日暮らし通信


その日暮らしの生活でも、感謝しています

日頃、見た事・聞いた事・感じた事・そして言いたい事などを発信します

 「電動アシスト自転車」 に乗り始めました

2021年05月28日 15時10分26秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

購入した電動アシスト自転車

取説よりスキャン
(2021.5.28)



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先日 「電動アシスト自転車」 を購入した。

買う動機となったのは入院して同室だった男性の 「電動アシスト自転車は便利ですよ」 の話しだった。

その話しによると、武蔵大和駅西側から多摩湖の堤防に行く坂道は普通の自転車では苦労したが、電動アシスト自転車ならいとも簡単に乗ったまま行けたことに驚いていた。

 「ああ、あの坂ですか?} と、私もあの坂ではまともに進むこともできずに自転車から降りて転がしながら ”ハァ~ ハァ~!!” と、息つぎしながら堤防に向ったことを想い出した。

その他、とにかく便利です、といくつかの話しも聞かせてくれたが、確かに便利なようだ。

私にとって自転車は無くてはならない交通用具、近場に行く時はもっぱら利用度が高い。

だが最近、加齢による体力の衰えは隠しがたく、私のエンジンパワーはだいぶ落ちて、ペダルを漕ぐ力も弱くなってきた。

時には向かい風にでもなれば、もっと私のエンジンパワーは落ち気味になる。

街中で自転車に乗っていても、追い抜くのは若いお母さんが乗った電動アシスト自転車ばかり、風を切るようなスピードで私を置いてきぼりにする。

そんな男性の話を聞いている内に 「私も電動アシスト自転車にしようか?」 と決めてしまった。

退院後、すぐに近くのホームセンターに行き、店頭に並んでいる何台もの 「電動アシスト自転車」 を物色、色を選んで購入した。
値段は高いが生活には欠かせない道具だから我慢することにしよう。

まず取説を何回も読んで取り扱い方法を覚えたが、いざ乗るとどうなるのだろうか?

その後、市役所へ行く用事があったので、始めて 「電動アシスト自転車」 に乗ったが、まだギアチェンジなどのタイミングが判らないぎこちない乗り方だったが、電動だからその後押しは実感できたように感じた。

だがその時、走ったのは東村山駅西口に通じる 「さくら通り」 だが、道路左側には自転車専用レーンの塗装と標識があるが、その塗装部分の上を走る度に私はショックを感じた。

薄いような塗装だが、実際には何ミリかの厚さがあるので、その上を通る度に高目にセットされているタイヤ空気圧のせいか ”ゴツン、ゴツン” と体に感じた。

あまりにもショックを感じたので専用レーンから外れて歩道を走ったが、これは私の考え過ぎだろうか?

電動アシスト自転車の保守で大切なのはバッテリーの残量管理、ハンドルには 「手元スイッチ」 と呼ぶメーターがあり、バッテリー残量表示 (%)、残走行距離表示 (分)、残走行時間表示 (Km) が確認できるので小まめにモニターするつもりだ。
また、バッテリーには 「残量表示ボタン」 があり、任意に残量を知ることができる。

でもこの電動アシスト自転車は高齢者には過ぎたる速度を与えそうで要注意だ。
そしてこのような高価な道具を与えられると子供心に戻ったような ”ルンルン気分” になりそうだから気持のブレーキも必要だろう。
真新しい自転車に乗るのは楽しいが、十分に気持を落ち着かせることができるかが私の課題だ。

同室の男性は自分の病状のことも話してくれたが、 「ステージ○」 だと言う。
この ○ の数字を聞いたらびっくりするような悪い症状らしい。
でもこの人の外観は丈夫そのもの、今はどうしているだろうか? 
元気で過ごしていることを願っています。






川沿いで咲くハルシャギク

2021年05月26日 04時29分32秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

ハルシャギク

空堀川沿いにて
(2021.5.23)



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川沿いでこの花が咲いていたが、どうしても名を思い出せない。

パソコンには 「花の名」 というフォルダを作って判った花の名を入力していたが、この花を登録するのを忘れてしまったようだ。

やっと昨日、名を思いだした。ハルシャギクだ。

ハルシャギクはキク科ハルシャギク属の一年草。空き地や道端などに生える雑草、雑草なんですね!!

