さて『大会』の舞台に戻って。
シテから「都東北院の辺にての御事」と言われてようやく気がついた僧。
ワキ「げにさる事のありしなり。また望みを叶へ給はん事。この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ。
シテ「それこそ易き御望みなれ。まことさやうに思し召さば。即ち拝ませ申すべしさりながら。尊しと思し召すならば。必ず我が為悪かるべし。構へて疑ひ給ふなと。
このあと間狂言の登場によって前シテの山伏が天狗の化身であること、「都東北院の辺にて」起こった事件とは、鳶に化けた天狗の命を僧が助けたこと、が物語られるわけですが、この問答の場面では僧の応対もまことにあっさりとしたもので…「げにさる事のありしなり」だけ。「あ、あれか」と言っているだけなのですが、思い起こしてみれば彼が助けたのは山伏ではなく鳶だったのであって、そうなるとこの山伏=鳶ということになり、すなわち人間ではないことに極まるのですが。もうちょっと驚いてくれても良いと思う。天狗さんも拍子抜けでしょう。
ま、とはいえ、このひと言で済ませてしまうあたりが、何事にも動じない高僧の威厳を表現するのでしょうし、第一ここでワキが「あ、それではあなたは天狗なんですね?」と言ってしまうと、それこそネタバレでもあるので、そういう計算はされて台本が作られているのかも。
それにしても「この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ」というのは名セリフですね。さきほどの「あ、あれか」に引き続いてですから、まさに修行三昧の徳の高い僧の姿です。世を捨て人であるから現世に欲しいものはないんですね。もったいない…
シテの言葉も「御望みの事候はゞ。刹那に叶へ申すべし」とか「それこそ易き御望みなれ」とか、神通力を持っている事が随所でほのめかされています。『大会』という能はあっけないほど短い上演時間の曲ですし、また前シテもほんの少ししか舞台に登場していないのですが、それにしては文言が練られているな、というのが稽古をしてみた感想です。ショー的な面白さを持った能であるからこそ、舞台設定も心理描写も最低限に抑えて、こだわることなくスピーディーに物語を展開させているのでしょう。ぬえ、稽古をしていてよく思うのですが、能というものは台本がとてもよく練られていますね。よくよく読み込みをしないと気づかないような、目に見えないような工夫があったり、仕掛けがあったり。先人はすごいなあ、と感心するばかり。
「構へて疑ひ給ふなと」と二足ワキへツメたシテ。これより地謡が謡い出して怒濤の中入となります。
地謡「返すがへすも約諾し。と正面に直し返すがへすも約諾し。さあらばあれに見えたる。と右ウケ杉一村に立ち寄りて。と三足出目を塞ぎ待ち給ひ。仏の御声の聞えなば。と面伏せ聞きその時。とワキへ向き両眼を開きて。よくよく御覧候へと。と少し出てサシ込ヒラキ言ふかと見れば雲霧と地謡急に進み、正ヘ二重ビラキ(右ウケ面ツカウも)。降り来る雨の足音ほろほろと歩み行く道のと七ツ拍子踏み。木の葉をさつと吹き上げて。と扇を開き正へ下より上へ二つ強くあおぎ上げ乍正ヘ出行き掛かり。谷に下り。と正の上をサシ右へ廻り角よりシテ柱へ到りかき消すやうに。失せにけりと小廻リ正へヒラキ、かき消すやうに失せにけり。と扇たたみ乍右トリ橋掛リへ行き 来序踏み中入
シテから「都東北院の辺にての御事」と言われてようやく気がついた僧。
ワキ「げにさる事のありしなり。また望みを叶へ給はん事。この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ。
シテ「それこそ易き御望みなれ。まことさやうに思し召さば。即ち拝ませ申すべしさりながら。尊しと思し召すならば。必ず我が為悪かるべし。構へて疑ひ給ふなと。
このあと間狂言の登場によって前シテの山伏が天狗の化身であること、「都東北院の辺にて」起こった事件とは、鳶に化けた天狗の命を僧が助けたこと、が物語られるわけですが、この問答の場面では僧の応対もまことにあっさりとしたもので…「げにさる事のありしなり」だけ。「あ、あれか」と言っているだけなのですが、思い起こしてみれば彼が助けたのは山伏ではなく鳶だったのであって、そうなるとこの山伏=鳶ということになり、すなわち人間ではないことに極まるのですが。もうちょっと驚いてくれても良いと思う。天狗さんも拍子抜けでしょう。
ま、とはいえ、このひと言で済ませてしまうあたりが、何事にも動じない高僧の威厳を表現するのでしょうし、第一ここでワキが「あ、それではあなたは天狗なんですね?」と言ってしまうと、それこそネタバレでもあるので、そういう計算はされて台本が作られているのかも。
それにしても「この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ」というのは名セリフですね。さきほどの「あ、あれか」に引き続いてですから、まさに修行三昧の徳の高い僧の姿です。世を捨て人であるから現世に欲しいものはないんですね。もったいない…
シテの言葉も「御望みの事候はゞ。刹那に叶へ申すべし」とか「それこそ易き御望みなれ」とか、神通力を持っている事が随所でほのめかされています。『大会』という能はあっけないほど短い上演時間の曲ですし、また前シテもほんの少ししか舞台に登場していないのですが、それにしては文言が練られているな、というのが稽古をしてみた感想です。ショー的な面白さを持った能であるからこそ、舞台設定も心理描写も最低限に抑えて、こだわることなくスピーディーに物語を展開させているのでしょう。ぬえ、稽古をしていてよく思うのですが、能というものは台本がとてもよく練られていますね。よくよく読み込みをしないと気づかないような、目に見えないような工夫があったり、仕掛けがあったり。先人はすごいなあ、と感心するばかり。
「構へて疑ひ給ふなと」と二足ワキへツメたシテ。これより地謡が謡い出して怒濤の中入となります。
地謡「返すがへすも約諾し。と正面に直し返すがへすも約諾し。さあらばあれに見えたる。と右ウケ杉一村に立ち寄りて。と三足出目を塞ぎ待ち給ひ。仏の御声の聞えなば。と面伏せ聞きその時。とワキへ向き両眼を開きて。よくよく御覧候へと。と少し出てサシ込ヒラキ言ふかと見れば雲霧と地謡急に進み、正ヘ二重ビラキ(右ウケ面ツカウも)。降り来る雨の足音ほろほろと歩み行く道のと七ツ拍子踏み。木の葉をさつと吹き上げて。と扇を開き正へ下より上へ二つ強くあおぎ上げ乍正ヘ出行き掛かり。谷に下り。と正の上をサシ右へ廻り角よりシテ柱へ到りかき消すやうに。失せにけりと小廻リ正へヒラキ、かき消すやうに失せにけり。と扇たたみ乍右トリ橋掛リへ行き 来序踏み中入