すでに今回の上演における ぬえの工夫につきましては師匠にお許しも頂き、材料も買い込み(…え??)、またすでにツレ帝釈天との稽古も3度を数え、さらに今日は師匠から『大会』の稽古をつけて頂いたうえ、装束を出して後見とともに物着の打合せも致しました。
着々と準備は進んでいるようでありながら…実際に地謡を入れて稽古をしてみて初めて気がついた点もありまして、これから修正せねばならない箇所もいくつか発見されました。しかし本日の最も大きな収穫は、「なぜ大ベシ見のままで釈迦の役を勤めるのが本来の形であるのか」…その理由がわかった事でしょう。
これ…端的に言ってしまえば身もフタもない話なんですが…釈迦の姿から天狗の姿に変わる物着の時間が極端に短いから、というのが第一の理由だと思います。なんと言っても物着の時間はツレが登場する早笛の間だけしかありませんから…ひょっとすると1分もないかもしれません(!) これでは大がかりな装束替えには大変なリスクが伴ってしまいます。物着が間に合わなければ後場は全体が崩壊してしまいますから…
ここで釈迦→天狗への変身の物着の後見の手順を考えてみますと…まず「釈迦」の面を使った場合は、
①持ち物(数珠・経巻)を引く、②掛絡を取る、③大会頭巾を取る、④釈迦面を取る、⑤大水衣を取る、⑥羽団扇を持たせる、⑦被衣をかづかせる …の七つの手順。これは1分ではかなり苦しいですね~
一方 大成版の装束付によれば面は「大ベシ見」のまま替えないわけですから、上記と比べると「④」の手順だけが省略される…か。案外変わらないものですね。しかし ぬえの師家の装束付によれば「大水衣ヲ重ネルモ」…ですから重ね着をしないのが本来。そうして掛絡についても「ナシニモ」ですから、本来はあるけれども着ない演出でも良い、ということになり、そうなると上記のうち「④」ばかりではなく「②」「⑤」も省略できる可能性がある…要するに四つの手順だけで物着が完了することになります。これならずいぶん後見は楽でしょう。
まあ、実際には現在『大会』で「釈迦」面を掛けないで「大ベシ見」だけで演じた例を ぬえは見たことがありませんから、後見は大変で、まず中入で天狗と釈迦の二人分の装束の着付けを完了させ、さらに舞台上の物着で(1分以内で)釈迦の扮装を解いて天狗姿にしなければなりません。楽屋で大急ぎで着けた装束を舞台上でこれまた大急ぎで脱がす、というような手順になり、「それなら最初から着なければいいじゃんかよ~」(×_×;) と言う後見の声が聞こえそう。ああ、そうか。だから釈迦面を使わないのが本来なんですね!(違)
冗談はともかく、この物着の後見の心労は大変なものでしょう。それだからか、後見が上記の七つの手順のうち一つを忘れて、地謡が大声で注意した例を ぬえは見たことがあります。大声と言っても物着の場所は地謡のすぐ目の前、そうして囃子方が大音量で早笛を演奏中の場面ですから、お客さまは気づかれなかっただろうとは思いますが、大忙しの時間の中で物着の手順のあまりの多さに、後見もついついミスを犯してしまいかけたところを地謡から注意が飛んだ、ということだと思いますが、それほどに大変な役目だということです。
さて前回、このブログでは本来の演出を基本にしてご説明させて頂くことを宣言致しましたから、以下それに沿って舞台面を見て参りましょう。
「出端」あるいは「大ベシ」の囃子で登場した後シテは、重厚な様子で橋掛リを歩んで一之松に止まり正面を向きます。右手には数珠を提げ持ち、左手には経巻を高く掲げ持っています。この橋掛リの歩み方からして、シテとしては悩ましいですね~。天狗の感じで演じるのであれば、やや大股で豪壮な感じで出たいし…とは言ってもいつものように羽団扇を前へ高く掲げて持っていませんので、やや右半身になって歩むわけにもいかない。それでは釈迦のつもりで、しゃなりしゃなりと(…いや、それが釈迦にふさわしいのか知りませんが…)、歩むのか? それでは「出端」はともかく「大ベシ」とは合わないと思いますし。ここはその中を取って、「気持ちは大天狗、姿は釈迦」という心持ちでしょうか。
