ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その14)

2011-05-12 01:24:46 | 能楽
釈迦が説法をするのに経巻を読む型をするのは なんだかおかしいですね。釈迦が言った言葉を書き留めたのが経でしょうから…ところでここまで、じつはシテには大変な苦労があるんですよ。『大会』の後シテは左手に経巻を捧げ持っていますが、それこそ ずうっと左手を上げたままなんです。15分以上はそのままではないかな、と思います。経巻は決して重い物ではありませんが、装束を着ているままの腕を上げ続けているのはやはり大変です。まあ、歩んでいたり、ちょっとした型があると ずいぶん気持ちも楽になるのですが、動かないところはつらいです。ですから、少しでも型があるところで少しだけ腕を下げてみたり、いろいろ工夫して、腕が固まらないように注意することは大切ですね。

それから、釈迦の面を掛ける苦行… ああ、これは今は言いますまい。本来の型の解説がこのブログの基本ですから~ (・_・、)

さてここまでで天狗による大スペクタクル…と言っても舞台に登場しているのは後シテひとりなんですが…が一応の完成を見るわけですが、これを見たワキは、前シテに言われた「尊しと思し召すならば、必ず我がため悪しかるべし」という言葉を忘れて、ついつい感動の涙を流してしまいます。

ワキ「僧正その時忽ちに。
地謡「僧正その時忽ちに。信心を起し。随喜の涙。眼に浮かみ。一心に合掌し。帰命頂礼大恩教主。釈迦如来と。恭敬礼拝する程に。


ワキは立ち上がり、大小前の一畳台の方へ少し進んで下居、扇を置いて数珠を持って合掌する型をします。…すると突然地謡の位が進み舞台の様相は一変します。

地謡「俄かに台嶺響き震動し。帝釈天より下り給ふと見るより天狗。おのおの騒ぎ。恐れをなしける。不思議さよ。

シテは様子が変わったことに気がついて経巻から目を上げ、天を見上げ、それから急いで経巻を巻いて左手に持ち、地謡が終わるのに合わせて一畳台から一足に飛び降ります。

他流ではここですぐにツレ帝釈天が登場することもあるようですが、観世流ではここでイロエになります。

イロエとは「彩どり」というような言葉で、静かに演奏される囃子を背に、シテは静かに舞台をひと廻りする程度の型をします。能の台本の進行には直接関係はないけれども、シテの現つない心情の揺れを表現したり、神秘的な雰囲気を表すのに非常に効果的。

ぬえは『大会』では、どうもこのイロエが余計だと考えていました。それまで急に速くなって帝釈天の登場を予感させる緊張した舞台展開なのに、なぜここでもう一度ゆるやかな雰囲気に戻らねばならないのか… 他流でイロエがない流儀があるのも、まさしくこの疑問によるものでしょう。

…しかし、こういうところが能らしいのかもしれません。稽古をして感じたのですけれども、このイロエは、シテの心情をクローズアップしている場面でして、いわゆる舞台展開の時間の流れとは別に、その時間をしばらくストップして表現するのです。これを場面展開が途切れてしまう、と 以前の ぬえのように考えるか、もう一度 時間を元に戻してツレ帝釈天の登場に雰囲気が急変する様子が再現されるのを楽しむ、と見るか、ですね。

そういえば『善界』にも似たようなところがあります。こちらは唐の天狗・善界坊がついに天空から比叡山の僧正に襲いかかる場面で、地謡が一度急迫してから、さてイロエになって静かになり、シテは何度かワキを遠くから見込んで、急に囃子が速くなるとワキが乗った車の作物に走り寄るのですが、こちらは『大会』よりも解りやすい演出で、天空からワキの様子を窺って、その隙を求めてだんだんと迫り寄り、ついに襲いかかる、という様子の表現です。