それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたおつべきや。我やさき人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人はもとのしずく、末の露よりもしげしといへり。されば朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほいうしなひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)のけむりなしはてぬれば、ただ白骨(びゃっこつ)のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。 蓮如上人「御文章」白骨の章より
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この白骨の章は小さい頃からよくよく聞かされてきました。お坊さんが先祖様のご供養に我が家にお出でになって仏壇で読経をされます。それが終わるとぐるりと向きを変えて御文章を声高に読まれます。集まって来た人たちは低頭して拝聴します。
わたしは古稀を過ぎましたからもはや紅顔ではありません。桃李の装いもありません。無常の風が吹いてくればふたつの眼が閉じて一つの息が止まります。抵抗はできません。これはもう間近に迫っていることです。
この白骨の章はこの後、「たれの人もはやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏を申しべきなり」と続いています。ここがこの章の結論です。後生の一大事とは死んだ後の往生成仏のことです。<死とはどういうことか><死後何処へ行くか><行った先でどうなるのか>の重要案件を解決して、ここで堂々の安心を得ておけということを勧めています。
自力では死ねません。死ぬ力はわたしにありません。死なせていただくよりほかありません。生まれてくる力も死ぬ力も他力です。しかあらしめられるしか手立てがありません。他力がわたしに届いてきてくださるのでおまかせをしていればいいことになっています。死後の一大事の解決、これもわたしの力の及ぶ範囲にはありません。阿弥陀仏を深くたのみまいらせていることが唯一の解決法です。念仏を申す身にしてくださるときに念仏の声が生まれ出ます。御文章はそれを教えています。
おおいなる力といふが届き来てわれに阿弥陀の仏たのます 李野うと
「仏をたのむ」とはこちらが要求をするということではありません。おまかせをしてしまうということです。南無も帰命も「あなたまかせ」です。それをそうしてくださる宇宙大の大きな大きな歯車(これをダンマと言います)が回っているので、不安も安心ももろともそれに預けてしまうしかありません。
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わたしが生まれた時刻は/わたしが死んだ時刻と/同時刻/わたしが死んだ場所は/わたしが生まれた場所と/同じ場所/ここは広々として/果てしがない現在/果てしがない光が/隈無く輝いており/果てしがない寿命が/果てしもなく活動をしている/同じ空間と同じ時間をそのままにして/わたしの舞台が回る回る/死を見て生を見て/わたしの自転が/大きな大きな公転をして行く/この果てしがない向上を/楽しんでいるわたしの永遠性