ぬえの能楽通信blog

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『井筒』~その美しさの後ろに(その10)

2007-08-29 01:32:18 | 能楽
シテの面は、『井筒』などのように前シテと後シテが同じ年格好の女性で、同じ種類の面を掛けるのであれば、前後で掛け替えるという事はありません。ともに若い女性であっても前シテが若女で後シテが十寸髪を掛ける『巴』のような曲は例外ですが、後シテを増にするのであれば前シテも同じ増で通します。

そこで問題になるのが中年女性の面である「深井」が前シテの面の選択肢に入っているとうこと(という事は後シテも同)でしょうか。さすがに「深井」を掛けて無紅の装束を着て演じられた『井筒』を見たことはありませんが。。しかし観世流の装束付けにはほとんどの鬘能のシテが掛ける面には、若女のほかに深井も併記されているのです。

深井は古くは「深女」と書かれた例もあって、これで「ふかいおんな」と読みます。これとは別に「浅女(あさいおんな)」というのもあって、女面は、時代やその面の表情によって意外に幅が広い分類のされ方をしています。ぬえが聞いたところでは、観世宗家にとっても若作りで美しい「深女」があって、どうもその面をかつての太夫が若い女性のシテ役に多用したことから、装束付けに若女と「深女」が併記されるようになり、それが時代と共に「深井」と混同されてしまった、との事ですが、これは ぬえが仄聞しただけで真偽は不明です。しかし ぬえ、『井筒』の前シテを「深井」を掛けて無紅の装束で演じるのは。。案外思っても見ない大きな効果を生み出すのではないか、と密かに思っています(理由は後述します)。。まあ、初役の今回はその試みをしてみるわけにもいきませんが。。

さて「次第」の囃子を聞きながら静かに登場した前シテは、橋掛りを歩んで、やがて舞台に入り。。なせかお客さまに背中を向けて、斜め後ろ、囃子方の方向を向いて謡い出します。

シテ「暁ごとの閼伽の水。暁ごとの閼伽の水。月も心や澄ますらん

「次第」の囃子で登場して、その登場した役者が一人だけ(ツレやワキツレを伴わない)の場合のみ、必ずこの形式で役者が謡い出します。これはなぜなんでしょうね? 鏡板に描かれた老松が春日神社の影向の松であり、そのご神体の松に向かって謡うのだ、と かつては言われていました。最近ではシテのその日の謡の調子を囃子方に聞かせて、シテの意図をよく知らしめるためだ、などとも言われているようですが、ぬえはどちらの説も次第に限って行われるこの型の理由を説明するには ちょっと無理があると思いますね。

『邯鄲』など橋掛りで次第を謡う場合は、やはり役者は後ろを向いて謡い出しますが、鏡板の「影向の松」に向いているとはとても言えない位置関係だし、「次第」の囃子で登場しても、登場人物が複数であれば舞台で(『富士太鼓』や『望月』などは橋掛りの場合も)役者が向き合って謡うわけですし。また、これらの説では、「一声」や「出端」など他の登場音楽では正面に向いて謡い出すのになぜ「次第」の場合だけがこの型で謡い出すのかの説明になっていないですし。。

ぬえはこの型については、「次第」が前シテあるいはワキの登場にばかり用いられて、後シテの登場には用いられない事に注目しています。もちろん後ろを向いて謡い出す型は後シテの登場の場面には不向きであることは論を待たないでしょう。前シテが自分の素性を明かして中入し、残されたワキは間狂言の語リから、前シテはじつはある人物の幽霊の仮の姿だと知り、夜もすがら読経してその跡を弔うところに登場する後シテ。このような定型的な脚本に立脚するならば、後シテの登場は独白こそ伴っていても、その気持ちは最初からワキの回向に引かれているはず。ここで後ろを向いて謡うのではワキに対する気持ちが利きません。

このように「次第」という登場音楽は、その型から、登場人物の気持ちが自分の内側に向いている事を表しているのです。そこにいるワキの姿は目に入らず、シテはすでに自己完結している。『井筒』であれば、業平の塚。。つまり墓に清めの水を運ぶ、という前シテの姿だけがそこにあるのです。後ろを向いて謡うのは、「独白」の表現の極端な形でしょう。これは漂泊の旅僧であるワキにも似合う演出で、さればこそ同じ性格を持つ役者が、シテ・ワキを問わずこの形で登場する事が可能になるのです。

複数の登場人物が登場して、向き合って「次第」を謡う場合もこれに大差はないでしょう。「次第」のあとに必ず地謡が低い声で同じ文句を謡い、その間に役者が正面に向き直り、そしてその次に謡われるのは自己紹介である「名宣リ」か独白のサシ。自己紹介と言っても、能ではお客さまに向かって自分の名前を名乗っているとは言いにくい面があるから、やはりこれは独白の一種でしょう。

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