ぬえの能楽通信blog

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能のひとつの到達点…『大会』(その13)

2011-05-11 01:03:13 | 能楽
橋掛リ一之松に止まって正面を向いた後シテは、経巻を捧げ持ったまま謡い出します。

後シテ「それ山は小さき土塊を生ず。かるが故に高き事をなし。海は細き流を厭はず故に。深き事をなす。
地謡「不思議や虚空に音楽響き。不思議や虚空に音楽響き。仏の御声。あらたに聞ゆ。両眼を開き。辺りを見れば。
シテ「山は即ち霊山となり。地謡「大地は金瑠璃。シテ「木はまた七重宝樹となつて。
地謡「釈迦如来獅子の座に現れ給へば。普賢文殊。左右に居給へり。菩薩聖衆。雲霞の如く。砂の上には龍神八部。おのおの拝し囲繞せり。


この謡い出しの文句、じつは『大会』の本説である『十訓抄』の冒頭の部分からの引用です。しかも誤写があって、少々意味が通じない文句になっちゃっています。(^◇^;) 山が土塊(つちくれ)を生じたんではそれは「風化」で、風化が進めば山は低くなってしまいますもんね。ぬえもずっと意味を図りかねていました。

『十訓抄』の本文(第一 人に恵を施すべき事)では「山は小さき壌(つちくれ)を譲らず、この故に高きことをなす。海は細き流れをいとはず、この故に深きことをなす」と記されていて、意味としては「人の本質を見抜かずにみだりに軽んじてはならない」ということでしょう。「人に恵を施すべき事」という題とはちょっとズレていますが、『十訓抄』全体に章段のテーマと例として挙げられた説話との間に混乱が見られるようですから、まあ、あんまり拘泥しなくてもよいかと。

「金瑠璃」は浄土のことですが、在世の釈迦如来が説法をした霊鷲山をそのまま浄土とする信仰があって、それに即した語。「七重宝樹」は浄土にあるという金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚・瑪瑙・硨磲の樹。『鶴亀』などに描かれる王宮の壮麗さの表現にこれらの言葉が使われているのも、浄土との連想を狙ったものなんですね。「獅子の座」は百獣の王である獅子のように尊い仏や高僧が座るところ。「普賢文殊」の両菩薩は釈迦像の両脇侍、「龍神八部」は天や龍、夜叉、阿修羅などの仏教の守護神たち。これらの言葉によってお寺にあって親しみのある(?)「釈迦三尊像」が描く浄土を舞台化しようとするのでしょう。

型としては「海は」と右ウケして遠くを見、また「木はまた七重宝樹となつて」とサシ込ヒラキがある程度。「釈迦如来獅子の座に」と左に歩み行き舞台に入り、角柱の手前まで出てから一畳台の方へ向き行き、椅子の作物の中へ上がって正面に向き直し、床几に掛かります。

シテ「迦葉阿難の大声聞。
地謡「迦葉阿難の大声聞は。一面に座せり。空より四種の。花降り下り。天人雲に連なり微妙の音楽を奏す。如来肝心の。法門を説き給ふ。げにありがたき気色かな。


「迦葉」「阿難」はともに釈迦の十大弟子。とくに迦葉は第一回の仏典結集呼び掛けた人物として有名です。「大声聞」の「声聞(しょうもん)」は仏の声を聞く…仏弟子のこと。「四種の花」は仏の説法のときなどに空から降るという四種の蓮華。仏の功徳を讃える天人が空中に遊んで音楽を奏する様子は、平等院鳳凰堂の、あの飛天のような感じでしょうか。

シテは「空より四種の」と上を見廻し、「如来肝心の」と左手に持った経巻を開いて両手に持ち、説法をする心でこれに見入ります。