ぬえの能楽通信blog

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能のひとつの到達点…『大会』(その9)

2011-05-06 23:56:23 | 能楽
さて『大会』の間狂言ですが、じつは二種類の演じ方があります。ひとつは間狂言が一人だけ登場して「立ちシャベリ」をするもの、もう一つは三~四人が登場して寸劇や舞を見せるものです。

語られる内容としてはどちらも同じで、 ①彼らの眷属たる大天狗が命を失いかけたところを比叡山の僧正に助けられたその顛末。 ②大天狗はその報恩に山伏の姿となって僧正を訪れ、その望みを叶えるよう申し出たところ、僧正は釈迦如来の霊鷲山での説法の有様を見たいと答えたこと。 ③大天狗はこれを了解し、みずから釈迦の姿と変じて霊鷲山での大会を再現することになったこと。 ④そこで彼ら小天狗も菩薩や五百羅漢に化けて大天狗に協力すること。

①は前シテの間に明かされなかった、お客さまにとっての最大の疑問点で、『大会』という曲は間狂言のこの説明によってはじめて全体の意味が通じる構成になっています。現在の間狂言の文句は必ずしも『大会』が作られた当時のままに伝えられたものとは言い切れませんが、少なくとも骨子となる大意だけは能作者の意図を反映していると考えてよいでしょう。

②はまさに今舞台で演じられた前シテの有様で、③・④がこれから演じられる後シテの演技の予告という役割を果たしています。もっとも④の小天狗が化けた菩薩や五百羅漢は実際には舞台には登場せず、もっぱら地謡がその有様を謡うことで表現されます。

ちなみに『観世』誌(昭和62年12月号)に掲載された間狂言の詞章を以下にご紹介しておきます。この詞章は現在は廃絶した狂言の鷺流のもので、四人の小天狗が登場する形式のものですが、大蔵・和泉流ともこれと大きな相違はありません。

天狗三四人。
ヲモ「斯様に侯者は。比良野の嶺に住み給ふ次郎坊の御内なる溝越天狗にて侯。我等の是へ出づる事別の儀にても御座ない。
ツレ「えへん。 次ツレ「えへん。
ツレ「いやわごりよ達は何と思うてお出やつたぞ。
ツレ「何かは知らず。わごりよが急がしさうな体にてお出やるに依つて。両人是まで付いては出たが。様子は知らぬよ。次ツレ「身共もその通りぢや。
ヲモ「それならぱ様子を語つて聞かさう聞かしませ。ツレ「急いで語らしませ。
ヲモ「先頼み申す次郎坊は。先度鳶に成つて洛中洛外を飛行自在に翔り給へば、都東北院あたりの事なるに。大きな蜘珠の家のあるに行き掛り。切るも切られず外すも外されずして。中にかゝつてまぢまぢとして居給ふを。幼き者どもが是を見付け。こゝな蜘蛛の家に鳶こそ掛つたれとて。頓て捕へそのまま羽を抜かうといふ者もあり。いや唯締め殺せといふ者もある処へ。叡山の僧正の通りて御覧ぜられ。元より慈悲第一の御方なれば。その鳶をわれにくれよと仰せられ。今幼き者どもには扇数珠等を下され。自ら鳶を受け取り蜘蛛の家をよく取つて。其儘お放しやつたれば。二つ三つ身ぶるひして頼うだお方は帰られたが。なんぼうあぶない事ではなかつたか。
ツレ「げにと是はなあ。ツレニ人「なかなかあぶない事でおりやる。
ヲモ「さて次郎坊はこの恩を報じたく思はれ。山伏の姿に御身を現し。僧正の法味をなし給ふ折節。いつぞやは我等の命危く見えし処に。御憐みにより命助かり申す御芳志に。何にてもあれ御望みあるに於ては。刹那が聞に叶へ申さうずるとあれば。山伏の命を助けたる事は未だ覚えぬ由御申しあるを。都東北院の由申さるれば。さては其時の鳶は天狗にてありつるぞと。そこで思ひお当つやつた。処で何にてもわれこの世には望みはなしさりながら。釈尊霊鷺山にて御説法ありたる様体。眼前に於て見よ(ママ)く欲しきと宣へば。それこそ易き間の御事刹那が間こ(ママ)学ふで御目にかけ申さうずるとて。其儘飛んで御帰りある。かの釈尊の説法とやらんは。仏菩薩五百羅漢の数多いるとあるが。我等にも何ぞ一役請け取れとあらば。面々は何に成らうと思ふぞ。
ツレ「されば何がようおりやらうぞ。某は不動にならう。ヲモ「いやいや不動には成られまい。
次ツレ「某は仁王に成らう。ヲモ「仁王にもなられまい。
ツレ「それならば何仏がよからうぞ。
ヲモ「思ひ出した。堂の角なる賓頭盧にならう。ツレ二人「一段とようをりやらう。
ヲモ「即ち様子を謡ふ程に。そなた衆も謡はしませ。二人ツレ「心得た。
ヲモ謡「をかしき天狗は寄り合ひて 詞「をかしき天狗は寄り合ひて。何仏にか成らうやれと。談合するこそをかしけれ ヲモ「愛宕の地蔵にえならまし 同「大嶺葛城は法起菩薩。これ又大事の仏なり。よくよくものを案ずるに。堂の角なる賓頭盧に。成らんと皆紙衣を拵へて。皆紙衣を着つれつゝ。ごそりごそりと帰りけり。


面白いですね。最後の「をかしき天狗は…」以降は「おかしき天狗」として狂言小舞や狂言一調の形で独立して演じられることもあります。紙で作った衣を着て賓頭盧(びんずる)になる、という発想が楽しいです。神通力で変身するのではないんですね。

賓頭盧は十六羅漢の第一なのですがお釈迦さまの覚え悪く、涅槃に入ることを許されず、現世にとどまって衆生を救う役目を負うことになったとか。そのため尊像はお寺の本堂の隅や外に祀られる事が多いそうで、東大寺の大仏殿の外に置かれた巨大な座像が著名。日本では「なで仏」として「おびんずるさん」などとして親しまれていますが、庶民に親近感を持たれるお立場ですから賓頭盧さんも本望でしょうね~。