ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その20)

2011-05-18 02:14:07 | 能楽
もうひとつ、近来行われている『大会』の演出といえば、間狂言の大幅な工夫があります。

これは今から数年前に銕仙会と狂言・和泉流の野村家、そうして能楽研究者との共同の試みとして上演されたもので、今でも観世流では時折この方式による上演が行われています。

内容は、①能の冒頭に狂言方とワキによる寸劇が挿入されたこと、②間狂言の四人の木葉天狗が後場にも居残ったこと…この二つが大きな改変でした。

①は、現在では『大会』の能で前シテが中入りした後の間狂言が語ることによって初めてお客さまに明かされる内容…なぜ天狗がワキに命を助けられて報恩を決意したのか、を舞台の冒頭に説明することを目的に新たに創作された部分です。すなわち、能の冒頭に二人の京童(狂言方)が登場し、蜘蛛の巣にかかって墜落した鳶を捕獲するところを演じ、まさにその命を取らんとするとき、そこにワキが登場して殺生の戒めを説教します。それでも聞き入れない京童たちにワキは扇と数珠を与えて、ついに鳶を放させることに成功し、二人の京童は鳶を見送って退場。それからワキは常の通り脇座に下居して、「それ一代の教法は…」と謡い出します。鳶を助けたその後に庵室に戻ったワキが一人読経三昧の修行に入った体で、この部分の創作は『十訓抄』をそのまま舞台化する試みでした。

②は後場についての工夫で、謡本に描かれる内容をビジュアル化する試みです。すなわち、現行の演出では間狂言の木葉天狗は、みずからが仕える大天狗・太郎坊が釈迦の大会の有様を再現するその手伝いを命じられて、いろいろ思案のあげくに賓頭盧になることを決めて舞を舞って退場してしまって、後場はシテ一人が登場して大会の有様を演じるのですが、謡本に描かれている内容によれば、これらの小天狗たちはそれぞれ菩薩や龍神などに扮して雲霞のごとくに後シテの周囲に集まって、壮麗な大会の有様を実現することになっているのです。もちろんシテ一人しか登場しない現行の演出でも、大勢が登場している有様を地謡が謡いあげることによって、シテの意向を受けた数え切れないほどの小天狗たちは大会の景色として出演(?)しているのですが、これを目に見える形で舞台化するところが新演出の目的で、これは大変に面白いものです。

間狂言は常の通り談合して、菩薩や龍神などに化けて大天狗の手伝いをすることになるのですが、この新演出では四人の小天狗は実際に物着をして諸仏に扮するのです。このとき後見が舞台に持ち出す一畳台は常より多く二台を出し、椅子の作物も凝ったものです。そうして舞台に居残った小天狗の前に、やがて後シテが後シテが現れる、という。シテが一畳台の上の椅子の作物に腰掛けると、間狂言もその左右に二人ずつ着座して、合掌しています。まさに絢爛豪華な説法の場面が現出されるのですが、それがまた、妙にマジメくさった釈迦面を掛けた後シテと、狂言面を掛けた間狂言の取り合わせがなんともアンバランスで、天狗というどうも不器用な者たちによる「劇」が強調される演出だと思います。

…この演出は、ある種、『大会』の概念と一致しますね。この曲のひとつの見どころが天狗による釈迦の説法の有様の表現で、そのために釈迦面を使ったり、装束にもいろいろ工夫して、天狗が釈迦に見えるように苦心するのですが、それでも釈迦にしか見えない、完璧な装束着付けを目指しているのではありません。釈迦のようなんだけれど、どこか違う…後ろを向けば頭巾の下から赤頭のシッポがのぞいているし、両袖の袂からも狩衣の露が見えている…そんな不完全な天狗の化け方を目指しているのです。

さて大会の有様に扮した天狗たちですが、ワキが随喜の涙を流して合掌礼拝するにおよんで一転にわかにかき曇り、帝釈天の登場を予感すると、狂言方が演じる小天狗たちは一目散に退散してしまいます。ここが驚異的な演出で、四人の小天狗たちは切戸口と幕に別れて、それぞれ立ち上がらず、膝を屈めたままの体勢で、もの凄い速さで退場するのです。相当に足を鍛えていなければできない演出で、20数年前になりますが、おそらくその初演を拝見した ぬえはとても驚きました。こうして一人舞台に取り残された後シテ…大会の再現劇の首謀者が帝釈天と争って負ける、通常の演出につながります。

珍しい曲目に斬新な新演出。ぬえもせっかくの『大会』の上演の機会ですからここを目指したのですが、今回は ぬえのお相手をしてくださる間狂言のお流儀が野村家ではなかったので、いろいろとご相談はさせて頂いたのですが、結局この新演出の上演は見送ることになりました。そのこと自体は残念ではありましたが、見送るにあたって今回の狂言方の先生からは大変丁重なお断りを申されて、ぬえは これも古格を守るひとつの見識に感じられて、とても感動したのでありました。