和名の由来となっている 「ハルシャ (波斯) 」 はペルシャのこと。
別名はジャノメソウ (蛇目草) だが、この名の方がピッタリする花姿です。






明るくなった空堀川

2021年05月25日 04時09分23秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






23日 (日曜日) 久し振りにMとH子さんを誘って川沿いを歩いた。

その前日は終日ぐずついた天気だったが、その日は晴れ間もある穏やかな雰囲気だった。

家を出てすぐに川沿いの遊歩道に出ると妙に河道内が明るい。
よくよく見ると栗木橋と曙橋間の河道内にあった桑などの樹木が全て伐採されていた。

16日の散歩の時はまだ樹木はあったから、その後伐採されたのだろう。

これで大沼田橋と栗木橋間の河道内にある樹木が全て伐採されたので明るくなり、豪雨で水位が増しても樹木が弊害になって流れが乱れることもないだろう。

市のハザードマップによると我が家は浸水地域なので、豪雨などで空堀川の水位が上がる度にこの樹木の存在が心配だったが、これで少しは濁流の流れが直線的になるかもしれない。

でも伐採されたある桑の木の切り株を見るとかなりの年輪を重ねたことが判るが、この樹はどのようにしてそこへ根付いたのであろうか?








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右岸で曙橋を望む




曙橋上から上流を望む




左岸で上流を望む



      写真説明:  明るくなった河道内

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2021.5.23)





祝 照ノ富士関優勝

2021年05月24日 11時18分30秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ
■□ 撮影場所 □■

自宅の庭にて

(2021.5.24)


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隣家のアジサイが満開です


アジサイは不思議な(がく)持ちの花です




優勝決定戦になったけれど私の予想通りに照ノ富士が優勝、大相撲史に一つの偉業を積み重ねた。

序二段まで落ちた照ノ富士が大関に返り咲いたが、その序二段とはどのような位置づけなのなのだろうか?

大相撲における 「序二段」 とは、序の口と三段目の中間に位置する地位で、番付表では下から2番目に記載されるが、大関の位置とは途方もなく遠い下の位置になる。

序二段から大関まで、照ノ富士は良く頑張ってきたが、それを支えた回りの人たちの気遣いや応援があったからだれろう。

しかし、日本人であればこのような努力はせずに引退したであろうが、それはモンゴル人特有のDNA絡みの粘りと努力が照ノ富士を後押ししたのだろう。

私は外人力士はあまり好まないが、この照ノ富士だけは精一杯の応援をしたつもりだ。

照ノ富士は優勝インタビューで 「一生懸命頑張ってよかった」 と述べていたが、この言葉の裏には限りない頑張りの歴史が潜んでいるはずだ。

15日間の取り組みで惜しまれるのは11日目に髷を掴んで反則負けになった妙義龍戦、 「髷は掴んでいない」 と言う解説者もいたが、真意はどうなのだろうか?
あれが白星だったらもっと楽に優勝できたであろうが、それは審判の評定だから従うしかない。

照ノ富士が連続優勝したことで、俄然、横綱の地位が近付いてきた。
横綱審議委員会は 「2場所連続優勝またはそれに準ずる成績」 を横綱推薦の内規と定めているので、来場所優勝に準ずる成績を出せば横綱推薦の道は開けてくる。ぜひそのような成績を出すことを願って応援したい。

だが最近の大相撲は何か変だと私は思っている。それは太り過ぎの力士が多いこと。それなのに稽古もほどほどに済ませているようで、それが怪我の原因になっているのは明らかなことだ。

次ぎの大相撲は名古屋場所、連休続きの横綱も出てくるだろうが、果たして今の若い力士たちの相撲に勝てるだろうか? 横綱と言えど戦いの勘はそう簡単に戻るものでもない。

でも照ノ富士は凄いね、序二段から大関へ戻り、そして連続優勝、日本人力士たちの踏ん張りも期待しましょう。

燐家のアジサイが満開です。






照ノ富士の優勝なるか?

2021年05月23日 04時35分40秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

クレマチス

川沿いの民家にて
(2021.5.11)



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大相撲夏場所14日目、照ノ富士対遠藤の一戦は期待通りの大一番となった。

激しい攻防の末、両者一体となって土俵を割った。

軍配は照ノ富士へ。
だがすぐに物言いが付き、約4分にも及ぶ審判の長い協議の末、軍配差し違えで遠藤の勝ちとなった。

遠藤との投げの打ち合いでわずかに照ノ富士の右肘が早くついたとの評定だった。

でも見た目には両者一体となっての土俵割だから、取り直しをすればもっとファンを湧かせたかもしれない。

この取り組み、久し振りにファンを湧かせた熱戦となった。両者共よく頑張った攻防だった。

これで照ノ富士は余裕であった独走態勢が一転、貴景勝、遠藤の後続二人に1差に迫られて迎える千秋楽となった。

まだ照ノ富士が有利だが、昨日の戦い振りを見ると、立会いから流れが悪かったようで、遠藤の攻めが会心だったので、左でまわしを狙ったが脇を固められて果たさず、すぐにもろ差しを許してしまった。

