ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『大会』…終わりました~(その5) 吉谷潔くんのこと

2011-05-25 02:17:59 | 能楽
ところで今回の ぬえの『大会』で太鼓を打ってくれたのは、ぬえの書生時代の頃から苦楽をともにした親友、吉谷潔くんでした。福岡に帰ってしまって以来、ぬえのお相手をお願いしたのは10年ぶりになるかなあ。…さあて、どんな風に変わったのかなあ、と思いながら楽しみにして申合に臨みました。腕が落ちていたら罵詈雑言を浴びせかけてやろうと思って。(`_´) …そしたら彼、とんでもなく上手になっていました。驚いた。

ぬえの書生時代、小鼓の稽古で一緒になったのが吉谷くんとの出会いの始めでした。…その頃は修業時代ですから、毎日つらいことばかりで…。師匠のお宅から外出できるのもこの囃子の稽古の時ぐらい、という有様で、小鼓の稽古は、稽古ではありながら唯一の息抜きの場所でもあったように思います。そのうえ小鼓の師匠・故 穂高光晴師には本当にいろいろな事を教わって…シテ方としては普通は囃子は1~2年程度出稽古に通って、ひととおりの知識を速成して教えて頂くものですが、ぬえは小鼓だけは内弟子を卒業してからも通い続けて、結局17年間も習いに通ってしまいました。その稽古が終わった理由も、穂高師が逝去されたからだった、という…ぬえにとって人生の師と呼べる方です。

その小鼓の稽古場で、同じく太鼓方の書生として小鼓を習いに来た吉谷くんと初めて会ったのですが、書生同士ということでほどなくうち解けて、彼が鼓を打つ時は ぬえが謡を謡い、ぬえが打つときは彼が謡う、という感じで、常に一緒に稽古をしていました。で、結局彼もまた穂高師の稽古が性に合ったのか、ぬえと同じ年月を一緒に稽古に通うことになったと。(^_^;)

いや~書生時代は彼とはケンカばかりしていました。小鼓の稽古日だけは ぬえも彼も師匠のもとに帰るのが遅くなっても許されたので、稽古のあとは必ず二人で飲んで。能について熱く語り合う…までなら良かったんですが、そのうち意見が対立して、売り言葉に買い言葉…ついに「オマエの太鼓なんかじゃオレは舞えないんだよっ」「なんだと! テメエの謡じゃ太鼓が打てないぞ」「なにぃ。。表へ出ろ!」「上等だ!」…毎回こんな。(^◇^;)… 逆に「もう、こんな仕事辞めてやる!(;>_<;)」「まあまあ…\(^_^;)」…なんていう事もあって、これは役割を替えて慰めあったことがお互いに何度も…

でも、意見の対立の原因となった能についての解釈とか、自分たちが進むべき能楽師としてのあり方、将来の展望…そういう意見の対立には結論も出ない事も多く、また後に修行を進めてきてわかった事ですが、対立した二人の意見のどちらも正解ではなかったり…そんなもんです。そんなにケンカした割には翌日にはケロッと忘れていて、「ねえ、次の稽古日にはキミ、どの曲を稽古するんだっけ?」なんて電話したりしてる。…若いってスバラシイ。 彼を通じて、シテ方とはまたちょっと違う能の見方とかスタンスの違いも知ったし、シテの独善ではダメで、囃子方の目指すところと協力しながら、どうやって1曲の能を舞うべきなのか、といろいろ考えるところもありました。

そんな事で、東京で ぬえがシテを舞うときは必ずお相手は吉谷くんでしたね。ぬえ自身の催しでもいつも彼を指名してお相手を願ったし、師匠も彼と仲がよいことはご承知で「どうせアイツと演りたんだろ?」なんて仰って、吉谷くんをお相手にする番組を組んで下さいました。ですから ぬえが彼と一緒に舞台を勤めたのは、初シテは言うに及ばず、『猩々乱』『望月』『石橋』そして『道成寺』と、披キものの曲は ほぼすべて彼がお相手。ぬえの独立披露能も、主宰会「ぬえの会」のお相手も、み~んな彼なんですよね~。

そんな吉谷くんですが、もう10年前になりますが、故郷である福岡に帰ることになりました。結局『道成寺』の披キ(ぬえ…このときはホントに命を賭けてしまいました…)のお相手が最後となって、先日の『大会』が、それからじつに10年ぶりにお相手を願う機会となったのです。