能と狂言は芸の兄弟として一緒に発展してきたものではありますが、仲良しの兄弟かと言われると、つかず離れず、絶妙の関係を保ってきたように思えます。狂言方は能役者と比べると、歴史的に一段下がったような地位に甘んじていた、とも言われているのですが、しかし、意外にも狂言方の芸は往古より能役者にとって不可触なものだったのではないかなあ、というのが ぬえの印象です。
能も狂言も、往古は風刺劇とか大道芸のようなものから出発したようですが、狂言は世相風刺や即興性を重んじてきたために、古典文学を題材にして歌舞劇として発展していった能と比べると台本が固定化されたのはかなり遅れた時代であったと考えられています。そうしてその即興性はある程度 間狂言にも反映されたのではないか、と ぬえは考えます。
もちろん古い文献にも現代にまで上演が続いている狂言の曲名は散見されるし、その逆にいかにも当時の世相に合わせて当座に新作されたのではないか、と思われるような、固定化されていない曲名も見えるのですし、同じ事は能についてもそのまま同じ事が言えるのですが、狂言の台本は室町時代末期の『天正狂言本』が例外的に古いものの、これはあらすじを記した備忘録的な本で、厳密な意味での台本の出現は江戸時代になるのをまで待たねばなりませんでした。能が早く室町時代の前期に謡本を持っていたのとは対照的ですが、能がワキや囃子方など専門職の役者が集まって上演するために、統一された台本が必要だった事もその理由でしょうが、狂言が当意即妙の芸を重んじたために、がんじがらめにセリフを固定した台本がなじまなかったのでしょう。
そうしてその即興性が狂言の芸の醍醐味であってみれば、それは当然役者個人に舞台進行や演出について大きな決定権を任せる事になります。世阿弥は『申楽談儀』に「ただ脇の為手も、狂言も、能の本のまま何事をも言ふべし」と書き、また『習道書』に「をかしなればとて、さのみに卑しき言葉・風体、ゆめゆめあるべからず」、『申楽談儀』に「三番猿楽、ヲカシニハスマジキコトナリ。近年人ヲ笑ハスル、アルマジキコト也」と書きましたが、要するにこれらは幽玄をめざす世阿弥の理想なのであって、現実にはそれとは遠い演技が実際に行われていたことを示しているのですし、それは世阿弥が考える理想の舞台とは別に、狂言が本質的に持っている喜劇性やダイナミズムとして溌剌と舞台に生かされていたのです。
こういう事から、おそらく間狂言も能の台本が書かれたのと同時に、能と同じ作者によって作られたものではない場合が多いだろう、と類推することができるので、そういった例が『巴』の間狂言に見ることができるのではないか、というのが ぬえの考えです。
ところが一方、『大会』では後に間狂言が語る内容~天狗が鳶に化けたところ地上に落ちてしまい、京童に殺されそうになった。そこに通りかかった僧正が助けてやった~がなければ台本の意味がまったく不明になってしまう能もあるわけで、能の台本そのものが、本文には書き記されていない間狂言の語る内容を前提として組み立てられている曲もあるのです。
考えてみれば世阿弥自筆本でも『布留』や『江口』には割合とまとまった間狂言の詞章が書き記してあります。さらに『鵺』や『船橋』では、前シテが語る物語よりも相当突っ込んで間狂言が語ることによって、その曲が描く世界がかなり広がりを増している、という曲もありますね。
こう考えてくると、能と狂言…わけても間狂言との成立の関係は一様ではなく、これらについては精査する研究が必要でしょう。
…oscarさん、コメントをありがとうございました。
だいたい間狂言について ぬえが考えるのはこんなところです。しかしかつては流動的であったはずの間狂言も、江戸期からは次第に固定化されていったので、いまでは狂言のお流儀に伝えられてある詞章は尊重されるべきで、シテ方の一存で変えて頂くようなお願いは失礼に当たりますですね。