だが私は照ノ富士が優勝すると予想する。そして横綱への道が開けてくると願い、連場所休場する横綱不在の大相撲に新たなる活気のある雰囲気が生まれそうな希望を持っている。

千秋楽は照ノ富士対貴景勝、照ノ富士の優勝なるか? それとも貴景勝、遠藤の巻き返しなるか? また熱戦を期待しましょう。

序二段からはい上がって大関に戻った不屈の精神力持つ照ノ富士。最後に底力を見せられるだろうか。



     注: 一部新聞記事を参考にしました






照ノ富士と遠藤との大一番、どちらが勝つか?

2021年05月22日 08時29分47秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

綺麗に咲いているが
名知らずの花です

空堀川沿いにて
(2021.5.11)



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大相撲夏場所も明日が千秋楽、優勝の行方は誰に?
今日、明日と見逃せない星取りの動きだ。

序二段まで下がってまた大関まで上がった照ノ富士が優勝するのか、それとも昨日貴景勝を破った遠藤が初の賜杯を抱くのか、俄然面白くなってきた。

連休を続ける横綱などもう存在価値も無い、7月場所に復帰してももうかつての力を発揮できるはずもない。
若手力士の餌食になる前に引退すべきではないだろうか?

だが将来的には横綱への期待も高かった朝乃山が欠場、それも自らの不祥事での行動による謹慎、大関たるに相応しくない態度は大相撲ファンを侮ることになった。

今、誰もがコロナ禍の影響で我慢しながら自らの行動を抑えているのに、大関の立場にありながら不要不急の夜遊びをするなんて許しがたい。

思えばそのような自己中心的な態度が相撲の取り口にも影響しているから、黒星が四つもあるのがそれを現わしている。

今後、厳しい処分が下されるであろうが、軽い処置では納得しないファンも多いことだろうから、引退勧告もありえるだろう。

今日の土俵は照ノ富士と遠藤との大一番あり、どちらに軍配が上がるのか? 楽しみにテレビ観戦するつもりです。






予約しました

2021年05月21日 08時40分58秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

クレマチス

川沿いの民家にて
(2021.5.11)



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コロナ禍絡みの肺炎でなくて安堵したが、今も全国的にその感染するスピードがあまり落ちていないことに一層の不安が増してくる。

ブログへの投稿文から一年前の東村山市の感染状況を振り返ると、3月27日には感染者無しだったが、初感染者が出たのは4月4日らしい。

その後、東村山市の感染者は増え続け、5月19日時点では763人とカウントされている。

今は全国的に 「コロナウイルスワクチン接種」 の気運が高まっているが、日本の接種状況は世界的に見ても100位以下とのスロースピード、一体何が原因なのだろうか?

4月26日からは高齢者に対する接種が始まり、先週、私宛にもワクチン接種券が郵送されてきたが、年齢別の接種スケジュールだからMにはまだ届いていない。

はっきり本音を言うと、私はあまり接種を好まなかったが誰もが 「受けた方がいいです」 との後押しで予約することにした。

しかし、今まで他の自治体での予約状況を見ると、一時的に電話などに殺到して混乱しているようなので少し間を置いて予約することにしたが 「当市の予約取りもどうせ混んでいるのだろう?」 と思っていた。

それと18日には通院、医師から 「接種OK」 の確認も貰った。

19日 「予約センター」 に電話すると一発で通じたのでびっくり。
希望した接種会場は私のスケジュールと合わず取れなかったが、他の場所を選んで予約できた。
意外とスムーズに進んだのでまずは接種は可能となった。

テレビなどで接種する場面を何回も見たが、あの痛そうな細い注射針が受ける人の腕に直角にブスリ、見ていても 「痛かろう?」 と思うが、受けた人の感想は 「痛くありませんでした」 と、誰もが言うが本当なのだろうか?

M宛にもいずれ接種券が届くだろうが、Mには介助が必要だからH子さんと相談して決めることにしている。

ところで接種会場には行けない要介護の高齢者などはどのような援助があるのだろうか? 

