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Photo by Ume氏
この写真も、快晴の2日に撮られた八ヶ岳で、右から主峰赤岳、次はその手前になるが阿弥陀岳、そして横岳、硫黄岳と続く。新雪の八ヶ岳をここから目にするのは珍しいが、この姿こそ正装と呼んでも差し支えないだろう。
八ヶ岳の山域では、登った回数が最も多いのが阿弥陀岳で、それだけに様々な思い出や懐かしさがある。前にも呟いたが、幕営を伴う初の冬山はこの南陵だったと記憶している。もちろんもう、何十年も前の話だ。
あのころは装備も貧弱で、かまぼこ型のテントを二重にして極寒の夜に耐えた。風を遮る上衣も、今のような防水を兼ねた素材ではなかったから、水分の多い霙だったりするとかなり危険な状態に陥る心配があった。当時は国産の羽毛服(=ダウンジャケット)などなく高価でもあり、今のように手軽に手には入らなかった。一番重要とも言える靴も防水機能が弱く、オーバーシューズを履き、アイゼンといういで立ちだった。
いつしか山も、そこを訪れる人も、半世紀ほどの間に大きく変わった。中高年の登山者など見掛けることはまずなかったが、今はかなり年齢のいった人が目に付く。若かったころの思い出を忘れられず、山に復帰した人が多いだろうも、それを支え、後押しするのが用具、用品の進歩であると思って見ている。
「岩を染めてたヒーローたちも、やがてみんな消え去った」という古い山の歌があるが、今の中高年に続く世代はどうなるのだろうか。スキーのように、ゲレンデに人影が薄くなったのと同じ道を辿るのだろうか。
前回、オリンピックにクライミングが競技として加わった。あれはメダルの可能性を重視した、山とはあまり関りのない人が決めたことだろう。今後も競技に採用されるかは分からないが、どうであれあまり興味がない。山は個人が主体であり、競ったり、運動能力をひけらかす場所ではないと思っている。競技者としての能力は認めても、他の陸上競技と変わらない。
それと、山と比べてあの競技には物語性が乏しい。自然には多様な相貌、顔があり、美しさであれ、酷しさであれ、人との対話が生まれ、もっと言えば、日常にはない死がそこにある。
登山は先鋭化すればするほど死に近づく。登り切れるか、攀じり切れるかは、その人のすべてにかかっている。別の人が見たら、「何だあんな所でモタモタして」ということもあるだろう。そういう無様な体験もしたし、また目にもしてきた。
しかしそれでも山がどこであれ、それぞれが手にした達成感に優劣はないはずだ。その自然が与えてくれる公平さが、山の魅力ではないかと思っている。違うだろうか。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。