ぬえの能楽通信blog

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能のひとつの到達点…『大会』(その10)

2011-05-07 02:43:32 | 能楽
注目されるのは上記鷺流の詞章ではシテの素性を「比良野の嶺に住み給ふ次郎坊」としているところ。『観世』誌の別の月の号には大蔵流・和泉流の詞章も載っているのですが、それによれば大蔵流では「愛宕の大天狗」、和泉流では「愛宕山太郎坊」となっています。

能に出てくる天狗のシテは「愛宕山に住む太郎坊」と相場が決まっていまして、『鞍馬天狗』だけは鞍馬山の大天狗が牛若丸に兵法を授けたという伝説に取材した能ですのでそのような設定になっていますが、『車僧』の間狂言は諸流一致してシテを愛宕山の太郎坊と呼んでいますし、『善界』では仏教を妨害するために唐から渡ってきた天狗の善界坊(シテ)が「承り及びたる」愛宕山の太郎坊(ツレ)に案内を乞う、という設定になっています。『善界』では日本の天狗の首領というような位置づけで愛宕山の太郎坊は描かれているわけで、これと比べると『大会』の間狂言の鷺流の詞章だけが「比良野の嶺に住み給ふ次郎坊」としているのが突出して見えますね。理由まではわからないので、これまた今後の宿題という事で…(・_・、)

さて間狂言が退場すると、囃子方は「見合わせ」て後シテの登場音楽を打ちはじめます。こういった後シテの登場音楽が始まる前にはワキの「待謡」がある場合が多いですが、間狂言が「居語り」でない場合…すなわち舞台進行にしばらくワキが関わらない場合には「待謡」がない事が多いようです。その場合は登場音楽を打ち出すキッカケがなくなりますので、「見合わせ」…つまり囃子方が呼吸をそろえて打ち出すことになります。それでも能の囃子は「せ~の!」と一斉に音を出すわけではなくて、最初のクサリ…小節の中で打ち出す、あるいは吹き出すタイミング、拍数がそれぞれに定められているために、「見合わせる」とは楽器(能では「道具」と呼び慣わしていますが)をすぐに音が出せるように構えることを意味していまして、最初に演奏を始める人…多くは笛か太鼓…が音を出すと、次々に他の囃子方がその演奏に加わっていく、という感じになります。

ところで『大会』の後シテの登場音楽は観世流の場合「出端」あるいは「大ベシ」(ベシは「やまいだれ」に「悪」の字)と、両様になっています。このように2種類の登場音楽が用意されていて、シテの好みや演技の意図によって選択できる、という例は、まあ皆無ではないと思いますが、かなり珍しいと言えます。

なぜ2種類の登場音楽があるのかというと、『大会』の場合はまさに後シテの性格によるものでしょう。すなわち『大会』の後シテは「釈迦」に化けた「天狗」であって、ふたつの性格が混在している、という特殊な設定になっているのです。それに従ってシテがその役を勤めるうえでも、ふたつの性格のどちらに近いつもりで演じるのかによって気持ちは変わるはずで、「出端」が演奏される場合はシテはあくまで「釈迦」として登場しているつもり。「大ベシ」の場合では、シテの姿は釈迦であっても、それは仮の姿であって、本性は「天狗」であることは隠れようもない、という意味になって、シテの演技の幅に自由度を持たせているのですね。がんじがらめに思われやすい古典芸能ですけれども、意外やこのような演者の自由を尊重する例はとっても多いと思います。

「出端」は非常に応用力の広い登場音楽で、『高砂』のようにとても速く演奏してシテの颯爽とした登場を印象づけることもできれば、『鉄輪』『実盛』のようにゆっくりと、どっしりとした雰囲気で演奏することによって、シテの深い恨みや老武者の重厚な登場を演出することもできます。ただ、「釈迦如来」の登場には演奏の速度や気勢によって似合うような雰囲気が出せるのか、正直に言わせて頂ければ ぬえには疑問… もっとも、ほかの登場音楽を見てみても、釈迦の登場にピッタリなものはちょっと考えつかず、おそらく「出端」が『大会』の後シテの登場音楽に選ばれているのは、その汎用性そのもののゆえであろうと思います。言うなれば「そうでないもの」をあたかも「そうであるように」見せることを「演技力(演奏力)」の駆使に期待しているわけで、これは後に詳述しますけれども後シテの面の選択にも通底する思想ではあるまいか、と ぬえは思っています。