いずれにしてもワクチン接種する人が増えることにより、コロナ騒動が終息に向うことを期待している。







もしかしたら?

2021年05月20日 04時22分28秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






退院してから数日は本調子ではなく、少しふらつき気味の私だったが、その後は身も心も元気になりつつある。

18日、退院から11日目、担当医の指示で通院し、まずは採血、胸部レントゲン撮影を済ませて待合室で呼ばれるのを待った。

平日なのであまり混んではいなかったが、待っている人は高齢者ばかり、若い人の姿は見られなかった。

予約は10時だったが診察が始まったのは11時過ぎだ、まずはレントゲン写真を見ながら 「肺はきれいになりましたよ」 と医師から説明を受けた。

同時に血液検査の結果も大きな問題点は無いとのことでまずは一安心した。

その後、話しをしたが救急車で搬送されて来た私を見た医師は 「死ぬかと思った」 そうで、その言葉は意外だった。
もしかしたら、私は死の世界に逝く可能性があったらしいとのことだった。

医師が患者に対し死について語るのはあまり無いことだろうが、その時の私はかなり危険状態にあったらしく、それは血中酸素飽和度が78%と低かったのと顔色も悪かったので医師はそのような憶測を持ったのかもしれない。

だがそのような低い値だったが、私自身があまり自覚症状が無かったのも不思議なことらしい。

私はこの医師の言葉を聞いて 「生かされた」 と、見えない私への多くの応援団に向って厚い感謝の念を抑えることができなかった。

今は経過も良好なので、肺の炎症とアレルギーを抑える薬を内服しているが、この薬も今後5週間、1週間隔で量が減るように処方されたので、6月下旬にまた通院して診察する予約を取った。

入院したその日からこの若い医師にはお世話になっている。上から目線で接することもなく応対も好感が持てる。
驚いたのはカルテに入力する時のキーボード上の指操作の速さは抜群のスピード、Delete キーなど使わないからその正確性も高いと推測した。

その日は長男が車で病院まで送ってくれた。
帰りはイトーヨーカドーで買い物があったので、病院の送迎バスを利用して東村駅西口へ。
買い物が終ってから駅周辺を歩くと、今は 「線路の高架化工事」 が真っ最中、剥き出しの鉄骨が不気味だが、やがては整備された駅周辺となることだろう。

特に西口広場は懐かしい。
戦後のある時期までは駅の出口は西口だけだった。
それはまさしく 「停車場」 と呼ぶのが相応しい閑散とした田舎駅前の狭い路地空間だったことを想い出した。

でも帰りの電車の中ではやはりあの医師の 「死ぬかと思った」 との言葉が浮かんだ。
神さまは 「まだ、お前にはやる事があるだろう?」 と、切れかかった私の命を繋いでくれたのだろう。
これからもMの介護を頑張るしかない。








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東村山駅 ・ 西口広場




駅に隣接する超高層ビル




駅北側を望む




この構造物? 何になるのでしょうか?



      写真説明:  只今、駅周辺は線路高架化工事中

      撮影場所:  東村山駅南側の鋪道にて  (2021.5.18)





少しリフレッシュできました (私の闘病記・終り)

2021年05月19日 04時17分34秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






街医院の医師から 「入院してください」 と言われた時の私は頭の中が真っ白 「コロナ禍の影響だったら家族はどうなるのか? Mの介護はどうなるのか?」 と見えない不安に押し潰されそうになっていた。

幸いにもコロナ禍とは関係の無い肺炎で助かったが、まさかこの歳で救急車搬送で入院するなどとは夢にも思わなかった。

どうして肺炎になったのかは、いまだに判らないが医師の説明によると、何らかの異常なウイルスが検出されたとのことだが真意は聞いていない。

だが街医院で処方された薬による異常な血圧低下が原因だと未だに私はそう思っている。新しい薬は今後も要注意だ。

治療経過も順調で大型連休で事務処理ができなかったので13日目の退院となったが、平時なら10日で退院できたと医師が言っていた。

気になるのは再発? 医師からは 「可能性はあります」 とのことだが、日常特に注意することも無いとのことなので今まで通りの生活を繰り返すしかない。

肺炎にならないようにと、Mともう二回ほど肺炎球菌のワクチン接種も済ませたが効果が無いのだろうか? それともそのワクチンのお陰で軽い肺炎で済んだのだろうか?

