ぬえの能楽通信blog

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『井筒』~その美しさの後ろに(その11)

2007-08-30 00:06:54 | 能楽
本日、師匠に『井筒』のお稽古をつけて頂きました。まあまあ、今回はいつもの自習の成果が出たのか、あまり叱られるような事もありませんでしたし、またかえって ちょっとビックリするような着眼点のアドバイスを頂くことができました。これを活かしてさらに稽古を重ねてゆこうと思います。また今日は先輩が地謡を謡って下さったのですが、その地謡の質の良いこと! 同門ながら感心しました。

さてシテが次第を謡い終えると、地謡が低音でその文句を繰り返して謡います。「地取り」と呼ばれるこの謡は、次第の時には必ず謡われるもので、たとえば『羽衣』などでは能の中盤に「東遊びの駿河舞、東遊びの駿河舞い、この時や始めなるらん」と次第が挿入され、これは地謡が謡うので「地次第」と呼ばれていますが、この場合もやはり地謡はこの次第を謡ったあとに「地取り」を繰り返すように謡うのです。

次第の謡はときに「その能のテーマ」と言われる事がありますが、内容を考えると ぬえは必ずしもそうは思わないけれど、「地取り」があることによって、その文意が強く印象づけられるのは確かですね。「テーマ」というよりも、脚本に底流するもの、曲が終わってもお客さまの心には響き続ける問題提起のようなものが描かれているように思います。

ところで『井筒』のシテは次第で「暁ごとの閼伽の水。月も心や澄ますらん」と謡いますが、これによればシテは「暁」に水を運んでいる、つまりワキと邂逅するこの場面も「朝」という事になってしまいます。ぬえはそれではちょっと舞台設定としてはおかしいと思っていましたが、「あかつき」という音には「暁」のほかに「閼伽杯」という語もありますね。「閼伽杯ごとの閼伽の水」。時刻を明示せず、水を運ぶという作業の永遠性も連想させるこの謂いとしてこの句は読むべきでしょう。やはり荒廃した廃寺で旅僧が幽霊と出会うのは夕暮れ時がふさわしい。

次第を謡い終えたシテはついで「サシ」と呼ばれる拍子に合わない詠吟を謡います。

シテ「さなきだに物の淋しき秋の夜の。人目稀なる古寺の。庭の松風更け過ぎて。月も傾く軒端の草。忘れて過ぎし古へを。忍ぶ顔にて何時までか待つ事なくてながらへん。げに何事も。思ひ出の。人には残る世の中かな

とっても含蓄のある叙情性に富んだ言葉。ただ、「忘れて過ぎし古へを。忍ぶ顔にて何時までか待つ事なくてながらへん」という言葉はいろいろな意味に解釈できそうです。「人目を忍びつつ、いつまで待つ甲斐もないままに生き永らえるようとするのか」(新潮日本古典集成)「いったいいつまで、何の期待することもなく、生きながらえていようぞ」(日本古典文学集成)「いつまで待ってもかいがあるわけでもないの人目を忍んでいつまでこうして生きるのだろう」(三宅晶子氏・対訳でたのしむ)「待ってみたところでこれからさき、そのかいがあろうとも思われないのに、忘れきれずに偲んでは、いつまでこの世に生きながらえようというのか」(西村聡氏・皇学館大学紀要)「待つことなしに永らえられようか。とても永らえられない。待っているから生きている」(大谷節子氏・作品研究<井筒>上)と、最近でもいろいろな訳文が提出されているようですが、ぬえは「忘れ去られた昔の、いまでは人口にものぼらない小さな自分だけの幸せ。その思い出だけにすがって、いつかまたあの美しい日々が戻ってくる事を信じているのに、待つばかりの自分がここにいる。その日は来るのだろうか。それを疑ったら、自分の存在そのものがなくなってしまうのに」と読みましたが。。どうでしょう?

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