ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その19)

2011-05-17 01:07:54 | 能楽
さて ぬえの『大会』の上演もいよいよ目の前に迫ってきました。明日はもう申合です~。
今回と次回は『大会』をめぐる問題についてお話してみようと思います。

【釈迦面を使う演出について】

前述のように観世流では本来後シテは「大ベシ見」の面ひとつで釈迦如来も演じることになっています。いま観世流では、と書きましたが、じつは『大会』の後シテに大ベシ見の上に釈迦の面を重ねるのは喜多流の専売特許だったようです。それを、見た目の「解りやすさ」から他の流儀も喜多流を倣うようになったようです。(もっとも現代で日常的に釈迦面を使うようになっているのは観世と金剛流のようですが)

釈迦の面は、ほかのどの能面とも異なる面ですね。能面はすべて独創的な造形で、多少の先行面の影響はあったとしても、能面としてはすでにそこからは独立して独自の主張を持って作られているものです。ところが釈迦面だけは仏像をそのまま写した、金色の顔の造形…これは古い釈迦面が存在しない事からもわかるように、比較的近い時代…おそらく近世になってから、天狗が釈迦に化ける、というこの能の脚本をリアルに舞台上に投影するために喜多流で創作された演出だからなのでしょうね。

元々大きな造形の大ベシ見の面を隠すための面ですから非常に大ぶりで、面紐を後頭部に結んで着ける能面に共通した特長を備えている点を除けば、まるで伎楽面のようです。しかし注目すべきはやはり釈迦面が仏像そのままの造作であることで、それはこの面の表情自体は演技として主張を持たない、という事だと思います。この後シテは釈迦如来本人ではなく、あくまでそれに扮している天狗ですから、天狗が神通力によって顔を釈迦のように変化させているとしても、その顔はあくまで天狗の本性とは別であって、その意味では「仮面」であるわけで、それだからこそ釈迦面は破綻が起きないように懸命に神妙に演じている天狗が扮する釈迦如来、という以上の主張をしていない、ということを表す面なのです。この点、蛇体から菩薩へと変身するために、やはり般若と増女のふたつの能面を重ねる『現在七面』とは決定的に違っています。『現在七面』では蛇身も菩薩も、どちらもシテの持っている真実の顔ですからね。

ところで「釈迦面を使わず大ベシ見だけで釈迦を演じることが、演者の芸力を駆使する正攻法の演じ方」「釈迦面を使うのは一種のケレン」というような言われ方がされることがあるようですが、今回稽古を通じて ぬえが感じたのは、それとはちょっと違う考えでした。要するに、二面を重ねずに大ベシ見だけで釈迦と天狗を演じ分ける演出が本来の演出として採られた最大の理由は、釈迦から天狗の姿に戻る物着の時間があまりにも短いから、なのだと思うのです。同じく二面を重ねて掛ける『現在七面』の物着には「イロエ」という囃子が用意されていて、支度が出来上がったのを見てから次の場面に移るようになっていますが、『大会』では1分足らずの早笛があるだけで、場面としてもここに物着のために「イロエ」を入れるのは無理。そうなると、面を替えるのはかなりのリスクが伴うことになります。そういう事情もあって、それから大ベシ見の面だけで釈迦を演じる、その不器用さが天狗の人間味に通じる、と考えられて、あえて大ベシ見の面で二つの役を演じ分けるこの演出が、この能が作られた当時から採用されたのではないか、と ぬえは思います。

ぬえは、大ベシ見のままで釈迦を演じることにも魅力を感じますが、もともとおとぎ話のようなこういう曲では、釈迦面を使って演じるのが解りやすく面白い演出だと思いますね。後見は大変ですけれども…

ところが、いざ釈迦面を掛けたら、あまりの視界の悪さにビックリ。『現在七面』のときはあまり不自由は感じなかったけれども、今回の稽古では、正直、泣きそうでした。「今回ばかりは…舞台から落ちるかもしれない…」

…その後稽古をしているうちに歩き方や自分の立ち位置の把握のコツもつかみまして、ようやく最近、少し安心することができました。やっぱり正解は稽古の中にしか見いだせないのね~…