Mのことが心配だったが、H子さん (長男の嫁) の面倒見が良く、私の心配も杞憂に終って無難にMを介護してもらった。

しかし、Mを介護するようになってからこのように13日間も傍を離れるのは始めてのことなのでそれなりの心配もあったが、H子さんのお陰で何事も起らずにMも元気で過ごしていた。

退院後の私はベターではなく、一週間ほどは少し気持がふらついているようで不安定な体調が続き、両腕には点滴跡の内出血がまだ残っている。

思いがけない突然の入院で驚いたが、良い環境の中で治療できたので気持も穏やかになった。
この入院は私にとっては体と心をリフレッシュする機会を与えられたと前向きに考えている。

病室からは南側市街地の風景が良く見通せる。このような高さから街中を一望出来る機会はあまりない。
今日の写真は東村山駅前に建つ、イトーヨーカドーと超高層ビルをアップしてみました。

私の 「闘病記」 も今日で終ります。








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東村山駅近くのイトーヨーカドーと超高層ビル




超高層ビルの天辺はこんなふうなんですね




アップで撮ったイトーヨーカドー



      写真説明:  駅前の風景

      撮影場所:  病室にて  (2021.5.6)






進んだ医療のディジタル化 (私の闘病記・その十一)

2021年05月18日 04時10分16秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






36年前もこの病院に入院していたのは奇遇だが、病院の環境は一変している。
それを全て列記するのは省くが表面的に目に付くのはディジタル化された医療環境で、いわばアナログからディジタルの世界へ変化して多様な方法が実践されている。

医師はパソコンでカルテに入力し、現場の従事者たちはディジタル化された器具や道具を駆使してデータ取得に精出している。

私が入院して見た光景からそれを追ってみよう。
日に三回、看護師さんが部屋で定時検診を行うが、必ずワゴン車の上にはノートパソコン (NP) が置いてある。

この検診は患者の治療に欠かせない現状の兆候を把握する重要な情報源となるので、項目的には多岐に渡っているが、取得したデータは全てNPに入力されている。

私の場合、主な項目はディジタル血圧計で得た血圧上下値、脈拍値、オキシノメータで得た酸素濃度、胸部及び背部での聴聞などが直接計測だが、その他の項目は対話で状況が申告されて入力されている。

しかし、機器で計っても手入力が多いので 「Wi-Fi 機能」 などを利用してパソコンと連携すれば手間が省けないだろうか? いずれにしても今後も進化することだろう。

ただ多くのデータが取得されてもそれをどのように集計してどのように標準化されて治療に役立てるのかは知る由もないが、医療現場が多様にディジタル化されていることは確かなことであろう。

かつては心電図やレントゲン写真などは撮り終わると個人が医師の元へ持参した時代もあったが、今はオンラインで直接医師のパソコンに送られている。

そのレントゲン写真も大判サイズだったが、医師が私の部屋に回診に来た時にA4サイズの胸部写真を持ってきたが、このサイズで見るのは始めてだった。

私は極度の重症者では無かったが、それでもこの程度のディジタル化を目の当たりにしたので、もっと重症患者の治療や手術などの現場では更に高度なディジタル化が適用されていることだろう。

ところで看護師資格を得る国家試験ではパソコンなどの知識、操作技術の項目があるのかを聞いてみると 「無い」 そうです。
私はIT技術の項目があるのかと思っていましたが、これでは看護師さんのパソコン技術は標準的な水準ではないような気がしたが、資格を得た後はいろいろなカリキュラムを受けながらIT技術を高めているようです。








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      写真説明:  都営住宅の花園で咲く花

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2021.5.11)





主役は女性看護師さん (私の闘病記・その十)

2021年05月17日 03時44分51秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






このブログでは病院の医療現場で働く人たちをご紹介しよう。その主役は女性看護師さんである。

毎朝、8時過ぎからナースステーションで行われている朝のミーティングを遠くから覗いて見ると十数人のスタッフがいるが男性看護師さんは三人、後は全て女性看護師さんだ。

実際に私の面倒を見てくれたのは女性看護師さん、患者側からすれば女性看護師さんの方が親しみ易いのが確かだ。

総じて見ればどの看護師さんも落ち着きのあるプロフェッショナルとしての気風があって、新人を探すのが難しいほど技量が伯仲している様子が判る。

医療現場と言えば、当然勤務体系はシフト制のはずだ。
ある看護師さんに話を聞いてみると月に4、5回の夜勤があるそうで、その日は職場で12時間も過ごすそうだ。
勿論、仮眠、休養を取る安全対策実施の中での勤務だろうが看護師さんに与えられた仕事を実行し 「ミッション・コンプリート」 の結果を出すのは楽な仕事ではなさそうだ。

