ぬえの能楽通信blog

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『井筒』~その美しさの後ろに(その12)

2007-08-31 00:59:12 | 能楽
思い出だけに生きている。。結局前シテが言っているのはそういう事なのでしょう。すでに紅入唐織を着た若い女性の姿からはかけ離れたような物言いで、そして夕暮れ時に彼女が現れた理由が、塚に供えるための水を運ぶこと。。すなわち墓参りなのです(今回のおワキのお流儀の詞章ではシテは水を運ぶだけではなく、花を供え香を焚いている、と言います)。『井筒』の舞台面の美しさは表面的なものにしか過ぎず、この曲の影には、つねに「死」のイメージが重ね合わされている。。この次第~サシの詞章がそのことを物語っているのに、巧妙な作詞によってそれがうまく隠されているように思います。

ところが、それに続く「下歌」「上歌」では一転して仏の救いに一筋の光明を求める彼女の心が描かれています。

シテ下歌「ただ何時となく一筋に頼む仏の御手の糸、導き給へ法の声
 上歌「迷ひをも。照らさせ給ふ御誓ひ。照らさせ給ふ御誓ひ。げにもと見えて有明の。行方は西の山なれど。眺めは四方の秋の空。松の声のみ聞ゆれども。嵐はいづくとも。定めなき世の夢心。何の音にか覚めてまし。何の音にか覚めてまし

「げに何事も思ひ出の。人には残る世の中かな」とサシで謡われた「世の中」という現実は、上歌で「定めなき世」と「夢」と表現され、夢であるこの世から仏の世界への覚醒を願う、という文章です。「何の音にか覚めてまし」はちょっと難解な表現ですが、「まし」は推量の助動詞で、「何の音であれば、この定めない世の中に生きている、という夢から覚めたものだろうか」という意味でしょう。「行方は西の山なれど」は仏教で常住の象徴とされる月が、目で見たところの変化をしながらも、絶えることなく常に西方浄土を目指して運行する様子、「眺めは四方の秋の空」はその月が発する光が穢土である現世をあまねく照らしている、の意。

この上歌、能にはよくある仏教的な彼岸志向の文章ですが、じつはここにも作者の「仕掛け」が施されているのではないかと思います。ここまで舞台が進行したところで、お客さまにはこの不思議な女性がどうやらただの人間でないことは察せられているでしょう(まあ、そう見えるかどうか、演者の力量にも左右されることではありますが。。)。そして いずれ露わになる通り、彼女はじつは幽霊の化身であるわけです。すなわち、すでに死の世界の住人である女が悟りを願っているのであり、それは彼女が救われない煩悩のためにいまだに仏の元に赴くことが出来ない「苦しみ」を言っている、という事になります。その煩悩の原因こそが「思い出」であり、そして私たちは知っているのです。彼女は後場で恋する男の衣冠装束を身につけて、男装して現れることを。。なんだか。。救われない。。

それにしても ぬえはこの上歌が大好きなんです。なんというか悲しく孤独なのに、一抹の光明を信じるけなげで美しい心。それがこの上歌にはうまく表現されていますね。これと もう一つ。『弱法師』のシテの上歌にも同じ清らかで無垢な信仰の心が現れていて、これもまた ぬえが好きな上歌なのですが、『井筒』の上歌は『弱法師』よりもさらに清澄な心が感じられて。

でも。。彼女、結局救われないんですよね。。

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