私の顔色などを見た時に 「この人は死ぬのではないか?」 と、思ったと後日話してくれた。

入院してからは酸素ボンベと一心同体、院内を歩く時も片時も離れない酸素ボンベだったが、5日目にやっと濃度が回復してボンベとサヨナラした。

入院後、主に点滴治療を受けたが経過も良好で一週間で退院可能だったが、連休中で事務処理ができないために入院してから13日目に退院した。

入院して一番心残りだったのは要介護の妻のことだったが、同居している長男の嫁さんが良く面倒を見てくれたので全く不都合な事は起きなかった。

コロナ騒動のお陰で病院でもそれなりの対策が実行されていたが、家族との面会は一切無く、必要な物品も看護師さん経由でやり取りする厳しさだった。

私はこの病院とは永い付き合いがある。写真は病室から南方向を眺めた光景だが、昭和30年代はこの住宅街は田んぼだったことを知っている人は少ないだろう。

この入院で新たに感じたのは健康であることへの感謝だった。

環境も大きく変貌したが、私も歳を重ねた。この入院でいろいろなことを経験したが、短期で無事に退院できたことは幸いなことだった。