静まった深夜のナースステーションでは無人の時もあるが、二人の看護師さんがパソコンに向き合って何かを入力している光景を見ると ”ご苦労さま”と、エールを送りたくなる。

ある夜、気付いたことだが、深夜も患者の安全確認のため定期的に各部屋を巡回していることを知った。
仄かな小さな懐中電灯を頼りにベッド上の患者の確認と安眠を見守っているのだ。

私の入院中、毎夜、何事も無かったので静かだったが、事、何か起これば当直担当の看護師さんの数も少ないので負担は増すばかりだろう。
この病院では一人の看護師さんは四人の入院者を担当すると決められている。

入院の間、何人もの看護師さんと話す機会があった。どの看護師さんも個性豊かで医療業務には最適な信念の持ち主であることを知り、ここで肺炎の治療を受けられたことに改めて感謝した。

いつも外来でも看護師さんのお世話にはなるが、病棟での看護師さんはまた別の意味で貴重な存在でもある。
このコロナ禍では多くの医療施設での診療状況の逼迫が伝えられているが、そこで働く人たちもきっとある信念を持って日夜頑張っているに違いないと確信しています。

空堀川・曙橋右岸手前の河道内に根付いた桑の木に撓わに実が付いたが、まだ赤い色で熟れていない。
昨日はこの実を摘んでいる男性がいたが、ジャムでも造るのでしょうか?
子供の頃、この実を食べて甘さに飢えた気持を少し和らげた記憶があります。懐かしい桑の実です。








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      写真説明:  桑の実

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2021.5.16)





Wi-Fi 機能が使えない (私の闘病記・その九) 

2021年05月16日 09時31分35秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






このコロナ禍でいろいろなことが規制され、家族にも会えないルールが続いているので、入院の時に三階に来た長男と会ったのが26日午後のみ、以降は会えず退院の日にやっと面会が許可されて久し振りに長男と会った。

こんな状況の中でもっと家族とコミュニケーションを取りたい願いがあるが、それを助けてくれたのがスマホで特に LINE が有効だった。

本来、私には携帯電話などは不用品なのだが、要介護のMの緊急事態に備えての電話持ちのつもりだったが、今回自らの入院で多いにスマホの利用価値があることを知った。

家族との必要な情報が途絶えているので、H子さんには何度も LINE で物の手配や依頼事を連絡した。

しかしここの院内では 「Wi-Fi 機能」 が使えないから今月分のスマホ料金が心配になってきた。
病院などの施設では必ず 「Wi-Fi 機能」 接続が可能であるようにすべきではないだろうか?

だが私は LINE の使い方をあまり知らないが、スマホに替えた時に家族で LINE を使えるように準備だけはしておいたので遠くにいる長女を含めた家族にも 「入院したよ」 との連絡ができた。
でも簡単な文章を送るくらいしか LINE の使い方が判らなかった。

今回の入院を利用してH子さんから LINE の使い方をを教えてもらった。

私が 「これを持って来て、あれも持って来て?」 と頼んでも、すぐには判らない物をあり、そんな時にはH子さんから写真入りの LINE が送信されて 「これでいいでしょうか?」 と確認することができたが、私は LINE で写真を送ることは知らなかったので、これも教えて貰い何とか使えるようになった。

H子さんの知識もなかなかのもので、私の疑問に必ず答えが返ってくるので、スマホ音痴の私としては頼りがいのある助っ人だった。

ところで入院中、毎日行われる点滴治療が終れば後は自由時間がたっぷり、表に出て散歩することは禁じられているのでこの第三病棟で過ごすしかない。

 「私は何をしようか?」 と考えたが、それはこの入院生活を小まめに記録することを思いついた。

入院早々、H子さんに頼んでもう永い間使っている 「電子手帳ザウルス」 を取り寄せ、毎日の出来事を記録することにした。
本音はノートパソコンを使いたかったのだがそれは控えることにした。

この病棟の西側には食堂・デイルームと呼ばれる広い部屋があって、入院者の憩いの場として利用できるので、私は合間を見てはそこに行き、静かな雰囲気の中でザウルスへの入力を続けた。
この時の文章がこのブログ投稿文の基になっている。

36年前の入院では携帯電話などは夢にも思わない時代で、携帯式のソニー小型ブラウン管式テレビを家から運んで見ていたが、そんな時代と比べると 「世の中は変った」 と、つくずく感じた今回の入院生活でした。








