ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その8)

2011-05-05 08:21:36 | 能楽
「来序」というのは中入に際して太鼓を中心に笛・小鼓・大鼓の四つの楽器が演奏する、荘重な囃子です。きわめて間の取り方が大きく、そうして神秘的で荘重。中入する前シテ(やツレ)は橋掛リに赴き、囃子が大きく間を取って打つ打音…我々の言葉で「粒」と呼びますが…に合わせて、つま先を上げる、また下ろす、などの足遣いをいくつか踏んでから幕に入ります。とても儀式的な手順を踏む中入の演出で、そのためか来序は神仙の役の中入に多く使われ、とくに『養老』『賀茂』『嵐山』のような脇能や『玄象』『春日龍神』『合浦』などのような切能によく使われます。

…がしかし、同じ脇能でも『高砂』や『老松』には来序はないし、切能でも『土蜘蛛』『野守』『殺生石』など来序を持たない曲は多い…ようするに来序で中入するシテの性格は一様ではないのです。それは即ち、シテが誰であるか、というような、シテの役柄の個性と来序は実はあまり関係がない、と言ってよいと思います。

では来序が中入に用いられる条件は何なのか、といいますと、それはシテではなく、間狂言の性格によって来序が用いられるのであろうと ぬえは思っています。どういう事なのかというと、シテ(やツレ)が荘重な来序で幕の中に中入すると、囃子は一転、軽快な、なんというかちょっとコミカルな感じの「狂言来序」に変わります。そうして幕から登場した間狂言が舞台に入ると狂言来序も打ち止め、間狂言は発言を始める、というのが来序~狂言来序に到る定型の演出なのです。この場合間狂言はワキとは言葉を交わすことなく、立ったままで物語をし、あるいは寸劇とか舞を舞う、というように、間狂言の動作にも定型があります。

そうして来序で登場する間狂言は、異界の者である後シテの眷属…たとえば末社間や木葉天狗のような、人間ではない役です(例外あり)。このあたり、前シテが舞台にいる間に目立たぬように橋掛リの狂言座に控えていて、前シテが中入りすると里人など市井の人間という立場で舞台に入って、ワキと問答を交わして、その所望のままに昔物語をする、という、いわゆる「居語り」と呼ばれる演出で登場する間狂言とはずいぶん意味を異にしています。

…むしろ狂言来序で登場する間狂言の役は、「早鼓」で「忙しや忙しや」と小走りに登場する間狂言と似ていると思いますね。乱暴なくくり方をすれば、その役が人間であれば「早鼓」、そうでなければ「狂言来序」で登場する、と言うことができるでしょうか。…もっとも「早鼓」にはまた別の性格もありますから単純には言えないことなのですけれども…たとえば『土蜘蛛』では「早鼓」は二度打たれますし、その最初の早鼓で登場するのは間狂言ではなくてワキなのですから…

また来序にしてみても『右近』『難波』では観世流のみが「来序ナシ」で、その他のお流儀ではすべて来序が打たれますから、間狂言の性格だけが理由で、いわばシテ(やツレ)がそれに「おつきあい」するような形で来序を踏んで中入する、と言い切ることも難しいです。このあたりも ぬえの不勉強でして、もう少しきちんと調べてみる必要がありますね~

ともあれ『大会』『車僧』『善界』『鞍馬天狗』…と、天狗物の能では間狂言が「木葉天狗」「溝越天狗」といった小物の天狗という点で一致していまして、これらの曲では等しく来序が打たれて前シテが中入し、ついで狂言来序で間狂言が登場することになります。