ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『井筒』~その美しさの後ろに(その1)

2007-08-11 00:15:53 | 能楽
来月、9月9日の「重陽の節句」の日、久しぶりの自分の主宰会「ぬえの会」の第三回公演を東京・喜多能楽堂で催させて頂きます。今回 ぬえが上演する曲として選んだのは、世阿弥作で能を代表する曲といわれ、鬘能の中でも能の代名詞に近い地位を占める名曲『井筒』です。

第一回の「ぬえの会」では『道成寺』を披き、また第二回目では『松風』を取り上げて、それぞれの曲に挑戦したわけですが。。もちろん第一回目は「能楽師の卒業試験」といわれる『道成寺』を披くこと、それ自体が目的でした。あの時は。。ホントに命を賭けちゃったけれど。。そして第二回目の『松風』を上演したのは、この曲の中に「人間が狂気に走る」その瞬間が捉えられている、と感じたからでした。「あら嬉しやあれに行平のお立ちあるが。松風と召されさむらふぞや。いで参らう」。。ここをいっぺん舞台の上で謡ってみたい、というのが上演の動機です。思えば無茶な動機ですが、役者ってこんなものかなあ。。とも思っています。今でも。

今回の「ぬえの会」で『井筒』を取り上げた理由。。それは「能楽師として避けて通れない曲」だから、というのが偽らざる本音です。なんて安直な。。と思われてしまいそうですが、学生時代から能に親しんだ ぬえとしては『井筒』という曲は、もちろんずっと憧れの曲でもあったし、能楽師として修行を始めてからは、憧れ。。でもあり続けてはいますが、もっと複雑な感情で見る曲になりました。これだけ素直な曲に見えていながら、じつは難しい問題も含んでいる曲であろう事は、地謡としてこの曲に参加する度に感じていましたし、それが何であるのか。。どうやら鬘能として括ってしまっただけでは見えてこない本質もどこかに隠されているようです。この曲を演じるのは、素直に表面をなぞるのか、そういう方法もあるかと思いますが、もっと発散される演じ方もあるのではないか、と思ってみたり、また一方、この曲は鬘能であるからこそ なんとか狂気の一歩手前でシテが踏みとどまっている印象をも受けます。どうやら大変な曲であるらしい。昨年『朝長』を上演しましたが、その難しさとは違った、外には明確には出てきていない感情の部分がこの曲にはあって、それを舞台の上で解釈して出してみるのか、それでは説明に堕してしまうのか。。

考えれば考えるほど、テーマそのものがオブラートに包まれたような、そんな手の届かない部分を感じるだけにもどかしさばかりが先に立つ能だとも思います。まさに「避けて通れない能」かなあ。

で、これだけ長いお付き合いの曲なので詞章はもうとっくに頭の中に入ってしまっているのですが、今回その言っている内容をよ~~く吟味しながら謡い方を組み立てていたら。。新しい発見がありました。これは今まで気づかなかった。。やっぱり「読み込み」ってのは大切です。この話題は追々に。。

いま『井筒』の稽古でテープに合わせて一人で舞っていると。。とっても悲しくなってくるんですよね~。。この「序之舞」は、ほかの曲のそれと同じ演奏、同じ型なのですが、『井筒』の中にあると、たまらない「孤独感」がシテに迫ってくる。。これって何だろう。。

やっぱり上演するのは難しい曲だとは思うけれど、避けて通らなくてよかった、とも思います。自分としてこの時期、この年齢で演じるのも、これまた ちょうど良いのかな、なんて思ったり。でもまず、お目汚しがないようにもっと稽古しなきゃ。


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