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綺麗に整理整頓されたメイン通路




食堂




調理に必要な備品もある



      写真説明:  病棟内部

      撮影場所:  食堂 ・ デイルームにて  (2021.5.6)





寝言 と 鼾 に参りました

2021年05月15日 07時56分20秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






私が過ごした第三病棟は主に呼吸器疾患の高齢者が多いようだが、不思議なのは太った人がいないこと。
どの人からも弱々しい感じを受けるが、そのスマートな細身の人も夜になると個性を発揮する時がある。

それは寝言を言う人、鼾 (いびき) をかく人であり、その個性に私もギブアップしてしまった。

最初は満杯の四人部屋だったが、その中の一人の寝言にはびっくり、でも同じ病人同士だからと諦めて取りあえずは我慢するしかなかった。

その後、その人も含めて三人が退院、だがすぐに隣のベッドに別の男性が入室したが、実はこの男性の鼾に苦しめられることになる。

そしてその最初の夜は最悪だった。
隣人の鼾がひどく、私はまったくの不眠状態に陥ってしまった。
特に21時の消灯後、日付が変わるまでは激しく、静かな雰囲気で寝慣れている私からは睡魔は遠く離れてしまった。

そうなったらじいっと堪えるしかないがそれも限界、全く眠れず、24時前、 「SOS 耳栓でもありませんか?」 と、ナースステーションに駆け込んだ。

耳栓は無く、当直看護師さんが 「隣の部屋に移動しましょう」 と言ってくれたが、深夜のことで迷惑をかけるので明日移室することをお願いした。

その後も鼾はあまり衰えることもなく続いたが、3時過ぎには根負けした私の睡魔がやってきてほんの少々眠った。

翌日、定時検診の時、看護師さんがその人に 「良く眠れましたか?」 と質問すると 「良く眠れました」 との答えに 「お~い、俺はどうなってんだ~」 と文句も言いたくなりました。

このように私に迷惑がかかっているのに鼾発生の張本人は途中起きることも無く眠り続けている。
余計な心配だがこの方の家族はどのように対処してるのだろうか?

でも寝言、鼾はどうしてあのような音調になるのでしょうか? つくずく不思議な現象だと思いました。

退院してからまたMとH子さんと三人で川沿いを散歩した。
暫く見なかったが、都営住宅前の花園の花たちが勢いを増して咲いていた。
思うと入院中は花を見たことが無かったから、川沿いに咲く花の美しさに輝きを感じました。








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クレマチス




ツユクサ




名知らずの花です



      写真説明:  クレマチス ・ ツユクサ ・ 名知らずの花

      撮影場所:  空堀川沿いにて  (2021.5.11)





この病院とは奇妙な因縁がある (私の闘病記・その七)

2021年05月14日 16時53分25秒 | 日暮らし通信


発信元:  赤とんぼ






当院の私のカルテ番号は85ー00001、この番号にはそれなりの歴史があるが、私は昭和60年 (1985) 5月から6ヶ月間、この病院に入院していた。

この年、この病院は紙製だった診察券を磁気機能を持ったデジタルタイプの診察券に変更する構造改革を実施、当時の患者リストから 「ア行一番のあ」 から始まる私が85ー00001の番号を付与されたと、風の便りで聞いた。

それから36年、今も私は当院の一部診療科との定期的な通院が続いているが、当時の入院も今回の入院に類似しているようで奇遇な気がする。

昭和60年5月、大型連休が終わっても私の体調が優れず、倦怠感やだるさが続き、働くことも叶わぬ体の変調に苦しめられていた。

思い切って休暇を取り、当院呼吸器科を受診、胸部レントゲン写真を見た医師は即 「入院してください」 と一言、いわゆる 「胸部疾患 (結核)」 との診断だった。推定治療期間は約6カ月との空しい宣告だった。

 「入院せよ」 との言葉を聞いた時、私の頭は真っ白になり、瞬間的に 「家族に感染していないか?」 の危惧に取り憑かれてしまった。
今回、入院した経緯も何か似ているような気がした。

結核と言う病気は国の法律により手厚い保護下にあり、家族への感染防止も保健所管轄で厳重に管理されていたので私の感染で家族全員の検査が義務付けられているのでそれに従うしかなかった

一番悔いても忘れられないのは長女のことだった。長女は名の知れた女子校に通学していたが、入学に際しある目標を立てた。
それは 「三年間、無遅刻無欠勤で皆勤賞を受賞、金融関連会社へ就職する」 との確かな目標と持っていた。