…とはいえ、今回は思うところがあって、無理を承知で間狂言のお役の先生に演出の工夫をお願いしてみました…ぬえにとっても初めての経験で、かなり緊張してお願いしてみて…結果的にそれは叶わなかったのですが、いろいろと考えさせられるところもあり、よい経験でした。そのお話はいずれ…
能も狂言も、往古は風刺劇とか大道芸のようなものから出発したようですが、狂言は世相風刺や即興性を重んじてきたために、古典文学を題材にして歌舞劇として発展していった能と比べると台本が固定化されたのはかなり遅れた時代であったと考えられています。そうしてその即興性はある程度 間狂言にも反映されたのではないか、と ぬえは考えます。
もちろん古い文献にも現代にまで上演が続いている狂言の曲名は散見されるし、その逆にいかにも当時の世相に合わせて当座に新作されたのではないか、と思われるような、固定化されていない曲名も見えるのですし、同じ事は能についてもそのまま同じ事が言えるのですが、狂言の台本は室町時代末期の『天正狂言本』が例外的に古いものの、これはあらすじを記した備忘録的な本で、厳密な意味での台本の出現は江戸時代になるのをまで待たねばなりませんでした。能が早く室町時代の前期に謡本を持っていたのとは対照的ですが、能がワキや囃子方など専門職の役者が集まって上演するために、統一された台本が必要だった事もその理由でしょうが、狂言が当意即妙の芸を重んじたために、がんじがらめにセリフを固定した台本がなじまなかったのでしょう。
そうしてその即興性が狂言の芸の醍醐味であってみれば、それは当然役者個人に舞台進行や演出について大きな決定権を任せる事になります。世阿弥は『申楽談儀』に「ただ脇の為手も、狂言も、能の本のまま何事をも言ふべし」と書き、また『習道書』に「をかしなればとて、さのみに卑しき言葉・風体、ゆめゆめあるべからず」、『申楽談儀』に「三番猿楽、ヲカシニハスマジキコトナリ。近年人ヲ笑ハスル、アルマジキコト也」と書きましたが、要するにこれらは幽玄をめざす世阿弥の理想なのであって、現実にはそれとは遠い演技が実際に行われていたことを示しているのですし、それは世阿弥が考える理想の舞台とは別に、狂言が本質的に持っている喜劇性やダイナミズムとして溌剌と舞台に生かされていたのです。
こういう事から、おそらく間狂言も能の台本が書かれたのと同時に、能と同じ作者によって作られたものではない場合が多いだろう、と類推することができるので、そういった例が『巴』の間狂言に見ることができるのではないか、というのが ぬえの考えです。
ところが一方、『大会』では後に間狂言が語る内容~天狗が鳶に化けたところ地上に落ちてしまい、京童に殺されそうになった。そこに通りかかった僧正が助けてやった~がなければ台本の意味がまったく不明になってしまう能もあるわけで、能の台本そのものが、本文には書き記されていない間狂言の語る内容を前提として組み立てられている曲もあるのです。
考えてみれば世阿弥自筆本でも『布留』や『江口』には割合とまとまった間狂言の詞章が書き記してあります。さらに『鵺』や『船橋』では、前シテが語る物語よりも相当突っ込んで間狂言が語ることによって、その曲が描く世界がかなり広がりを増している、という曲もありますね。
こう考えてくると、能と狂言…わけても間狂言との成立の関係は一様ではなく、これらについては精査する研究が必要でしょう。
…oscarさん、コメントをありがとうございました。
だいたい間狂言について ぬえが考えるのはこんなところです。しかしかつては流動的であったはずの間狂言も、江戸期からは次第に固定化されていったので、いまでは狂言のお流儀に伝えられてある詞章は尊重されるべきで、シテ方の一存で変えて頂くようなお願いは失礼に当たりますですね。
…とはいえ、今回は思うところがあって、無理を承知で間狂言のお役の先生に演出の工夫をお願いしてみました…ぬえにとっても初めての経験で、かなり緊張してお願いしてみて…結果的にそれは叶わなかったのですが、いろいろと考えさせられるところもあり、よい経験でした。そのお話はいずれ…