着々と準備は進んでいるようでありながら…実際に地謡を入れて稽古をしてみて初めて気がついた点もありまして、これから修正せねばならない箇所もいくつか発見されました。しかし本日の最も大きな収穫は、「なぜ大ベシ見のままで釈迦の役を勤めるのが本来の形であるのか」…その理由がわかった事でしょう。
これ…端的に言ってしまえば身もフタもない話なんですが…釈迦の姿から天狗の姿に変わる物着の時間が極端に短いから、というのが第一の理由だと思います。なんと言っても物着の時間はツレが登場する早笛の間だけしかありませんから…ひょっとすると1分もないかもしれません(!) これでは大がかりな装束替えには大変なリスクが伴ってしまいます。物着が間に合わなければ後場は全体が崩壊してしまいますから…
ここで釈迦→天狗への変身の物着の後見の手順を考えてみますと…まず「釈迦」の面を使った場合は、
①持ち物(数珠・経巻)を引く、②掛絡を取る、③大会頭巾を取る、④釈迦面を取る、⑤大水衣を取る、⑥羽団扇を持たせる、⑦被衣をかづかせる …の七つの手順。これは1分ではかなり苦しいですね~
一方 大成版の装束付によれば面は「大ベシ見」のまま替えないわけですから、上記と比べると「④」の手順だけが省略される…か。案外変わらないものですね。しかし ぬえの師家の装束付によれば「大水衣ヲ重ネルモ」…ですから重ね着をしないのが本来。そうして掛絡についても「ナシニモ」ですから、本来はあるけれども着ない演出でも良い、ということになり、そうなると上記のうち「④」ばかりではなく「②」「⑤」も省略できる可能性がある…要するに四つの手順だけで物着が完了することになります。これならずいぶん後見は楽でしょう。
まあ、実際には現在『大会』で「釈迦」面を掛けないで「大ベシ見」だけで演じた例を ぬえは見たことがありませんから、後見は大変で、まず中入で天狗と釈迦の二人分の装束の着付けを完了させ、さらに舞台上の物着で(1分以内で)釈迦の扮装を解いて天狗姿にしなければなりません。楽屋で大急ぎで着けた装束を舞台上でこれまた大急ぎで脱がす、というような手順になり、「それなら最初から着なければいいじゃんかよ~」(×_×;) と言う後見の声が聞こえそう。ああ、そうか。だから釈迦面を使わないのが本来なんですね!(違)
冗談はともかく、この物着の後見の心労は大変なものでしょう。それだからか、後見が上記の七つの手順のうち一つを忘れて、地謡が大声で注意した例を ぬえは見たことがあります。大声と言っても物着の場所は地謡のすぐ目の前、そうして囃子方が大音量で早笛を演奏中の場面ですから、お客さまは気づかれなかっただろうとは思いますが、大忙しの時間の中で物着の手順のあまりの多さに、後見もついついミスを犯してしまいかけたところを地謡から注意が飛んだ、ということだと思いますが、それほどに大変な役目だということです。
さて前回、このブログでは本来の演出を基本にしてご説明させて頂くことを宣言致しましたから、以下それに沿って舞台面を見て参りましょう。
「出端」あるいは「大ベシ」の囃子で登場した後シテは、重厚な様子で橋掛リを歩んで一之松に止まり正面を向きます。右手には数珠を提げ持ち、左手には経巻を高く掲げ持っています。この橋掛リの歩み方からして、シテとしては悩ましいですね~。天狗の感じで演じるのであれば、やや大股で豪壮な感じで出たいし…とは言ってもいつものように羽団扇を前へ高く掲げて持っていませんので、やや右半身になって歩むわけにもいかない。それでは釈迦のつもりで、しゃなりしゃなりと(…いや、それが釈迦にふさわしいのか知りませんが…)、歩むのか? それでは「出端」はともかく「大ベシ」とは合わないと思いますし。ここはその中を取って、「気持ちは大天狗、姿は釈迦」という心持ちでしょうか。