実際にそれまでにその目標は順調に積み重ねられていたが、その家族検診のためにたった一日休校することになり、長女の夢は潰えてしまった。
親としては全く謝す言葉も無い申し訳のない成り行きになってしまった。

幸いにも家族への感染が無かったことは、多くのご先祖さまたちののご加護かもしれない。

あれから36年、「歴史は繰り返す」 の格言通り、私はまたこの病院の一室で過ごすことになった。

だが当時と比べると院内の建物群は建て変わり、かつては田んぼだった南側は埋め立てられて宅地となって家が建ち並んでいる。

かつて東村山は自然豊かな農村地帯で、北川には清流が流れ、夏にはホタルが飛び交うほどの光景だったが、戦後の都市化の波に押し潰されてその自然は消え去ってしまった。

当時、結核は不治の病だったが、効能のある薬が無く、多くは通気療法だったので人里離れた郊外に病院が建てられた。
清瀬や東村山に病院が多いのもその地理的な環境のためだろう。

三階の病室から外を眺めると、ガラス窓一杯に見えるのは密集した家々の数々、ここが全て田んぼだったことを知っている人も少ないことだろう。

退院する朝、東から西に向って写真を撮った。しかし、表は空気がもやっていたようで、少しピンぼけ気味になってしまいました。








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我が家はこの方角の遙か彼方にある










東村山駅近くの高層ビルが見える




右手の森は北山公苑に続いている



      写真説明:  病室から見た退院する早朝の風景

      撮影場所:  病室にて  (2021.5.8)






塩分控え目は健康の元 (私の闘病記・その六)

2021年05月13日 13時37分15秒 | 日暮らし通信

発信元:  赤とんぼ






4月26日午後入院、その日の夕食から 『レストラン第三病棟』 の食事のお世話になった。

始めての夕食の配膳は18時前、一体どのようなメニューが現れるのだろうか?

そして始めて見て驚いたのは茶碗一杯の大盛りごはんだった。

家で食べる量の倍もある。家ではご飯を食べるのは夕食だけだが、ご飯には糖分があるので私は軽く一杯食べるようにしていたがここでは毎食ご飯付きだ。

いつもH子さんが 「もう少し食べた方がいいのでは?」 と言うが私には適量だと思っている。だからいずれこの大盛りご飯は半分に減量願いするつもりだ。

それと副食、いわゆるおかずも三品ほどついていたが、思った通り塩加減は超薄味だった。
H子さんも私たち向けにかなりの減塩料理造りに徹しているが、それよりも何ランクも下の薄い塩加減だ。

高齢者の中には市販の弁当などは薄味で口に合わない人もいるようだが、入院者の中にもこの薄味には閉口しているかもしれない。

私は? 幸いにも戦後の食糧難の時代、食べる物に苦労しながら育ったので、それなりに体が反応するので塩加減はどのように薄くても文句などが出ないのが私の取り柄だ。

でも毎食がご飯付きなのは始めてのこと、家では麺類やパン食が多かったから私の胃袋は戸惑ったに違いない。

でもこのご飯の量は多すぎる。早速、看護師さんに ”減量” をお願いしたら、入院三日後の朝食からは 「大盛り」 と呼ばれたご飯量が 「小もり」 と呼ばれる量に減った。

おかずとのバランスも良いようで 「食べることしか楽しみが無い」 身分だが食に対しては文句を言わないのが私の自論、でもやはりH子さんの料理が恋しく食べたくなった。

退院したらまず冷たいビールとお寿司を食べたいと、病人としては過ぎたる夢を持ちながら ”超塩分控え目の食生活” を経験しました。

でも 「超塩分控え目」 は健康で長生きするための基本的ルールだとつくづく思いました。

家に帰ってからH子さんに塩分のことを話して 「さらに出来る限り減塩して」 とお願いしたが、H子さんの対応が早く、その日の夕食は今までよりもかなり薄い塩味にした料理を造ってくれた。

Mと私の食事では塩分もかなり減少したようだが、長男夫婦には普通の塩分取って、と、H子さんにはお願いしてあります。

今日はご参考までに幾つかの膳の写真をアップしました。
5日の 「こどもの日」 の夕食には小さな柏餅と折り紙の(かぶと)が添えられていました。








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5月4日の朝食




5月5日 「こどもの日」 の夕食
小さな柏餅と折り紙の兜が祝ってくれました




お祝いの兜です




5月6日の朝食



      写真説明:  別記

      撮影場所:  病室にて  (2021.5)